初夜に夫から別の男をあてがわれたのでグーパンして逃げた

エイ

第一話


 ――――政略結婚。


 それは愛情で結ばれる夫婦ではなく、家の繁栄や利益を求めて行われる当事者同士の意思が反映されない結婚である。


 愛のない結婚であったとしても、政治的、社会的に必要とされるものであり、高い地位にある家に生まれた者は、自分で婚姻相手を選ぶ権利はないと幼い頃から理解している。いや、せざるを得ないのだ。





 貴族の末席に名を連ねる家の娘であるアスターも、適齢期を迎えた頃には両親が嫁ぎ先の検討をし始め、本人の意思など問われることもなくいつの間にか結婚相手が決まっていた。


「ええ……縁談ですか?」


「そうよ、あちらから是非にっていう申し込みが来てね。どうかしら? まだ早いってアスターちゃんは言うけど、ものすっごく良いお話なのよ~断ったら二度とこないわよこんないい縁談!」


 一応、こういう縁談が来ている……と母親から相談形式で始まった話だったが、あまりにも良い条件であったため、アスターに聞くまでもなく父親は二つ返事でオッケーを出してしまっていて、まずは顔合わせに行った場ではすでに結婚式の日取りの相談が始まっていた。


 だまし討ちみたいな状況に、アスターは一応両親に抗議したが、あちらから莫大な結婚支度金を提示されて、さらには上位貴族と縁続きになれるメリットの多さに脳内フィーバー状態になってしまい、彼らの耳には彼女の言葉は届かなくなっていた。



 そんなわけで、アスターは齢十六にして結婚が決まったのである。


***


「……と、いうわけで私も例に漏れず政略結婚をするのよね。旦那様になる人の顔も薄ぼんやりとしか覚えていないのに、式が終わったら初夜に突入するとか、正気の沙汰とは思えないわ」


 だらしなくテーブルに肘をついてアスターは口をとがらせている。母親に見られたら雷を落とされるようなみっともない姿だが、あいにくアスターの自室には気心の知れた専属執事しかいないため、遠慮なくだらしない恰好をしている。


 あの顔合わせの後、すぐに結婚式の日取りが組まれ、考える余裕もなくあれよあれよという間にいろいろなことが決まっていってしまった。


 顔合わせからわずか三か月。

短い期間に婚姻準備をぎゅうぎゅうに詰め込まれたため、アスターは肉体的にも精神的にも疲れ切っていた。


自室で、気心の知れた執事と二人きりだとつい気が緩んで素が出てしまう。

 

 執事はそんな主人にお茶を淹れつつ苦言を呈す。


「政略結婚ってのはそういうものだと奥様からさんざん教えられていたじゃないですか。何を今更。結婚式はもう明日なんですよ。そんな無駄口をたたいている暇はないんです。休憩をしたら式の流れをもう一度確認しますよ」


 幼いころから世話係としてそばにいた執事のソレルは、主人のアスターに対して横柄な口を利くのが常である。

アスターはそんな執事を『慇懃無礼の見本』と称するが、日常生活から学業にいたるまで頼りっきりだったので、無礼だと責めることもできないのが現状なのだ。


 実際明日に控えた結婚式の諸準備ですら、この執事が取り計らっていて、アスターは彼の指示に従うだけでいい状態にしてもらっているので、もうどっちが主人かわからないくらい執事には頭が上がらない。


「式の流れって……あれでしょ? 誓いの言葉を述べて書類にサインして終わりでしょ? 別に難しいことないじゃない」


「アスターお嬢様はいつもそうやって予習しないで本番で盛大に失敗するタイプでしょう。いい加減学習したらどうですか? お相手のフレデリック様は我がクロスト家よりもはるか上位貴族なんですよ? あちらのご親族が見ている前でバカ丸出しの失敗なんでしようものなら即日返品かもしれないのに、もうちょっと危機感を持ったほうがよいですよ」


「えー……そんなこと言ったって、この縁談はあっちが是非にって申し込んできたのよ? 私だって家督が釣り合わないし止めたほうがいいって思ったけど、どうしてもって言われたんだから、自然体の私でいいってことでしょ」


 この縁談は、相手側がアスターを見初めて結婚を申し込んできたのだ。貴族の位からいうとアスターは相当な玉の輿に乗ったといえる。


「それがおかしいんですよ。お嬢様が絶世の美女なら一目惚れと言われても納得できるんですが、お嬢様は普通の域をでないじゃないですか。フレデリック様が超絶不細工とかならまだ分かりますが、あの方結構なイケメンでしょう。いろいろ不自然なんですよ」


「普通の域を出ないって割と傷つくんだけど。そりゃ私は平凡だけど、好みなんて人それぞれじゃない? バラが好きな人もいればペンペン草が好きっていう人もいるという話よ」


 ねっ? と可愛い子ぶってみると、ソレルは無言で顔をしかめていた。長い付き合いだから口に出さずとも分かる。ペンペン草は花じゃない、と。地味顔が可愛い子ぶるのが痛々しい、とも。


「そ、それにホラ、学業のほうでは結構成績優秀者で通っていたし、慈善活動ではいつもリーダー役をして、頼りになるしっかり者ねって言われていたのよ? そういう内面的な? 良さ? みたいなものを気に入ってもらえたんでしょきっと」


「学業は試験前に私が付きっ切りで指導してようやく上位に入れたことをお忘れですか? それに、面倒事を押し付けられて断れないからいつもリーダーをやらされていた人のどこがしっかり者なんですか? お嬢様のポジティブ思考も度が過ぎるとアホに見えますよ」


