顔無シ、声無シ

津島ツヅル

顔無シ、声無シ


             

私はそいつを「蒸気に踊らされるカツオ節だ」と思った。別にそいつはカツオ節では無いし、私と同じ人間という生物だ。でも私と違う点が沢山あった。目も鼻も耳も輪郭も髪型も性格も心臓の鼓動のタイミングさえ違うのだ。もう一度言う。私と同じ人間という生物だ。同じ生物なのにどうしてこうも違うのかと考えて考えて朝になったこともある。

私がそいつを気にしているのは、矢鱈とくっついてくるからだ。私はそいつ以外の人間を知らない。世界にたった二人だけだと思っている。父も母も兄妹も、目を開けた時には顔無しだった。でも家族は口を揃えて私にこう言うのだ。「あんた、顔無しだね」と。これはおかしい。だって家の鏡に映るのは、目も鼻も耳も輪郭も髪型も体の成りも全てだ。全てが家の鏡には映るのだ。カツオ節みたいなそいつとは違う見た目だけれど、映るのだ。確かにハッキリと映るのだ。オカシイのは私の頭なんじゃないか?と、いよいよ不安になった。

私が生れたとき、両親は私を「道船」と名付けた。なんでも、海という果てのない道の中でもその路頭に迷いそうなほど広い海を迷いもせず進み続け、時に人を乗せ運ぶ船のような人になって欲しかったから。だそうだ。両親の姓は「禎蔵」だったので、私は必然的に「禎蔵 道船」と言う名になった。

その日、禎蔵家の次男坊として私は生きることになったのだ。

長男の「和久」は二つ違いだけれど真面目で面倒見のいい兄だった。だけれどどこか心がわからなかった。

私が生れて三年後、妹の「桜子」が生れた。妹は、泣かなかった。予防接種をしても、頬を悪戯でつねってみても泣かなかった。

私は妹に不気味さを感じた。普通は泣くのだ。自慢ではないが、私はよく泣いた。それはもう小さなことから大きなことまで泣いた。だが妹は決して泣かなかった。そんな妹に家族は「助かるわ」と言った。声色は見事なほどに一直線で、感情を感じることのないものだったのだが、兄は「父さんも母さんも助かってるみたいだよ、すごく笑っている」とこれまた見事なほどに一直線な声色で言った。

思えばこの頃から私は何かの病に侵されているのではないかと思っていた。だって、兄も両親も笑っているのだ。笑っているはずなのだ。けれど私の目に映るのは顔無し。耳に届くのは感情の無い声色。私の耳も目も狂っているんじゃあないかと思った。それはもう幾度も思った。けれど私は病気ではなかった。これが普通なのであった。実はみんな自分の顔しか認識できなくて、声に感情は乗らなくて、当てずっぽうで適当に「笑っている」など出鱈目を言っているのだと納得した。

そうしたらこの世界に於ける人間という生物はなんて悲しく寂しい生物なのだろうと思った。六歳でそう思うのだ。屹度大人は皆思っているのだろう。

「嗚呼、寂しいよぅ。私が泣いても笑っても誰も彼もが一直線を届けてくるんだ。おまけに顔無しときた。カミサマ、私は誰に構ってもらえるのでしょう?愛おしい目で見られたいよぅ。」

毎晩私は月に向かっているはずも無いカミサマとかいう存在に縋った。


カツオ節のそいつと出会ったのは小学三年の時だったように思う。そいつは「佐江本 幸治」という名だった。私の姓である「禎蔵」と、そいつの姓である「佐江本」は同じサ行で出席番号順に並ぶ教室の席では前後であった。私が後ろ、佐江本が前。

「おぅ、お前俺の後ろの席なんだな、俺は佐江本幸治つぅんだ。てめぇは……なんだ冴えない名前をしやがって。禎蔵道船つぅんだな。まァ、前後だし、仲良くしてくれよ。」

私は吃驚した。そいつ…佐江本は目を細めて口元に弧を描いていたのだ。顔があったのだ。凛とした鈴みたいな少し高い声色があったのだ。クツクツと笑っていたのだ。

初めて出会った、私以外の人に顔があるところなんて。声色があるなんて。吃驚したけれど、嬉しかったのだ。

佐江本はクツクツと笑いながら体を揺らした。

嗚呼、蒸気に踊らされるカツオ節。

そう思ったのである。

それから佐江本はなぜか私のそばを引っ付いて離れなくなった。授業中だというのに偶に後ろを振り返り私を見て変な顔をしたり、遊びに行こうと誘ってきたり、私を揶揄ったり。でも私は別に嫌な気はしなかった。他の生徒も先生も通り過ぎる人々も家族でさえ顔無しで、声色無しのまるで溝鼠みたいな色の世界に佐江本は色を垂らした。

私が泣いた時には水色の声、笑った時には橙の声。沢山の色を私に垂らしていった。

その日から私は佐江本は人間だと思った。

カミサマ!ここに!ここにいらっしゃいました!私の挙動に構ってくださる方!顔がある方!声色のある方!素敵だ、美しい綺麗でございます!

