無題

外街アリス

第1話

仕事を終えた私は、いつものように駅へ向かう道を歩いていた。


下水道と排気ガスの匂いが立ち込める一帯を抜け、家路を目指す。


飛行機のジェット音に立ち止まり、鉛の空を見上げる。

飛行機が雲の中を進んでいる。雲を抜けても、また次の雲の中。


この雲は、一体どこまで広がっているのだろう。

この飛行機はどこへ向かっているのだろう。


今の私みたいだ、と、ふと思う。

決められた航路を走っているけれど、外の景色など見る事もできない。いつまで走り続けていられるかも分からない。


飛行機は分厚い雲に隠れ、どこに向かっているのかも見えなくなってしまう。


突然、肩に衝撃を受けた。

声も出ず、息が漏れる。

振り返ると、顔を顰めた初老の男と目が合う。

男は舌打ちだけ残して去っていった。


家に帰らないと。

駅への歩みを進める。

この大通りでは、若者達が時たま路上でパフォーマンスをしている。今日の様な週末には、その数は特に増えて街は喧しさを増す。

いつもの様にヘッドフォンを付けようと鞄を漁るが、そこにあるはずの黒い塊が見当たらない。


足を速めようとした時、その音は聞こえてきた。


それはあまりに哀しくて。孤独で。


私と同じだ。



気づけば足を止めていた。



一瞬、その音の主と目が合う。


その瞳の暗さに、ぞくりとした。


今の今まで、そこにいた事にすら気付かなかった。

雑踏の中に溶け込み、消えてしまいそうなほど希薄な存在感。

夜の闇を凝縮したようなワンピースに身を包み、背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪。

その隙間から覗く、白雪の肌と伏し目がちな眼差しを宿した端正な顔。


右手の先から、彼女の音色が響き渡る。

鉄弦が震えて、音が産まれる。

昏い昏い和音が鼓膜を支配する。


音に合わせ、彼女の身体が小さく揺れている。

髪が街明かりを反射しキラキラと輝く。

足元に目を向けると、黒いローヒールを履いた爪先が複雑なリズムを奏でている。


突然、生暖かい風が吹いた。

燃焼されたガソリンの匂いに混じって、ふわり、ジャスミンとムスクが香る。彼女の香水だろうか。

その匂いに、全身の血流が脈打つのを感じた。

胸がうるさい。顔にまで熱が集まって、きっと真っ赤になっているだろう。


この顔を見られまいと俯きながら、慌てて鞄の中を漁る。

空のマッチ箱の中に100円玉をありったけ詰め込み、彼女の足元近くに置いて走り出す。



何だこれは。


何だこれは。


パスケースをタッチして改札を駆け抜け、丁度よく来た電車に飛び乗った。


一駅が過ぎ、二駅が過ぎる。


それでも心臓は鳴り止まない。


その音はあまりにも繊細で孤独で、私と同じような。


声にならない声を上げている。


そんな音だったから。



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