 執事の冷たい目線に耐え切れず、アスターは反論を諦めおとなしく明日の工程表を確認し始める。

ともかく執事のいうことに従っていれば大抵上手くいくのだ。工程を確認せよとその執事が言うのだから、ちゃんと工程通りに明日を乗り切る必要があるのだろう。


 ペラペラと工程表をみていると、最後の項目に目が行き思わず深いため息が漏れてしまった。式の後は当然だが夫となる者との初夜が控えている。女性としての準備や心得について母親直筆のメモが添えられていて、あまりにも具体的な内容に思わず目をそらしてしまう。

 

「……結婚式が終わったら、しょ、初夜なのよね……今日まで赤の他人だった人とそういうことをするってやっぱり無茶すぎない? できる気がしないんだけど」


「無理でも無茶でもそういうものなので。大丈夫ですよ。閨でのことは男に任せておけばいいんです。じっとしてりゃ相手が勝手に何かしてそのうち終わりますから。お嬢様は素数でも数えていればいいんです」


「閨で素数を数える女なんて嫌すぎるでしょ。雑なアドバイスありがとう」


 嫌味で返しても生意気な執事はいつも通り涼しい顔をしている。その横顔を盗み見て、アスターはばれないようにこっそりとため息をついた。


(主人の私よりも、この執事のほうがよっぽど高スペックなのよね……)


 幼いころからアスターの世話係としてそばにいるこのソレルは、成長するにつれその見目の良さと有能さであちこちから引き抜きの話が舞い込んでくる。

たいした家柄でもない上に、突出した才能も美貌もないアスターの執事ではもったいないと陰口をたたかれているのも知っている。


良い転職先はほかにもいろいろあるだろうに、それでも彼は義理堅く、今回アスターの嫁ぎ先にもついてきてくれるという。まあ、女主人として采配を振るう自信が全くないと泣きついたから、見捨てたらアスターが詰むと分かるだけに見捨てられなかったのだろう。


 今の雑なアドバイスも、気休めを言っても仕方がないので彼なりに励ましてくれているのだ。多分。


「まあ……どうしても無理だったら、延期を申請するわ」


「延期申請がどの段階かによりますけど、普通の男は途中で無理と言われたらキレますよ」


「えっ、じゃあどうすればいいのよ」


「諦めてください。無心で素数を数えて乗り切ってください」


「素数で乗り切れることじゃないと思うのよ。というか素数を推してくるのなんなの? 羊じゃダメなの?」


「初夜の途中で寝落ちする新妻という汚名を得たいのならどうぞ羊を数えてください」



 現実逃避したくて執事相手に無駄口をたたいていたが、就寝の準備にメイドが部屋を訪れてきたのでソレルはティーセットをもって部屋を出て行った。


 寝具に潜り込むと、明日はもうこの家にもこの部屋にも帰らないのよね……と切ない気持ちになる。よく知りもしない男の元へ嫁ぐことに不安しかなかったが、今更不安がってもなるようにしかならない。


 持ち前のポジティブさでアスターはそれほど思い悩むことなく早めに眠りについたのであった。


***




 ――――結婚式当日。


 アスターは朝からメイド総がかりで磨き上げられ、人生で一番きれいな見た目に仕立て上げられていた。

コルセットは人体の限界を超える勢いで絞められたため、腰の細さとの対比で普段はささやかな胸が協調されて美しい曲線を描いている。

 印象に残らないと言われがちなアスターの顔面も、腕の良い化粧師のおかげでもはや別人レベルの華やかな美女に見えている。

両親が何度も『ずいぶん化けたなー!』と失礼な言葉を連発していた。


 教会のバージンロードを父親にエスコートされて新郎のもとへ向かう。

 

背の高い新郎は、白いタキシードがよく似合う。久しぶりに顔を合わせるが、そうだこんな顔だったなあ……とアスターはぼんやり考えていた。


 なにせ新郎のフレデリックとはこれまでに三回しか顔を合わせていない。婚約が決まってあいさつに来てくれた時と、その後結婚式の打ち合わせに両家で会ったのが二回だけだったので、どんな顔をしていたか若干忘れ気味だった。


(まあ……イケメンよね……)


 この顔面で位の高い貴族の子息ならば、どんな美女でも娶れると思うが、地味顔フェチなのだろうかなどと失礼なことを考えていた。

 だが、今日にいたるまでほとんど会いにこなかった事実を考えると、この結婚は彼の親が勝手に決めたのかもしれない。


(あり得るわ……。そういえば最初からご両親のほうがノリノリで話していたのにこの人無口だったもの)


 貴族の結婚は自由恋愛ではない。それは身分が高いほどその傾向は強い。おそらく、このモテそうな息子が女性問題で身持ちを崩すことのないように、嫁は派手すぎないしっかり者の娘がいいと親が決めた縁談だったのだろう。


 彼もまた望まない結婚なのかもと思うと、急に親近感が湧いてくる。


(赤の他人からのスタートでも、これから関係を築いていけばいいのよね)


 そう考えるとすっかり気が楽になった。お互いツラいよね! 一緒に頑張ろうぜ! と手を取り合う青春の一幕みたいなイメージを膨らませ、新しい生活に思いを馳せているうちにいつの間にか式は終わっていた。


誓いの言葉も無意識にそらんじていたようで、前日頑張った自分を褒めてやりたいとドヤ顔で退場していると、ものすごく渋い顔の執事と目が合った。眉間のしわの深さから、明らかに何かやらかしたのだろうが、招待客はいい笑顔なので良しとしよう。


 結婚式が終わった後は夫婦そろって招待客にお礼を述べてお見送りをする。友人知人へのお披露目はまた別の日にパーティーが開かれるので、式のあと、夫婦は新居へと向かう。

 

アスターはウェディングドレスを脱がされ、湯を浴びて化粧を落とした後、もう一回薄いメイクを施される。そしてさきほどまで身に着けていた鎧のようなコルセットと真逆の、着る意味を見いだせない防御力ゼロのスケスケのナイトドレスを問答無用で着せられた。