佐江本とはそのように出会った。私も佐江本も気付けば高等学生であった。だが、周りは一ミリも変わらなかったのだ。

顔無し。声色無し。その世界に色を垂らす佐江本。私は妹に言われたのだ。

「道船兄様は顔が無いからキモチがわからないのです。声色もまるで一直線。どうにかなりませんの?」

と。わからない。ずっと私が思っていたことをそっくりそのまま返された。私は言った。

「桜子は赤子の頃から泣かなかった。私には顔も見えない、声色は一直線。お互いがそう認識しているのだ。」

「違いますのよ。道船兄様。私が顔無しだと思うのは道船兄様だけで、和久兄様にも父様母様にも顔はありますのよ。」

「そんなわけあるか!私はこの家の鏡で確かに顔を見た!顔が無いのは、声色が無いのはそっちの方だ!」

「変な人。」

妹はそんな言葉を残して家の奥に消えていった。

嗚呼、違う。違うのだ。私にもわからないのだ。どうして私だけ家族の顔も声もわからないのだ。唯一わかるのは佐江本だけなのだ。わかってくれ。この疎外感。世界はこんなにも広いのに取り残されているようなこの心地。

その次の日私は病院に連れて行かれた。

その病院の先生も顔は無かった。声色も無かった。その話を佐江本に話した。

「私は病院に連れて行かれたんだよ。家族の顔も声もわからないから。でも家族は私以外の互いの顔も声も認識できているんだ。おかしな話だろう?まるで段ボールに入れられた仔猫のような心地さ。だって私だけなんだ。この世に顔も声もある人間はお前だけだと思っているんだ。」

「俺はてめぇの顔も声もわかるし、他の人間のこともわかるんだぜ?すごいだろ?」

その言葉で思った。佐江本と私の違いはなんだ?佐江本は最初から顔があった。初めて私に普通に話しかけてきた人間だからか?

…嗚呼、愛なのか。愛と興味なのか。

私は思い返した。家族のこと。興味は持たなかった。愛も無かった。だから顔が見えない声色が無い。家族も同じく私に愛も興味もない。だから私の顔も声もわからない。

失望した。己の醜さと、家族から愛も興味も受けていないことに。佐江本だけが私を見てくれていたことに。


愛も興味も与え、与えられなければ自身顔無しと成りて、声に色無し。


それからは早かった。家を飛び出して今ある貯金を全部使い、知らない土地までやってきた。駅名すら覚えていない。莫迦だと思った。全てを捨てて逃げ出したかったのだ。

誰からも見える顔が欲しい。声色が欲しい。愛が欲しい興味が欲しい全部私に向けてくれ。頼むよ。私は人を愛した気になっていただけで、鏡に映った自分はあくまで自分が自分に向けた興味に過ぎなかったと気付いた。

私は人に愛を向けれない、興味を持てない。でもなぜか佐江本だけは愛も興味も向けられた。それがなぜだか気持ち悪く感じてその場で吐いた。胃液だけが出た。

あの日付き合った女の顔は無かった。あの日私が抱いた女にも顔はなかった。


ワタシ、アイシカタガワカリマセン。


佐江本。佐江本だけだった。生れてから初めて見た顔。私も人間のはずなのに、佐江本と同じ人間のはずなのに何もかもが違った。

当たり前かもしれない。だって親が違うもの。だけれど、そもそも人を愛するという心を持たなかった私と、人に興味も愛も向ける佐江本。そりゃあ違う。

そんな佐江本が私の顔も声もわかったのは当然だった。

では私は?なぜ?佐江本の顔も声もわかったんだ?

嗚呼、興味。私は佐江本に興味を持ったんだな。

初めて私に普通に話しかけてきたそいつに。興味を持ってしまった。私だけが世界に二人きりだと思っていたわけだ。なんと莫迦らしい。佐江本は世界中の人の顔も声もわかったんだろうなと、ふと思って涙が出た。そしてまた吐いた。

最初から、この世界には一人きりであった。勝手に現れた佐江本が私に色を垂らしたせいで混ざって混ざって中途半端な茶色になった。



翌朝ニュースになった。「顔のない青年が施設の屋上から飛び降り自死」最後まで私は誰の目にも止まらなかった。

葬式は開かれなかった。

乱雑に適当な石に名前を彫られ人気のない山に置かれた。人気のない山のはずが、なぜか毎年毎年一輪の花が手向けられている。水色の花、白の花、赤の花、橙の花。そいつは二十五になった。

缶の檸檬酎ハイに小さな花を挿してその石の前に置いた。

「よぅ、俺はてめぇの顔、最初から見えてたわけじゃァねぇぜ。てめぇだけ顔も声もわからなかったんだけどよぅ。でもなァ、俺は顔無しに友達がいるなんてこたァ思わなかったんだ。だから俺がてめぇの素顔を暴いてやろうと思ったんだがよぅ。存外悪くねぇ顔をしてやがった。こればっかりは本音だぜ?そっちで色んなやつに顔晒してりゃァいいんだよ。」

水色を垂らしながら今日もこうして帰っていった。

七月の終わり。水溜りに反射したそいつは顔無しになっていた。

           

 〈了〉

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顔無シ、声無シ 津島ツヅル @tsushima_tsuzuru

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