あの日消えたあの祭り
みかみ
第1話 五十年目の幽霊祭り
坂を下る方が、どこか別世界に向かっていると感じるのは何故だろう。押されるように前へ進めるからか。それとも、ふと目線を上げた瞬間に視界が広がるからなのか。
そんな事を考えながら俺は、三日月にぼんやりと照らされた急坂を下っている。俯き加減でとぼとぼと同じように坂を下るたくさんの人達と一緒に。
彼らの体は俺の物とはまるで違っていて、オレンジ色にやわやわと光る煙が人の形を成したように、風景と体表面の境界線が曖昧だ。よく観察すると、体の向こう側が透けて見える。
彼らは俗に言う、幽霊というやつだった。
ここ数日、家の周りで妙に沢山うろついているなと思っていたら、昨晩一人のオッサン幽霊と出会い、俺はその訳を知った。
★
リビングで映画を一本見終わり、時計を見ると二十三時を回っていたので寝ようと思って二階に上がった時の事である。廊下を挟んだ窓の向こう側に、そのオッサン幽霊が吊られた馬のような格好で浮いていたのだ。
どこにでもいそうな、小太りで不精髭を生やした、六十歳くらいの人の良さそうな田舎のオヤジだった。
服装は透けていて柄まではよく見えなかったが、シャツにニットのベストを着て、スラックスのようなズボンをはいていた。靴は履いておらず、裸足だ。
「どうも」
軽く会釈したら、オッサンがヘラヘラ笑いながら俺の名前を訊ねてきたので、
『コタロウ君、良い名前だね』
オッサンが聞き間違えた俺の名前は、奇しくも親戚が飼っている柴犬の名前と同じだった。
オッサンはヘラヘラ笑い続けながら、真っ暗な山の方を指さす。
『明日は祭りだよ。君も来るかい?』
指さされた山のあたりには、半世紀ほど前に集落があったと聞いている。しかし今は、運動施設を備えた広い公園になっているはずだ。
そして明日、その公園で祭りがあるという話は聞いていない。
俺は、なるほど最近ここら辺で幽霊の数が妙に増えているのは祭りがあるからなのかと納得しながら、人生で初めて幽霊の祭りに誘われてしまった珍事に仰天していた。
母親から『死んだトカゲみたいな顔』と笑われる自慢のポーカーフェイスは一ミリも崩さなかったが。
――幽霊の祭りって何? 今十一月やぞ。お盆でもハロウィンでもないし。いや、ていうかオッサン誰よ? 初対面やろ。なにサラッとオバケ祭りに誘っとんねん。
常識はずれなオッサン幽霊に対し、心の中で立て続けにツッコミを入れたが、この類のツッコミが無駄である事は、十七年の経験から心得ていた。
こいつら幽霊の距離感は、俺たち体がある生者とはまるで違う。奴らは、自分の事が見えたらそいつは『オトモダチ』だ。だから大抵の幽霊は、目が合った瞬間にぐいぐい寄って来る。
「俺が行っていいことあるんすか」
窓越しに、オッサン幽霊に訊ねた。
『美味しいもんいっぱい食べられるよ』
「俺でもオッケーなやつなん? それ」
顔をしかめて二つ目の質問をすると、オッサンは目を丸くした。ややあって、ハゲかけの頭をピシャリと叩く。
勿論、音など出ていないが。
『あ、ムリだったわ。ごめんごめん。 じゃあ、自分用に何か持っておいでよ。賑やかで楽しいヨ、コタロウ君』
ここまで明るい幽霊もまた珍しい。
陽気な幽霊がお勧めする楽しい祭りとやらに興味をそそられた俺は、名前のニアミスを指摘するのも忘れて真剣に思案した。
そして数秒後に、返事をしたのだ。
「ほな行ってみるわ」
と。
★
翌日。晩飯が終わってまったりしている時間帯である。オヤジが隠してあったおつまみ用のチーズと缶コーヒーをビニール袋に入れた俺は、「ちょっと出て来るわ」とシンクを隔てたリビングに向けて声をかけた。
ソファに座ってテレビを見ていたオカンが「はあん?」と薄い眉をひそめてこちらを振り向く。
オカンの口の周りには黒いものがついていた。どうやら、大好物のチョ◯パイをむさぼり食っていたようだ。
チョ◯パイの残骸をへばりつかせた口が、どこに行くのかと訊いてきたので、昨日のオッサン幽霊の話をしてやった。
何か知っていたのか、俺の話を聞き終えたオカンは「あぁ~、はいはい」と何度も頷きながら立ち上がると、どすどす足音を立てて台所に入って来た。
「どけ」と一声、俺を冷蔵庫の前から移動させ、中から缶ビールを一本取り出す。