「お嬢様、ハーブティーでも召し上がりますか?」


メイドたちが下がったあと、部屋の外で待機していたソレルが入室してくる。

男性であるソレルがナイトドレス姿になったアスターの元を訪れるのは問題があるはずなのだが、幼いころから一緒に過ごしてきたためアスターもメイドたちもその辺の感覚が鈍っていた。

 

無駄に刺しゅうやリボンが縫い付けられたナイトドレスは着心地が悪く、いつもの綿パジャマに着替えたいアスターはぶつくさ文句を言う。


「どうせ真っ暗にするんだから化粧もナイトドレスも意味なくない? ドレスなんかより、もっと脱がしやすい布にすれば効率的なのに」

 

「いきなり事が始まるわけじゃないんですよ。雰囲気づくりって言葉ご存じですか? 初夜の場に適当な布を巻いたすっぴん女がいたら、普通の男は萎えるでしょうね。特にお嬢様はさっきまで別人メイクで顔を合わせていたんですから、いきなりすっぴんでは誰だか気づかれない可能性もありますよ」


「ねえ、そりゃさっきは化粧で美人になってたけど、別人に間違われるほど加工していないわよ。ていうか、ソレルは何で寝室に来たの? もう用はないでしょ?」


「いえ、主寝室の隣の使用人部屋で私は一晩中待機するんです。何かあった時のために、別室で見届け人が控えていると工程表にも書いてありましたが、お忘れですか?」


「えっ? ソレルが隣で聞き耳を立ててるってこと? えっ嫌すぎるんだけど。そういうのって普通女性とかにしとくもんじゃない?」


「みんな徹夜がつらいからイヤだと言って引き受けてくれなかったんです」


「あー……」


 実家から連れてきた馴染みのメイドたちは、仕事はできるがプライベートを大事にしたいタイプなのである。夜勤手当を出されても、徹夜などしたら肌が荒れるからお断りだとすげなく言い捨てる彼女らの姿が目に浮かぶ。


 友達よりも身近な執事に初夜のあれこれを聞かれるのは死ぬほどイヤだが、あちらも聞きたくもないというので、とりあえず耳をふさいでいてもらう方向で話がついた。


「まあ、じゃあほどほどに頑張ってください。旦那様は後から来るので寝落ちしないでくださいね」


 そう言ってソレルはさっさと隣室に行ってしまった。

 広い主寝室にひとり取り残されたアスターは、ひとまずベッドに入って夫となった人を待つことにした。






「……暇ね……」


 ただ待つだけなので手持無沙汰である。

 夫は後から来るのが決まりらしいのだが、それにしても来ない。待つと言っても五分くらいかと思ったら全然現れない。こんなことなら何か本でも持ってくればよかった。


 寝室に時計がないのでわからないが、体感でもう一時間くらいは待っている気がする、と思ったあたりで、ようやくひとつの疑念が湧いてくる。


(あれ? ひょっとして、来ないとか?)


 あっちも望んでないけどお互い様だしとアスターは納得していたが、ひょっとしてやっぱり無理となって逃げたという可能性がある。

 もしくは、『お前を抱くつもりはない……!』という無言の抵抗とかだろうか。そうだとしても、無理なら無理で一言あるべきだ。スケスケのナイトドレスを着た姿で一人待ち続ける姿はあまりにも間抜けすぎる。


「来ないんですけどって言いに行ったほうがいいのかしら……」


 いや、でも誰に?


 ここまでアスターの身支度を手伝ったのは実家から連れてきた使用人たちだ。あちらの使用人頭や家令にはちょろっと挨拶をしただけで、どこにいけば会えるのかも分からない。

 と、なると隣室にいる己が執事のソレルあたりに言うのが無難なところだが、呆れる顔が目に浮かぶのでなんとなく言いたくない。


「……ま、いっか」


 来ないなら来ないでいいじゃないかと、気持ちを切り替えた。

別にアスターとてまだよく知りもしない男と積極的にあれやこれやしたいとは思っていないわけだし、問題は明日に先送りしたって構わないだろう。


 そんなわけで、アスターはシーツに潜り込んで、寝た。


 朝早くから結婚式の準備をしてたくさんの人に挨拶をして気疲れもしていたせいで、寝る体制に入ったアスターは目をつむって三十秒で寝た。





 アスターがすっかり寝入ったと思われる深夜遅くに、ドアをゆっくりと開ける音が静まり返った部屋に響く。


 そして室内に一人の男が足音を殺しながら入ってくる気配がした。


 その男はゆっくりと彼女が眠るベッドへと近づき、そっと脇に腰掛ける。ギシッ、とベッドがきしむ音とともに、毛布がまくられる。


 さきほどまで深い眠りについていたアスターだったが、一回ぐっすり眠ったためこの時は半分目が覚めかけていた。

 その時に人の気配がしたので、これはようやく旦那様が現れたのかと思い、一気に頭が覚醒して、毛布の中で心臓をバクバクさせていた。


(ちょ……、今更来るの!? 今日はもうないと思って一回リラックスしちゃったから心の準備ができてないんだけど!)


