第20話 サチ 6
電車がホームに入った。
「ナチ」
「ん?」
立ち上がっていたナチは、うつむくようにわたしに顔を向ける。
薄紅色のつまみ細工の花飾りに付けられた、山吹色のタッセルが揺れる。それと一緒に、黒い髪は頬の輪郭にそって斜めに流れた。ナチが指で髪を耳にかける。
立ち上がるとナチの頬を両手で挟んだ。そのまま目を閉じて、素早く唇を合わせる。
焦げ茶色の真っ直ぐな視線に、その仕草に、自然と身体が動いてしまった。いつもなら、その手前でやめるのに。
目をつむってから一瞬、ほんの一瞬。
ナチの唇はやわらかくて、かき氷の甘いレモンの味がしたように思えた。
何事もなかったようにすぐに離れて瞼を開くと、焦げ茶色の瞳は大きく
座っている乗客は本を読んでいたり、スマートフォンを触っていたり、疲れきったように眠っていたり。立っている者は窓の外を眺めていた。
誰もわたしとナチを見ていなかった。
「……」
「……」
「ナチ」。その名前を呼ぶときの気持ちは、オノがわたしに向けた感情と一緒のものなのか。それとも違うものなのか。
同じ性質のもののようにも思うし、違うもののような気もする。それから、これまでの時間の中ではうまく言い表すことや説明することができない、まだ経験したことのない種類のもののようにも思えた。
自分の気持ちなのに、もしかしたら……理解することを恐れているのかもしれない。
ナチにはこの気持ちを伝えるつもりなんかなかった。
自分でも判別ができないことを、きちんと説明できるはずもない。
曖昧なまま……避けられてしまうのも怖かった。
それなのに……。
自然と手が伸びて、触れてしまった。
悪戯だというふうに笑ってみせる。
ほら、それなら……安心、してくれるかな。
「……バカ。そういうのはスーツにやれって言ったじゃん」
内緒の話をするように、ナチは声を潜めた。
「ナチがいいよ」
冗談に聞こえるように。
「……本当にバカ」
その様子は、どうしたらいいのかと迷い、戸惑っているようだった。
……困らせるつもりはなかったのに。
ホームに電車が停止する。鈍い音が静かな車内に響いてドアが開く。
「……じゃあね」
軽い上目でわたしを映す。
「うん。バイバイ。ナチ」
いつもと同じに手を振った。
「さよなら」とは言えない。でも、いつものようにバイバイと手を振ることはできる。
いつものように笑って、バイバイ。
そうすれば明日も、明後日も、
***
手紙を添えた浴衣を空港から送った。
「ありがとう」。それだけを書いた。
手紙というよりは、短すぎてメモのようだった。
勘のいいナオコはなにかに気がつくかもしれない。
ありがとう。そして、ごめんね。
どうしても言いたくなかった。言えなかった。
赦ゆるしてくれるかな。
ナオコだったら「しょうがないなぁ」と、笑ってくれるような気がする。
本当は……赦されることは望んではいないのかもしれないけど。
***
あの日、空き教室で見た濃い夏の空はどこまでも青くて、どこまでも続いていた。
ずっと変わらずにいたかった。
なにも言わなければ、あの夏とわたしたちはこのまま永遠に続いてゆくような気がしていた。
あのころはもう、子どもではないと信じていた。
ナチに触れてみたかった。
白いうなじに。やわらかそうな頬に。艶やかな黒い髪に。健康的な唇に。
いち番に好きなのは瞳。澄んだ焦げ茶色の瞳。最初から好きだと思った。ナチがわたしの髪の色をきれいねと言った、そのときから。
だけど、ナチに触れたあとにはどうしたいのか、どうしたらいいのかもわからなかった。
オノが言ってくれた「好き」と、わたしの「好き」は同じなのか、違うのか。それすらもまだ曖昧だった。
……最後にキスをした。
キスなんて呼べるようなものではなかったのかもしれないけど。
そして……やっぱりナチがいいと思った。
なにも告げずにいなくなったわたしを、ナチはどう思ったのか。
怒っただろうか。呆れただろうか。裏切ったと思っただろうか。……泣いてくれただろうか。
わたしを思って泣いてくれていたらいい。そうすれば、きっとわたしを忘れない。
そう思ったわたしはまだ、大人でもなかった。
ナチの笑顔を思い出すと懐かしさに胸が疼く。
ナチになにも告げられなかったことを思うと、胸が痛い。
なにも言えなかった。なにを伝えたいのかも、伝えていいのかもわからなかった。それは今でも、わからないけど。
ナチは忘れないでいてくれるだろうか。
わたしはずっと、憶えている。
真っ直ぐで強い瞳が、笑顔が好きだった。
無邪気そうに笑ってもらえるカシワギが羨ましかった。
ナチがいつも笑顔でありますように。
見上げたこの空はきっと。今でも、あのころのわたしたちに続いているような気がしている。
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