「ん」
ちょっと高そうな黄金色の一本を俺に差し出してきた。
「未成年の息子に酒勧めんなババア」
言った途端、目にもとまらぬ速さで左側頭部をどつかれた。
「ババア言うな! 土産用じゃアホ」
可愛い息子の側頭部にきついツッコミを入れた大阪阿倍野仕込みのババアは、俺のビニール袋に缶ビールを滑り込ませると、「なむなむ」と手を合わせた。
「皆さんによろしゅう伝えといて。『去年引っ越してきました
基本ガサツなババアだが、こういうところはきちっとしている。
ちなみに俺の霊感はオヤジ譲りだ。
オカンは生まれてこのかた、金縛りにすら遭った事が無い。幽霊の方が遠慮するのだ。たまにこういう奴がいるからオモシロイ、とオヤジは言う。
「なむなむ」
俺は合掌で『了解』の意を示した。
理由はもちろん決まっている。要らんと言って返そうもんなら、拗ねるし怒るし面倒くさいからだ。
「鍵は開けとくし。あんまり遅くなりなや」
玄関で靴をはいている俺の背中に声をかけたオカンが、早々に電気を切ってリビングに戻ってゆく。
靴ひもを結んでいる最中に突然手元が真っ暗になり、俺は焦った。
「ちょ、暗っ! おいババ――オカアチャン! 明るうしてや!」
リビングの方から、いたずらババアが笑う、ヒャヒャヒャという化け物じみた声が聞こえた。
★
スマホで時計を確認すると、夜の九時だった。
山の中腹にある住宅街の坂を下り終えた俺は、オヤツとお供えが入ったビニール袋を片手に下げて独り、市営公園に続く人気のない上り坂を登った。
いや、独りというと語弊がある。何故なら、無数の幽霊達に混じって歩いているからだ。
俺と同じように坂を登る幽霊たちの服装を見る限り、それほど昔に死んだ人達ではない事が分る。どことなく野暮ったいが、みな洋服だ。
彼らの足元は、昨日出会ったオッサンのように、全くの裸足だったり、靴をはいていたり、靴下だけをはいていたり、様々だった。
死んだ時に外に居たか家の中に居たか、その違いなのかもしれないと俺は推測した。
祭りの正体が気になったので、ネットで調べてみたのだ。
ここで山津波があったのは、五十年前の事。小さな村と神社が一つ、まるっと飲み込まれたそうだ。
何日も雨が続いた後に起こった地震が引き金となった。地震自体は大したものではなかったが、山は広範囲に土砂崩れを起こし、その日、神社の祭りで賑わっていた村と村人たちを、あっという間に土砂の下敷きにしたのだ。
老若男女合わせて百五十名ほどが犠牲になったという。
ここにいる人達はみな、その犠牲者だ。
坂を登りきると、がらんとした駐車場に出た。
駐車場の向こうにはサッカー場くらいの芝生スペースが広がり、更にその向こうには小川を挟んで遊具が幾つか見える。
照明が消えている上に、恐らく五十年前に存在した神社の境内の景色が重なり見えているため、遠くにある遊具の子細は分らない。
境内には自治会のテントが幾つか建てられていて、その下では当時当番であっただろうオッちゃんやオバちゃん達が、お好み焼きや、みたらし団子など、祭りにふさわしい料理をふるまっている。
境内の真ん中では、餅つきまで行われていた。
俺の鼻が、土手煮の香りを感知した。
晩飯を食べて間もないというのに、腹が鳴る。あれらを食えないのは正直、拷問に等しかった。
「もうちょい腹にたまるもん持ってきたらよかったかなぁ」
呟いて、左腕にひっかけてあるビニール袋の中を覗き見る。
その時、俺の横を、小学生くらいのおかっぱ頭の女の子が走り抜けた。
笑顔で『ゆうちゃん』と誰かの名を呼びながら、子供達の集団に駆け寄って行く。靴は履いていない。膝下までの靴下だ。
女の子は『ゆうちゃん』らしき同い年くらいの三つ編みの少女と手を合わせ、キャッキャと明るく笑っている。
俺は一人、首を傾げた。
ここに集う山崩れの被害者達は何故かみな、朗らかだ。
地面に埋もれて、怖かっただろうに。苦しかっただろうに。痛かっただろうに。
しかしこの人達は、そんな負の感情など微塵も感じさせない明るい笑顔で語り合い、今はもう小さな社だけになってしまったかつての神社の幻の中で、山の神を讃える祭りを楽しんでいる。
どっちを見ても、悲壮感が皆無。
昨日出会ったオッサンが特別明るいわけではなかったらしい。