 どうしようどうしようと慌てふためいていると、毛布がまくられたので、とりあえず『寝てませんよ! ちゃんと待っていましたよ!』というアピールのため、のぞき込んできた相手に顔をむけ、ニッコリ笑って見せた。


「あ、どうも旦那さ…………ま? えっ、誰―!? ぎゃああああああああああ変質者――――!」」


「ぎゃ! 痛いっ! ぎゃー痛い怖い痛い怖い! ぶたないでー!」


 侵入してきた男はフレデリックではなかった。夫の顔は結婚式まで売る覚えだったが、式の最中ずっと顔を合わせていたのでしっかりと人相の確認をしてあったので間違えようもない。

 フレデリックは細身の優男といった風体だが、侵入してきた男はがっちりとした肉体労働系の大柄の男だ。紹介された使用人にもこんな顔の奴はいなかった(はす)だから、こいつは不法侵入者に違いないと、アスターは声の限りに叫んでフルスイングでこぶしをお見舞いしてやった。


「大変だー! 侵入者―! 変質者―! 強盗! 痴漢! 誰か来てくださーい! 変態変態へんたーい!」


「ちょっ、違、ごめんなさいごめんなさい変態じゃないです! 違うから叫ばないで! ていうかぶたないで!」


 殴りながら叫び続けていると、バターン! とあちこちのドアが開いて、執事のソレルと本来ここにいるはずのフレデリックと、もう一人見知らぬ女の三人が同時に飛び込んできた。


「何事ですかお嬢様!」


「どうした!? 何があった!?」


「お兄様大丈夫ですか!?」


 どうしたどうしたと騒ぐフレデリックと見知らぬ女が侵入者の男に近づき、ケガでもしたのかと心配をしている。

いや、心配するのそっちじゃないだろうとアスターが呆然としていると、同じことを思ったであろうソレルが怒りをあらわにしてフレデリックに詰め寄った。


「これは一体どういうことなのでしょうか? フレデリック様が寝室にいらっしゃらないと思っていたら、得体のしれない男が入ってきたんですよ? どうやらお知り合いのようですし、信じがたいことですがもしやあなたが手引きしてこの男を引き入れたんじゃないでしょうね!?」


 頭突きする勢いで詰められて、フレデリックはたじたじになっている。


「いや、それは……そのう……」


「フレデリック、やっぱ無理だよお。こんな狂暴な女の子を組み敷くのは僕には無理だあ」


「ちょっとお兄様! しっ! 黙って!」


 侵入者の男がフレデリックの名を呼び、さらには隣にいた女がお兄様と呼びかけたことで、全部がグルだということがはっきりした。ソレルが静かにブチ切れてこめかみにビキビキっと青筋が浮かぶ。


「……お兄様? フレデリック様と一緒に入ってきたこの女性は誰なんですか? 侵入者と関わりがありそうですが、一体なにを企んでいるんです?」


「「あわわわ」」


 ソレルが鬼の形相で詰め寄ると、二人はすくみあがった。それまで唖然としていたアスターがこのあたりで我に返る。


「えっと……とりあえずどういうことなのか、説明してほしいんですけど……まあ一旦落ち着いて、そこの人も座って話を聞かせてください」


 アスターが眠る寝室にこの不審者を引き入れた首謀者がフレデリックであるとさすがに気が付いていた。どんな事情があるのか知らないが、もうその事実だけでひどい話である。


正直ぶん殴りたい気持ちだったが、ともかく話を聞かないと始まらないと考えアスターは、ひとまず皆に話し合いを持ち掛けた。


***


 話し合いをするにしても、スケスケナイトドレスは人前に出る格好ではないため、先ほどまでソレルが控えていた隣室に行ってその辺にある服にささっと着替えた。

とはいえ、服を選ぶ余裕などなく、ちょうど荷物の上に置いてあった運動用のズボンとシャツを拝借したので、およそ淑女とは程遠い、庭師の子どものような出で立ちだが、見た目に構っている余裕はない。


 寝室に戻ると、三人がそろってベッドの上で正座をして待っていたので、自分もそれに倣ってベッドに乗り正座で三人に向き合った。


 無駄に広いベッドの上で四人が膝を突き合わせて座るというおかしな構図に疑問が浮かばないわけではなかったが、寝室には四人掛けのテーブルなんて気の利いたものはないため、おかしいなと思いつつこの状態で話し合いを始めるしかなかった。


 ちなみに執事のソレルは事の当事者ではないからアスターの後ろを陣取る位置で腕を組んで立っている。

静まり返った部屋に時々ソレルの大きな舌打ちが響く。執事のあんまりな態度に、フレデリックがアスターのほうを見るが、彼女にとって執事の舌打ちは日常茶飯事なので気にも留めていなかった。


 殺伐とした雰囲気のなか、ひとまずアスターが口火を切る。


「ええと……まずそこのフレデリック様に伺います。今日、あなたはどうして寝室に来なかったのですか? そしてこの男があなたの代わりに来たのは何故でしょう。一連の事情を聞かせていただきましょうか」

 

 話を振られたフレデリックは、隣の女と侵入者の男をちらちらと見て逡巡していたが、アスターの後ろからものすごくイライラした足踏みの音が響き始めたので、観念したように事情を語り始めた。


「俺は……実はもうここにいるカトレアと愛しあっていて……アスターには悪いのだが、夫婦の契りを交わすことができないんだ。だから初夜の場に俺が来るわけにはいかなかったんだ」


 お前を愛してやれなくて本当にすまないっ! と隣の女の肩を抱いてキリっとした顔で言い放った。


 まあその女性はフレデリックが女とともに現れた時点で愛人かなにかだろうと予想がついていたので驚きはなかったが、それよりも謝るポイントが『愛してやれない』という斜め下のものだったので、腹が立つより前に笑いが漏れそうになる。

というか後ろのソレルは『あはははは』と感情のこもらない笑い声をあげていたのでちょっと怖かった。


「そうじゃなくてですね……まず大前提として、愛を誓った女性がいたのならなんで私と結婚したのですか? 親が決めた縁談だとしても、それなら恋人いるから結婚できないと断れば済む話ですよね? それなのに別の女と結婚式まで上げちゃうのは全てにおいて無責任すぎるでしょう」


「いや、その、両親にはカトレアとの交際を反対されていて、親が決めた相手と結婚しないのなら廃嫡にすると言われて仕方なく……」


「廃嫡されてその彼女と結婚したらよかったんじゃないです??? 全然仕方なくないですよね。私にもその女性にも不誠実極まりないですよね???」


「フレデリック様を責めないでください! 私のせいで身分を失わせるなんてできない、日陰の身でも構わないと言ったからです!」


 これまでずっと黙っていたカトレアが、急に生き生きとして言い返してきた。こっちもキリっとした顔をしているので、よく似たカップルだなとアスターは余計なことを考えていた。


