崖の下のボブ
寿甘
アリスからボブへ
『アリスからボブへメッセージを送る』
これは、俺達の決まり文句。二人の間でだけ伝わる暗号で文章を送っているのだ。俺はアリスと名乗っているが、れっきとした男だ。アリスとボブというのは、暗号通信の説明などでよく使われる名称で、要するにA(Alice)からB(Bob)へと情報を送る事を、人名を使って分かりやすくしているのだ。
ボブが何者かは分からない。無線通信で文字だけのメッセージをやり取りする仲だ。
俺がボブと知り合ったのは偶然だった。電波を飛ばして、ちょっと離れたところにいる相手に、声ではなく文字のメールを送れるという、なんとも微妙な機能を持つ機械を手に入れた俺は、試しに無差別でメールを送ってみた。
『誰かこれやってる人いない?』
すると、一通の返事が来た。
『おお、他にも持ってる人いたんだ!』
どうやら相手も使い道のよく分からない機械を持て余している様子だった。それがボブとの出会いだ。
最初は無線通話に習ってアルファとブラボーを名乗り、たわいのない日常の出来事なんかをやり取りしていた。
ある時、二人だけの会話をするのに暗号化技術が使われているというこの機械の機能を知り、暗号通信の事を調べたらアリスとボブという名前がよく使われると知った。
その時から俺がアリス、相手がボブと名乗るようになって、冒頭のメッセージを最初に付けるようになった。
『聞いてよボブ。今日学校で英語の抜き打ちテストがあってさー、散々だったよ』
『アリスは英語が苦手なのかい? いい勉強法を教えようか、外国人の恋人を作るんだ』
『無茶言うな』
『HAHAHA』
『いきなり外国人っぽく笑うな。まったくボブは……』
俺はいつも気さくに返事をしてくれるボブにメッセージを送るのが楽しくて、いつも自分の事ばかり伝えていた。だから、ボブの事は本当に何も分からない。
でも、ボブは俺にとってかけがえのない友人だ。いつかこんな機械越しなんかじゃなく、顔を合わせて話をしてみたいと思っている。
一度、どこに住んでいるか聞いたら、崖の下にいるって言っていた。
俺達が住んでいる場所はちょっと変わった地形をしていて、かなりの高さがある崖の上と下にそれぞれ町がある。地図の上ではほんの数十メートルの距離、だけど実際に行こうとしたら数十キロメートルの距離を移動しないといけない。
まだ中学生の俺には、そんな距離を移動するのも難しい。いつか、自分の力で崖の下に行ける日を夢見ながら、たわいのないメッセージを送り続けている。
正体の分からない相手になかなか会えないとなったら、妄想が膨らんでくる。
ボブって何歳なんだろう?
実は美少女だったりして!
詮索したら、この楽しい時間が壊れてしまいそうで、聞けない。
何より、夢を叶えた時の楽しみに取っておきたい気持ちがあった。
『いつか崖の下のボブに会いに行きたいな』
『うん、いつでもおいで。アリスの好きなエクレアを用意して待ってるよ』
そんな事まで教えていたっけ? 話が楽しくて自分の事ばかり伝えていたからな。
『ボブは何が好きなの? お土産に持っていくよ』
『そうだね……せんべいが好きだな』
『なにそれ渋い』
『HAHAHA』
大人にとってはそれほど遠くもない距離が、中学生の俺には果てしなく遠かった。この楽しい会話がある日突然出来なくなってしまったら。そんな不安に駆られて一度、ボブに秘密で崖の下を目指した事がある。
自転車に乗って長い道路を走ったアリスは、知らない町に入ったら不思議の国に迷い込んだような気分になった。不思議の国のアリスは目的を忘れ、怖くなって家を目指した。
「いつか、絶対会いに行くからな!」
家に帰った崖の上のアリスは、崖の下のボブに向かって呼びかける。
いつかきっと、会いに行くんだと心に誓って。
――そんなアリスを、ボブが優しく見守っていたと知るのは数年後だ。
崖の下のボブ 寿甘 @aderans
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