俺はオレンジ色に輝く祭り会場の中を、そぞろ歩いた。
何人かの村人が、生きている俺を珍しげにチラチラと見て来るのが面白かった。
そろそろ一番賑やかな区画をぬけようかという頃、俺はあるものに目をとめた。
大きな一枚岩の、慰霊碑だ。
そして、正面に人が一人、慰霊碑と向かい合う形でしゃがみこんでいる。
生きているかそうでないかは、一目見れば分る。
その人――黒い僧服を着ている禿頭の坊さんは、オレンジ色に輝いてはいなかった。生者だ。
彼は慰霊碑に手を合わせているようだった。法衣の奥から微かに線香の香りが漂い、白い煙の筋が一瞬、すい、と彼の前を流れたように見えた。
まさか他にも祭りに招待されている人間がいるとは思っていなかった俺は内心驚きながら、ブツブツと経を唱えている坊さんの後ろ姿を見つめた。
彼を招待客だと思った理由は一つ。
彼の後ろに、沢山のご馳走が並べられていたからだ。それらは全部、この祭りで振る舞われているものなので彼自身が口にする事はできないが、一皿、また一皿と、村人達がおすそ分けをするように、そっと飯を置いてゆくのだ。
「幽霊にお供えされてる人、はじめて見たわ……」
茫然と呟くと、隣に来たオバサンの霊が『あら』と顔を上げて俺を見た。
『君、生きてる人なのね』
「こんばんは」
会釈をすると、オバサンの手の中にある、きな粉餅を乗せた皿が見えた。多分、さっきついた餅なのだろう。
この人も、おすそ分けに来たのかもしれない。
『はい、いらっしゃい』
オバサンが同じように会釈して、ふっくらした頬を上げてにこりと笑う。
優しそうな人だったので、俺は慰霊碑の前に居る坊さんを指さして訊ねた。
「すんません。あの人、誰すか?」
オバサンは『ああ、あの人ねぇ』と破顔すると、近くの寺の住職だと教えてくれた。毎年この日になると、経を上げに来るのだとか。
そして、『ちょっとごめんなさい』と断ってから俺の前を離れたオバサンは、坊さんに歩み寄った。他の村人と同じように、きな粉餅が乗った皿を地面にそっと置き、深々と彼に一礼する。
やっぱり、あの山ほどの食べ物は、坊さんへのお供えものだったのだ。
本人は全く気付いていないようだが。
お供えを終えたオバサンが、俺の元に小走りで戻ってきた。『もう、ほんとイヤだわあの人』と口元を隠し、ケタケタと笑う。
『ぜんっぜん見えないのよねぇ。三十年も、こうやって拝みに来てくれてるっていうのに』
俺は驚きのあまり、「えっ」と声を上げた。
「三十年、一度も欠かさず?」
『そうよぉ。雨が降っていた日もあったし、あの人、風邪をひいてる日もあったのに』
オバサンは、小さなため息をつく。
酷い咳をしていた時はたいそう心配したのだと言いながら、細い眉を下げた。
『あなたより少し大きいくらいから……だったかしらね、あの人が初めて来たのは。いつか私達に気付いてくれたらいいわねー、って皆と話してるけど。この調子じゃあ、死ぬまで無理そうだわね』
口では残念そうな事を言いながらも、オバサンはこの状況を楽しんでいるように見えた。
オバサンの幽霊と別れると、俺は坊さんの方へと歩いて行った。
一心に祈っている背中が、どんどん近くなる。
坊さんは小柄な人だった。丸まった背中にウン十年分の哀愁が漂っている。
オバサンの話では、ここに来たのは俺より少し年上の頃からだから……少なく見積もって五十歳くらいか。オヤジと同じくらいの年齢だ。
「……そわか、はんにゃしんぎょう……」
低く掠れた声が読経を終えると、彼は手に持っていた数珠を擦るように動かし、ジャッと音を鳴らした。
小さく頭を下げてから、慰霊碑を仰ぐ。
禿頭だが、実際毛髪も薄くなってきているのだろう。月光を浴びた頭頂部が少し光った。
「あの、どうも」
俺は、驚かせないように落ち着いた声を意識して、坊さんに話しかけた。
坊さんはびくりと背中を震わせると、勢いよく振り向いた。そして俺と目が合うなり、「うひゃあっ!」と悲鳴を上げてしゃがみ込んだまま器用にのけ反ると、そのまま尻もちをつく。
続いてガシャン、と彼の後ろで、金属製の物が倒れる音がした。
線香立てだった。
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