ねこが見ていた
@d-van69
ねこが見ていた
出張から帰った俺を玄関で出迎えたのはムギだった。茶トラのメス猫だが、こんなことはめったにない。恐らく何か居心地の悪いものがリビングにあるのだろうと思っていたら、三和土の靴に気がついた。
「お帰り」
奥から現れたヒトミと入れ替わるようにムギがリビングへと帰っていった。
「ただいま……って、どうしたの今日は。カヨは?」
「ヒナちゃんが急に熱出しちゃって。でもお姉ちゃんは今日、人手が足りないとかでどうしてもパート抜けられないからって連絡が来たの」
そういうことか。幼稚園で娘が熱を出した。俺は出張だし、妻はパートを抜けられないから代わりに彼女の妹が幼稚園へ迎えに行ってくれた。そのまま娘の面倒を見てくれていたのだろうが、なぜだかヒトミはムギと相性が悪く、彼女が家に来るとムギは落ち着きがなくなる。だから玄関に避難していたのだ。
「それで、ヒナは?」
「病院に連れてって、薬飲ませて、今は寝てる」
「そっか。ありがとな」
「いいのよ。それより夕飯どうするの?私作ろっか?」
「ありがと。でもパートの日はカヨがお惣菜買ってくることになってるから。たぶんお前の分も買ってくると思うよ」
「やったー。じゃあ待ってよ」
リビングに向かう途中で子供部屋のドアを開けた。娘の額に手を当てる。どうやら熱は下がったようだ。薬が効いたのだろう。起こさないようにそっと部屋を出た。
「ねぇ。お姉ちゃんが帰ってくるのって、何時?」
ソファに寝転んだヒトミが俺を見上げる。
「たぶん、8時ごろになるんじゃないかな」
「そっか。だったらまだ1時間以上あるね」
彼女は怪しく笑うと、
「それまで、なにする?」
その眼差しに淫靡な色が浮かんだことで、俺は彼女の目論見に気づいた。
「おいおい。まさかここでやるわけないだろ」
「どうして?」
「ここは俺とカヨの家だぞ。さすがにまずいだろ」
「だからじゃない」
ヒトミはゆっくりと体を起こしながら、
「背徳感って言うの?逆にそのほうが私、いつもより燃えちゃいそうなんだけど」
その手はいつの間にか俺の下腹部に伸びていた。
ソファに仰臥した俺の上でヒトミが果てた。ぐったりとしなだれかかる彼女と入れ替わり、今度は俺が上になった。
「もうダメ……」
吐息を漏らすのも聞き入れず、さあこれからだと体勢を整えたところで視界に茶色いものが見えた。ちらりとそちらに視線を移すとムギだった。廊下からこちらをじっと見つめている。
「あ……」とつい声が漏れた。
「どうしたの?」
「いや、ムギがね、じっとこっちを見てるからさ。さっきから俺たちがやってるとこも見てたのかと思って」
彼女も首をひねりそちらを見て、そしてフフッと笑った。
「いつもは私のこと避けてるくせに、こういうことには興味あるんだ。いいじゃん。見たけりゃ見せてあげれば」
ヒトミが両手で俺を引き寄せた。キスをしたまま、俺は律動的に腰を動かしはじめた。
押し殺した彼女の声とソファの軋む音がリビングに響く。
やがて俺も絶頂に達し、彼女の中で果てた。
廊下のほうに目を向ける。
ムギはいつの間にかいなくなっていた。
それから3日後のことだ。
妻が娘を連れて家を出て行ったのは。
浮気には細心の注意を払っていた。相手が義理の妹なのだからなおさらだ。あの日にしても妻が帰るまでにことは済ませたし、痕跡はまったく残していなかったはずだ。消臭剤を撒き散らし、ヒトミに使用済みのティッシュを持ち帰らせるほど気をつけていたのだ。それなのになぜバレたのか……。
慌しく荷物をまとめた妻が玄関から出て行く間際、振り向きもせず口にしたセリフが気にかかる。
「ねこが見ていたのよ」
確かそんな風に聞こえた。どういう意味だと呼び止める前に、ドアはぴしゃりと閉じられた。
ムギが丸くなって眠るソファの隣にゆっくりと腰を下ろした。その頭をなでながら、
「まさか、お前が密告したのか?」
問いかけるものの、答えるはずもない。丸まったまま、気持ちよさそうに眠っている。
「そんなわけないよな」
苦笑しながら天を仰ぐ。今頃ヒナはどうしているだろうか。ムギがいないと言って駄々をこねてはいないだろうか。娘はムギのことが大好きだった。家にいるときはいつもムギと一緒だった。ムギがいないと夜も寝られないほどだ。ムギも心得たもので、嫌がることもなく毎晩添い寝をしてくれていた。
でも……。
娘が熱を出した日、ムギはヒナのベッドにはいなかった。熱を出していたのだからそれどころではなかったのだろう。だがもし、熱が下がり、夜中にふと目が覚めたとき、側にムギがいないとわかったら娘はどうするだろうか?
そうか。出て行く妻は、ねこが見ていたと言ったんじゃない。そもそもムギのことをねこと呼ぶことはない。彼女は先に玄関から出た娘を見ながらこう言ったのだ。
「このこが見ていたのよ」
ドアを開閉する音と、俺が動揺していたせいで「このこ」の「のこ」だけが耳に届き、
それが「ねこ」に聞こえたのだ。
あの夜、目を覚ましたヒナは側にムギがいないことに気づき、起きて探しに……。
不意に猫の語源は寝子だという説を思い出した。俺たちの痴態は寝子ならぬ、寝たはずの子に見られていたってわけだ。
頭を抱えて煩悶するうち、いつの間にかムギが顔を上げていた。
憐れむような目で、ねこが俺を見ていた。
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