「じゃあフレデリック様と愛人で廃嫡されないために共謀してアスターお嬢様を騙して結婚に持ち込んだってことですか。余計にタチが悪いですね」


 アスターの代わりに、後ろにいるソレルが言い返してくれた。

確かにその通りである。

本人は謙虚な自分のつもりで言ったのだろうが、単に貴族の身分を失ったら贅沢な暮らしができなくなるからだろと、高そうなアクセサリーを身に着けたカトレアを見て内心突っ込みが止まらない。いやそれよりも、日陰の身でと言ったのに、だったらどうしてお前はこの場にいるのかと言いたくなる。


「それで? 廃嫡されないために親の決めた相手と結婚して、でも愛人を切れるつもりもないから、本妻になった女を殺してしまおうと思ったってことですよね?」


 話の核心を突くと、一瞬その場が水を打ったように静まり返った。


 寝入った頃を見計らって男を送り込んできた理由など、それ以外考えられない。


あの時、アスターが目覚めなければとっさに抵抗できずに殺されていたはずだ。彼らの思惑を指摘してやると、三人とも真っ青になって首をぶんぶんと首を横に振る。


「まっ、まさか! 殺すなんてそんな恐ろしいこと考えていない! ただ俺はカトレアを裏切れないから、君がいる寝室に行くわけにはいかなかったんだ!」


「ふざけないで。こっそりと寝室に正体不明の男を送り込んできておいて、殺す以外にどんな理由があるって言うの?」


「いや……だって、寝室は暗いし、俺でなくても気づかないかなと思って……彼には、俺の代わりにアスター嬢と初夜を済ませてもらおうと……」


「はあ?」


 渾身の『はあ?』が出た。

 この男、自分の代わりに別の男をあてがって、アスターとの初夜を乗り切るつもりだったらしい。

ばれないとでも思ったのだろうか。思ったから実行したんだろうが、馬鹿としか言いようがない。予想の百倍くだらない企みだった。夫婦の営みを断るにしても、もっとほかにあっただろう。


「……馬鹿ですね」

「馬鹿ね」


 ソレルと意見が一致したところで、フレデリックが逆ギレしてきた。


「ばっ、馬鹿とはなんだ! 俺はカトレアだけを生涯愛すると誓ったから君を抱くことはできないんだ! でも夫に拒まれたら妻としてあまりにも惨めだろう? だから傷つけないように、俺なりに気を遣って代役を立てたんだ! 人の気遣いを馬鹿にするのは人としてどうかと思うぞ!?」


 アスターが気づかなければ全てが丸く収まるはずの計画だった! と鼻息荒く主張する。人道を大きく外れた行為を現在進行形でしているこの男に人としてどうかと言われても自虐ネタとしか思えない。


「…………馬鹿なんですね」

「馬鹿なのね」


 丸く収まるはずがないだろうと突っ込む気にもなれない。あまりにも馬鹿すぎて。

 ソレルと二人で馬鹿だ馬鹿だと呟いていると、愛する男を貶され続けて腹が立ったカトレアが再び参戦してくる。


「ひどい! 仮にもあなたの夫に対してその言い方はないんじゃないですか!? フレデリック様は一穴主義を貫く誠実で立派な殿方なんです! それにあなたを気遣ってしたことだと言っているじゃないですか!」


「い……? 何主義って?」


「一穴主義ですよお嬢様。女を穴に例えて、一人しか抱かないという意味の低俗で下品な隠語です」


「一生知らなくていい知識だった。記憶から消去しとくわ」


 説明されて意味を理解した瞬間、聞かなきゃよかったと後悔した。


「その誠実で立派な殿方がした気遣いが、ばれなきゃ平気の精神で妻を騙して別の男に抱かせようって作戦ですか。誠実どころか下種の極みだわ。死ねばいいのに」


「死ねばいいのにって言った!? ねえあなた今フレデリック様に死ねばいいって言ったわよね!?」


「お嬢様、口が悪いですよ。せめて、早々に召されますようにとおっしゃってください」


「丁寧にしただけ余計に嫌味に感じるわよ!」


 どうにもこのバカップルとは話がかみ合わないので、さっきから全然話が進んでいない。論点を見失いそうになるので、アスターは不審者の男に矛先を向けた。


「そこのあなたは、自分が何をしようとしていたのか理解しています? フレデリック様からどういう話を持ち掛けられたんですか?」


「えっ……まあ、フレデリックからは、今日結婚式で初夜だから夫のふりをして妻を抱いてきてほしいって言われて……ハイ」


「その提案で、ハイ分かりましたってならないでしょう普通。そんなことできないって断る選択肢はなかったの?」


「いやあ。だって、女の子抱けてお金ももらえるなんてオイシイ話、断る理由無くないですか?」


「無くなくないのよ。一般的な常識を持ち合わせていたら普通断るのよ。もう駄目だわ、みんな馬鹿だったわ。というか、あなたこの女にお兄様って言われてなかった? もしかして実の兄妹なの?」


「あっ、そっす。妹の秘めたる恋を応援したくて、俺にできることがあるなら協力するよって言ったら初夜の代役を頼まれたって感じです。ばれないように既成事実を作って、妻側の不貞の証拠にしようってカトレアの発案なんです! それなら持参金を返さないで妻を家からたたき出すことができるし、後妻に自分が入れるって計画で! すごいですよね、うちの妹、昔から頭がいいって評判で……」


「お兄様――――! 私そんなこと言ったかなあ!? 言ってないよねえ!? 何かの間違いじゃないかなあ!? フレデリック様! 兄の言っていることは単なる妄想ですからね!」


