第4話 模造悪夢
成人男性の声で……これほどの叫び方、尋常ではない。
慌てて振り返ると、そこには鎧姿の男が、巨大な蟹のハサミにとらえられている姿があった。
「たすけ……ぐえええ……」
鎧はハサミの圧力で、胴からアルミ缶のようにひしゃげていく。
「な……ストーカークラブ……!?」
俺はあの化け蟹を知っている。
モンスターの出現しないこの『等しき地』で唯一例外的に現れる敵。正確には、どこまで逃げてもついてくる安全地帯の無い敵だ。
弱点は目と目の間。ハサミの振り回し攻撃の後のスキは12F……全部、俺が決めたことだ。
そう、全部わかっている。
このままだとあの男が死んでしまうのもわかっている。
わかっているが……脚が動かない。
自動車より巨大な青い蟹は、どこを見ているかもわからない無機質な目と、ギロチン台のようなハサミは、捕食者の持つ圧倒的な恐怖を知らしめてきた。
震えが止まらない。
「ひ……たす……たすけて……」
男が俺に気づき、手を伸ばした。
まるで届く距離ではない。20メートルは離れている。
「く、く……」
べこべこと音を立てる鎧。
もう一刻の猶予もない。
行くしか、ない。
俺はダメ人間だが、人を見殺しにできるほど、ズレてるつもりはない……!
動け。動け。
動け、俺の脚!
「う……」
「お願いしますシグマさま……みんなを……助けて」
最後に背中を押したのは、リュウズの言葉だった。
「う、うあああああああああああああああああああ!!」
無我夢中に走りだす。
自分で決まらない腹も、他人の言葉で決まることもある……!
ストーカークラブへ走りながら、地面に刺さる剣を拾う。
レベル1~3のレアリティ:コモンの武器しかここには無いが、それでもないよりマシだ。
わけもわからず走っているのに、そんなことを考える余裕があった。
それくらい、今の自分に現実感がなかったのかもしれない。
「ああああああああああ!!」
剣を振りかざし、男を掴んだハサミに繋がる蟹腕に振り下ろす。
しかし――
ガキンと金属にも似た音がして、青い甲殻に剣はあっさり弾かれた。
そして――
「あぎゃあああああああ……へぶっ!」
ストーカークラブの分厚いハサミが、男を真っ二つに引き裂いた。
上半身と下半身が泣き別れとなった男は即死、真っ赤な液体をばらまかれる。
どさっ、どさっ、と続けて人体の上下が芝生に落ちた。
「な、なんだ……なんだよこれは……」
死体から血が、どくどくと流れ出している。
芝生が、赤黒く染まっていく。
意志らしきものが全くわからない無機質な目で、化け蟹がこっちを見ている。
なんなんだ。
なんなんだこれは。
こんな悪趣味な世界が『ガーデン』だって……?
「悪い……夢だ」
化け蟹が、その巨大なハサミをガチガチ鳴らしながら、俺ににじり寄る。
このゲームに、レベルの概念はない。
どんな強敵だろうと、時間さえかければ、初期装備だって勝てる。
冷静になれば、勝てるはずなんだ。
だけど――
『キチチチチ……』
小鳥の鳴き声をエフェクトで加工しただけの声を出すこの化け蟹を前に、脚が震えて体が動かない。
死ぬ――
そう思った次の瞬間――
「何やってるの! 死にたいの!」
声と一緒に、ほとんど水着のような姿の女性が降ってきた。
大剣を装備したその女性は、剣の重さを振り下ろす力に変えてストーカークラブの眼の間に叩き込んだ。人間であれば眉間にあたるその部分は、まさにこのモンスターの弱点部位だった。
ここまで見事に命中したなら、クリティカルヒット判定になってダメージも倍加するはずだ。
見事、一撃でストーカークラブは絶命。泡を吹いてひっくり返った。
死んだふりをするモンスターは何種もいるが、泡を出した時は確実に死んでいるので大丈夫。
それを知っているのか、少女は化け蟹に背を向けた。
つい今しがたまで死んだと思っていたくせに、妙に冷静にその様子を見ている自分がいた。
なぜなら、その女性の姿が、戦うその立ち居振る舞いが、あまりに美しかったから。
指先にまで神経が行き届きた優雅なカーブ、天井から釣られているかのような、ピンと伸びた姿勢。
それは戦いの中でも全く揺るぐことはなく、まるでバレエかフィギュアスケートのように流麗な振る舞いだった。
ただただ、見惚れてしまう。
――そうだ。
俺が最初に『ガーデン』を作ったとき、こんな綺麗な女の子がド派手にアクションをする姿をイメージしていたんだ。
図らずも、初心を思い出して、ただ感動して立ち尽くしてしまう。
そんな俺を、その女の子はまじまじと見てくる。
俺の方も彼女を見ていた。
地面に付かんばかりに伸びる金色の美しいロングヘア―。
整った美貌の中でも目を引くのは、吸い込まれそうな空色をした瞳。
そして、現実ではスーパーモデルくらいしかないであろう大きな胸の膨らみと、それに相反する細い腰。
それを水着にも似た面積の少ない、美麗な刺繍入りの黒い布で覆っている。
まさにゲームのキャラクターだからこその姿だった。
ほとんど裸に近い姿で俗に『裸剣士』と呼ばれるジョブ、軽装剣士だ。
これは趣味というより、制作上の都合というのが大きい。
具体的に言えば、キャラクターモデルをジョブによって大きく変えるだけの余裕がなく、見た目上の区別をつけるための苦肉の策だった。
鎧剣士と同じモデルを使いまわすが、鎧をはがした姿を、違うジョブだと言い張ったわけだ。
もちろん、性能はちゃんと差別化している。
鎧剣士と異なり、防御力はほとんどないが、スピードと攻撃力を高く設定している、上級者向けの調整になっている。
見た目のキャッチ―さからゲーム実況の配信者から人気が出て、今ではゲームを代表する存在だ。
だから、バージョンを重ねて、キャラメイクも自由に出来るようになった現在でも軽装剣士のジョブは残ったままだし、プレイヤーのうち3割ほどの人が愛用している。
なんてことを考えていると――
「おたんこなすび」
「え?」
「視線が気持ち悪いんだけど」
っていうか、おたんこなすに「び」は要らないと思うんだが……つっこめる空気じゃない。
「あ、いや、あんまりにも綺麗だったもんだから……」
「そ。ありがと。このキャラメイク、気に入ってるの。それはそれとして、じろじろ見るのはマナー違反じゃないって話」
「す、すまない」
「ま、いいけど」
いいのかよ。
「見ない顔ね。……もしかして、ここに来たばかり?」
「あ、ああ」
「そう。せいぜい命を大事にしなさい」
そう言って、軽装剣士は去って行った。
颯爽と遠ざかるその背もやはり、美しかった。
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