2 高い夜空の労働者たち

 彼らに与えられた仕事は、ビル壁面とガラスの高圧洗浄作業だった。それも超々高層ビルの上層階、高い空の上での作業だ。確かに「高いところが怖いやつ」には無理だろう。

 ビネットが希望したのは特に給金が高い、最上層フロアでの作業だった。100階だろうが300階だろうが、どうせ危険さに変わりなどないのだ。落ちれば死ぬ。ならば、払いが良いに越したことはない。


 彼女が組むことになった相手は、運搬車で隣り合うことになった、あの若い男だった。

「パルマスです。どうぞ、よろしく」

 ビルの外壁を高速で昇って行く、作業用の垂直バーティカルゴンドラの中で、男はそう名乗って右手を差し出した。

「私はビネット・ファリーン。よろしく」

 と挨拶を返した彼女は、握手には応じなかった。これでもレディーだ。どこの誰だかわからない男の手など握れるものか。


「しかしまあ、すごい眺めだね。世界で唯一最大の巨大都市、か」

 素通しの窓にはめられた鉄格子越しに町を見下ろし、男はどこか楽し気にそう言った。

 ゴンドラはすでに200階を超える高さにまで上昇していて、シティの夜景が一望できる。高度集積地区コア・エリアを中心に林立する高層ビル群。その周囲にもさらに市街地の光点が銀河のごとく広がって、地の果ての暗闇まで、つまりは町を取り巻く群部諸街区カウンティまで続いている。


「俺はさ、あの真っ暗な辺りから来たんだよ」

 パルマスは、地平線の辺りを指さした。

錨星カシオペヤ街ってね、しけた街だが、俺は好きさ。ビネットさんは、シティの人かい?」

 普段ならビネットは、こんな面倒なやり取りの相手などしない。自分がどんな人間か、そんなことを知って何になるのだ?

 しかし、この男のくだけた調子には、少しくらいは話に付き合ってやっても良いか、と思わせるものがあった。


「ああ、そうだ。だが、うらやましがることはなにもないぞ。この町の地べたを這いつくばって生きてきた人間だからな、私は」

「暫定市街地」という区域の存在について、彼女はごく簡潔に説明してみせた。

「なるほど、なるほど。そりゃそうだよなあ」

 パルマスは感心したように何度もうなずきながら、ビネットの話を聞いた。

「こんな立派なビルの上で、お空を見ながら暮らしてる人ばかりじゃない、当たり前だよな。たとえ光り輝く、このシティでも」

「そういうことさ。さあ、そろそろ着くぞ。おしゃべりはここまでだ」


 ゴンドラは速度を落とし、最上階までもう少しの390階に到着した。ここも羽ヶ淵ウイング・アビスの系列会社のビルということではあったが、周囲にはもっとさらに高いビルもいくつもあって、こちらを見下ろしている。本社セントラルタワーに至っては、500階以上の高さがあるというから、もはや正気とは思えない。


 このビルは実に親切な設計になっていて、メンテナンス作業用の通路が外壁に沿って設置されていた。その幅は、人間同士がぎりぎりすれ違える程度でしかなかったが、膝上くらいまでの高さがある柵まで設置されていて、これは心強い。

 洗浄ホースのソケットを、高圧栓に慎重に接続し――ここをミスするだけでも、簡単に命を落とすことになる――二人は外壁と窓の洗浄を開始した。

 噴射された水流から上がる盛大な湯気が、夜空を雲のように流れる。


 一応、終業後の作業ということになってはいたが、まだ灯りのついている窓もいくつもあった。ビネットが突然に噴射した高圧洗浄水がガラスを叩く音に、驚いて振り向く社員の顔も見える。

「ビネットさん、あんたわざとおどかしてないか? あのエリート社員さんたちを」

 防護ゴーグルをつけたパルマスの口元が、夜空を背後に笑っている。

「そんな悪い趣味はないさ、私には」

 大声でそう返しはしたが、真後ろからの水音に、立派な椅子から転げ落ちそうになっている幹部らしきおじさんの姿に、彼女もついふき出しそうになる。


 手早く仕事を進める二人の組み合わせで、作業は予定よりもずっと早く進んだ。

「さて、と。ビネットさん、ここいらでちょいと休憩しませんか? なんせ、降誕祭ナビダードだもんね」

 最後の1フロア分を残すのみ、というところまで作業が進んだところで、パルマスが突然に通路に座り込み、背中のボックスリュックを下ろしはじめた。

「おい、何をさぼってる! もうあと少しなんだ、仕事を片付けてさっさと降りるぞ」

 ビネットが、険しい顔つきになる。今さらこんな場所で休憩などしたくもないし、この男が「降誕祭」などと言い出したのが気に入らない。


「ちょい、待った、ビネットさん。そのノズルを向けるのは、こいつを見てもらってからにしてくれよ」

 パルマスは慌てたような顔をした。無意識のうちに、彼女は洗浄ノズルを男のほうに向けていたようだった。

「ほら、高度集積地区コア・エリアで人気の洋菓子店パティスリーで買ってきたんだ。あんたみたいな別嬪さんと組むことになるとは思わなかったが、ちゃんと二人分あるぜ」

 パルマスがリュックから取り出したのは、見るからにおいしそうな二個のショートケーキが入ったパッケージだった。

 恐らく、今日のこの仕事の給金など、軽く吹っ飛んでしまうような高級品だろう。呆れた贅沢ぶりだった。


(3 「地上399階の降誕祭」に続く)





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