 カトレアが必死に誤魔化しているが、もう遅い。

 単なる代役で収まらない話だった。もっとひどかった。危うく不貞の事実を強制的に作られるところだったと知ってぞっとする。

 よくもまあ、そんな下劣な計画を思いつくものだと呆れていたが、カトレアの裏計画を知らなかったらしいフレデリックは一瞬困惑していたものの、カトレアの『違う』という言葉のほうを信じたようだった。


「あ、ああ、分かっている。鶏の丸焼きを見て、『可哀そうで食べられない……』って家畜にまで心を寄せるような優しい君が、そんな腹黒い発想をするはずがない」


「えっ? カトレア鶏の丸焼き実は嫌いだったの!? 自分で絞めて丸ごと一羽ペロッと食べちゃうから大好物かと思ってたよ。嫌いだったなら僕に分けてくれても良かったのに!」


「今お兄様とは話してないのよ! ほんっとうに黙って。ずっと黙ってて。永遠に口を閉じていて」


「なんで!? そんな冷たい言い方すされると兄ちゃん傷つく!」


 ぎゃあぎゃあと兄妹喧嘩が始まったのをアスターは悟りを開いたキツネのような顔で眺めていた。

 というか、この夫代役作戦は、そもそも彼女が計画してフレデリックを誘導したものだった。それにまんまと乗っかったフレデリックは、本当に愛人に操を立ててアスターとの初夜を避けたつもりだったようだが、愛人のほうはもっと腹黒い計画を立てていたのだから、完全に踊らされている。


「私が別人と気づかずにいたら、この男と既成事実を作らされて、不貞をした妻と汚名を着せられ無一文で家からたたき出されていたかもしれないってことね。暗殺計画のほうがまだ良心的な気がするわ」


「危うく社会的に殺されるところでしたね。地味顔のくせに調子に乗って間男と浮気して家を追い出されたなんて噂になったらもうお天道様の元を歩けなくなりますから、殺されなくても死にたくなりますね」


「地味顔って単語入れる必要あった? この状況で死者に鞭打つようなレスポンスはどうかと思うわ」


 ソレルの口の悪さは相変わらずだが、この場においては一番まともなので話すと安心する。ともかく、もうこの馬鹿三人衆と話し合いを重ねたところで何かが解決するとは思えない。アスターは今後のことをどうすべきか考える。


「……この結婚は破談ですね。最初から愛人がいたこと、初夜に別の男を送り込んできたことも全部両家の親に報告して、婚姻不成立とさせていただきます。いいですね、フレデリック様」


 なにやらまだもめている三人に向かって破談を告げると、騒がしかった場がしんと静まり返った。


「は、破談? いやあの、アスター嬢。それは困る。うちの両親は不貞などの神の教えに背いた行為にはとても厳しいんだ。実の息子であっても容赦しないだろうから、死んで詫びろと言い出しかねない。だから本当に困るんだって」


「不貞をしたら死んで詫びろと言い出しかねないほど厳格なご両親に育てられたのにどうしてあなたの倫理観はゴミみたいになっちゃったんでしょうね? というか私が不貞の冤罪をかけられていたら、叩き出されるんじゃなく、叩き切られていたんじゃないですか? 最低すぎません?」


 最低な行為をしかけてきた奴の困りごとに配慮してやる必要など塵ほどもない。夜が明けたらすべてを白日の下にさらすとアスターが宣言すると、三人ともそろって真っ青になった。


「ま、まずいですわよフレデリック様。私とは別れたことになっているのにまだ続いていたって事実だけで廃嫡は免れないです! 私、貧乏暮らしはイヤです! なんとかしてください!」


「いや、初夜に代役を立てたなんて事実が知れたら普通に殺される。というかお前、『フレデリック様の愛があれば他になにもいりません!』って言ってたじゃないか! 貧乏暮らしはイヤって。それがお前の本音なのか!?」


「甘やかされて贅沢に育ってきたボンボンには貧乏の辛さが分からないんですよ! もういいです! 私、もうあなたとはお別れします! あとは夫婦の問題でしょうから二人で話し合ってください!」


 プンプン怒りながら部屋から出ていこうとするカトレアの行く手をさっとソレルが阻む。


「いやいや、何さらっと帰ろうとしているんですか。むしろあなたとフレデリック様との問題なんですよ。二人で共謀してお嬢様を陥れようとしたのですから、その罪はちゃんと贖っていただきますよ」


「邪魔すんじゃないわよこのクソ執事が! アンタさっきから何を偉そうにしているのよ! 所詮使用人なんだから立場をわきまえなさいよ!」


「か、カトレア口の悪さが出ちゃってる。フレデリック様がドン引きしてるからお口に気をつけよう?」


「うるっさいのよ! 元はと言えばお兄様が失敗するからでしょう!? 黙らせて無理にでも既成事実を作れば全部上手くいったのに! 女に殴られたくらいで日和ってんじゃないわよ!」


 ぎゃー! と叫び手が付けられなくなったカトレアに、兄という男もおろおろするばかりで役に立たない。肝心のフレデリックは可愛い恋人の豹変についていけず呆然としている。


「なにボケっとしてんのよ! 二人とも今の状況分かってんの? こいつらに告げ口されたら私たち詰みなのよ? フレデリック様は廃嫡追放! お兄様は貴族の女に対する暴行で打ち首! それが嫌ならこいつらをなんとかしないとでしょう!」


 カトレアの言葉にようやく我に返ってハッとする二人。

 やらかした罪の大きさに気付き、これから自分たちがどんな道をたどるのか理解した瞬間、彼らは覚醒した。


「打ち首なんて嫌だよカトレア。ただ頼まれて断り切れなかっただけなのに……僕だけ貧乏くじ引いたみたいじゃないか。彼らに黙っていてもらわないと僕死んじゃうよ」 

 

「そうだな、このことをバラされたら俺は破滅するんだ。黙っていてくれ……とお願いしたところで、アスター嬢もそこの執事も聞きはしないだろう。ならば……」


 アスターたちを見つめる彼らの目が、だんだんと険しくなっていく。


「そうよ、フレデリック様もお兄様も分かっているわよね? 執事なんて平民なんだから行方不明になっても誰も探しやしないわ。そこの貴族の女だってフレデリック様よりずっと下位の身分なのよ。言うことを聞かせる方法なんていくらでもあるでしょう?」


「えっ? どうやって? 黙っとけと命令すればいいのか?」


「このポンコツ! 違うわよ! 女を傷物にするとか、実家に圧力をかけるとか病気だってことにしてどっか閉じ込めておくとか、色々あるでしょう! ちょっとは自分で考えなさいよ! ほんっとうに頭悪いわね!」


「……! そ、そうか! そうだな!」


 カトレアから罵倒されまくっているが、それよりも保身のほうが大事なフレデリックは、彼女の言葉に納得したように大きく頷いた。

 色々あるという方法のどれを採用する気なのか知らないが、どれをとってもアスターの意思を無視した最悪な方法である。


「ソレル、あなた行方不明にされるみたいよ。どこに連れて行かれるのかしら」


「多分黄泉の国でしょうね。南国とかリゾート地じゃないことは確かです」


 まあ口止めというなら物理的に口がきけないようにすると考えるのが妥当だろうな、と考えがまとまったところで、フレデリックとカトレアの兄がじりじりとこちらににじり寄って来た。


「執事には死んでもらう。アスター嬢は乱暴されたくなかったら大人しくしているのが賢明だぞ」


 フレデリックはそう言いながらアスターに迫ってくる。

その横ではカトレアの兄がソレルに飛びかかろうとしている姿が目に入った。

ソレルは細身で、相手の男はその倍はあるような大柄な男である。戦って勝てるとは思えない。

 もし捕まったらソレルは本当に殺されてしまうかもしれない。


「ソレル! 逃げて!」


 アスターが叫んだ瞬間、男がソレルに飛びかかった。が、ソレルが右腕を振り上げて何かを男の側頭部に叩き込んだ。


「ぐぎゃっ!」


 男は変な叫び声をあげてその場に崩れ落ちた。アスターがボカンとしてソレルを見ていると、彼は妙に膨らんだ靴下をジャリジャリ言わせながらニッコリと笑っている。


「これ、ブラックジャックという簡易の武器なんですよ。お嬢様が脱ぎ捨てた靴下に硬貨を入れておいて良かったです」


「待って、私脱ぎ捨ててなんてないわよ。どこで拾ったのよそれ。というか使用済みってこと? 殴る武器にするなら自分の靴下を使ってよ」


 ソレルはいつの間にか武器になるものを用意していた。

彼らが強硬手段に出ると予想して準備していたのかと感心していたが、単にどこかで靴下を脱ぎ捨てたアスターに嫌味を言いたくて拾っておいたのではと思わないでもない。


「……っ! お嬢様! 後ろ!」


 ソレルのほうに気が向いていたアスターの後ろから、手が伸びてくる。フレデリックもカトレアの兄が倒され一瞬呆然としていたが、いち早く我に返りアスターを人質にしようと迫ってきていた。


「っとにもう! いい加減にしてっ!」


「ぐぎゃっ!」


 迫りくるフレデリックの顔面にアスターの拳が叩き込まれた。

 鼻のど真ん中に拳が入ってしまったため、フレデリックは鼻血を噴き出して悶絶している。アスターも鼻の骨が当たったせいでびっくりするほど手が痛かったが、それよりも、鼻の骨が折れたらしい感触がしたので、折れると思っていなかったからかなり動揺していた。


「お嬢様、呆けてないで逃げますよ」


「あ、ソレル。うん、そ、そうね」


 男二人が戦闘不能になっている隙に逃げるのが最善だ。口封じにソレルを殺すなんていう結論があっさり出てくるような人たちなのだから、これ以上ここにいるわけにいかない。


「ちょっと! 待ちなさいよアンタたち!」


 一人まだ元気なカトレアが、行かせまいと立ちはだかってくる。それを見たソレルが、まだ手に持っていたブラックジャックをぐるぐると振り回し始めたので、さすがにそれで女性をぶん殴るのはどうかと思ったアスターが、カトレアに呼びかけた。


「そこのあなた。うちのソレルは女性だからって容赦しないから、その場からどいたほうが身のためよ。その可愛い顔は商売道具なんでしょう? ベコベコになっちゃったら使えなくなっちゃうわ」


 脅しがきいたのか、カトレアはヒイッと叫び声をあげて身を引いた。でも後ろから刺されたりしたら怖いので、すれ違う際に足を引っかけて転ばせておいた。


「ギャッ! 痛っ! ちょっとアンタ! 今足引っかけたわよね!? 信じらんない! ちょっと、謝りなさいよ! 無視すん……」


 ぎゃんぎゃん騒ぐカトレアを無視して二人はさっさと寝室を出た。


「ソレル、とりあえずフレデリック様のご両親に報告しましょう。郊外の別宅にいらっしゃるから、今すぐにでも……」


「手紙を早馬で送ればいいでしょう。お嬢様自身が行く必要はありません。ひょっとして、家の醜聞になることを嫌ってお嬢様との破談を認めない可能性もありますよ。しっかり者の女性に、女主人として家を仕切ってほしいと、顔合わせの際に言われていましたよね? 今回のことを告げたら、ダメな息子の代わりにお嬢様に家の采配を任せたいと言われるかもしれませんよ?」


 厳格な両親だとフレデリックは言っていたが、厳格だから公平であるとは限らない。

わざわざ目下の家から嫁を貰ったのは、都合の悪いことを黙らせることができると考えてのことかもしれない。

ひょっとすると、息子が愛人と切れていないことも承知していたのだろうか。

だとすると、醜聞が広まらないように息子は謹慎させて、アスターが代わりに財産管理から領地経営まで取り仕切るようにと言われ離縁は認められない可能性も大いにある。

 釣り合わない縁談の理由がそこにあるとしたら、アスターの両親も黙らせられるだけの何かを用意しているだろう。


「義実家もご両親も、お嬢様の味方になるとは限りません。離縁を望んでも許されない場合も想定しておくべきでしょう」


 アスターの両親は悪い人間ではないが日和見なところがある。今日の出来事を伝えたとして、一応は怒ってあちらに抗議してくれるだろうが、立場が上の者から脅迫されたらすぐに諦めてしまう程度の気弱な人間である。


「ええ~……何それ。アレと夫婦を続けるなんてゴメンだわ。でも確かに、うちの両親、長いものには巻かれろタイプだものね……どうしたらいいのかしら」


「そうですね、だからひとつ提案なのですが、このまま俺と逃げませんか?」


「……えっ? ソレルと? 逃げる?」


「お金の心配ならいりません。実は先ほど靴下に詰めておいた金貨は、お嬢様の持参金なんですよね。初夜の義を終えて正式に夫婦になったらあちらに渡す手はずでしたが、不成立となったので、逃亡資金として使わせてもらいましょう」


 にやっと笑って先ほどの靴下を掲げて見せてくる。

体裁を整えるために持たせた持参金は、確かに市井で細々暮らすなら十分な金額だが……。


「でも、その金額じゃソレルに給与を支払い続けるのは難しいし……あなたは、口が悪いけど優秀な執事なんだから、どこでも雇ってもらえるでしょ? これ以上私と一緒にいるメリットが、あなたには無い……」


 逃げるなら一人でなんとかするとアスターが言うと、ソレルは大きなため息をついて、彼女の顔を両手で包んでぐいっと上を向かせた。


「メリットも何も、俺は生涯あなたにお仕えしますと初めてお会いした時に申し上げたでしょう。それはお嬢様がお嬢様でなくなっても変わりません。俺が、あなたと一緒にいたいんですよ。ここまで言ってんのに、何でわかんないかなあ……」


 すねたような声と普段と違う口調にアスターは理解が追い付かず一瞬ぽかんとしてしまう。

 ……確かにソレルはアスターの嫁入りの際にも迷いなくついてくる選択をしてくれた。生涯お仕えしますよと言っていたが、いつもだらしないアスターの面倒をしぶしぶ看てやっているという態度だったので、職を失ってでもついてきてくれるとは思っていなかった。


「だって……それじゃまるで、私のこと」


「好きですよ。だから生涯お仕えすると言っているんじゃないですか。いい加減気づいてくださいよ」


「……っ」


 好き、と言ったソレルの表情はいつもと変わらず飄々としている。

またいつものように揶揄われているのかと、ちょっと疑いかけたが、彼の耳が赤くなっているのが目に入って、アスターも顔が赤くなるのを感じた。


 アスターの返事を待たず、ソレルは彼女の手を引いてまた歩き出す。これまで気にしたこともなかったのに、つながれた手が熱くて妙に意識してしまう。

恥ずかしくて黙ってしまったアスターの手を引きながら、彼は屋敷の裏口から外へと出た。


「こんなこともあろうかと、裏口に馬を用意しておいたんです。さ、お嬢様お手をどうぞ」


「あ、りがと……」


 こんなこともあろうかと言うが、どんなことがあると思って馬を用意していたのだろうか。

全てにおいて用意周到に見える彼の行動がやや気になるが、まあ普段から色々な想定をして先読みをするタイプの性格だから、この結婚が上手くいかない場合も考えてくれていたのだろうと一人で納得する。


 まったくもって頼りになる執事だが、どこまで読まれていたのかと少し怖く思う時もあるが、今回は本当彼に助けられた。



 いつの間にか、空は白み始めていた。アスターを鞍の後ろに乗せ、ソレルは馬を走らせ始める。どこへ行くのか告げられていないが、この優秀な執事ならばすでにどこか滞在先のめどをつけている違いない。


 


 彼の背につかまりながら馬に揺られているうちに、先ほどの告白を思い出して再び顔が熱くなってくる。まったく彼らしいひねくれた言い方ではあったが、好きという言葉に嘘はないと感じた。

 いつも嫌味な言い方をしても必ずアスターの助けてくれたし、どんな時でも彼は味方でいてくれた。思い返してみれば、確かにずっと大切にされて彼から愛されていたのだと、今なら分かる。


「ねえ……ソレル。いつから私のこと、好きでいてくれたの?」


 気になっていたことを訊ねると、ソレルは少しだけ首を後ろに巡らせてふっと呆れたように笑った。


「最初から、と言ったではないですか。アスター様の世話係に任命されて、初めてあなたにお会いした時からずっと、好きでした。陳腐な言い方をすれば、一目惚れというやつですね」


「……んっ? 初めて会った時? から?」


「だからそう言っているでしょう」


「……」


 あ、夜が明けましたねと言い、前を向くソレルの後頭部を見つめながら、アスターは心の中で呟く。


――――あなたと最初にあった時、私は三歳だったけど???


 そして執事見習いだったソレルは十三歳だった。

 十三歳男児が三歳女児に懸想したの? ホントに? と突っ込みたい衝動に駆られたが、色々あって疲れていたアスターは、考えることを放棄した。


(一途なタイプだと思えばいいのよね。うん、気にしないでおこう!)


 持ち前のポジティブさといい加減さを存分に発揮して、アスターは幸せな未来だけを想像するのであった。



おわり

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初夜に夫から別の男をあてがわれたのでグーパンして逃げた エイ @kasasagiei

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