第二十三話 本心

 ゴールデンウィーク初日のことだ。

 あの日――俺は死に掛けていた。

 ライオンの姿をしたクリーチャーズに襲われて、腹を割かれて……傷口からこぼれ出る自分の臓物と大量の血液を見て――俺は自分が死ぬと思った。

 助かる術はない。

 そう思っていたからこそ、俺はレイラに恩を返そうと思った。

「この家に住みたい? お前、そんなことが望みなのかよ?」

「うむ。そんなことが望みなのじゃ」

 だから目を覚ましてレイラがそう言い出した時、俺はその願いを受け入れた。

「まあ今は俺以外誰も住んでいないし、お前には命を助けられた恩があるから……別にいいけどよ」

「ほんとか⁉ やっほーい! やったー!」

「……そんな喜ぶようなことか?」

 しかし命を助けられたからと言って、俺はレイラを聖人や善人の類と思ったわけではない。

 レイラが人ならざる者なのだろうなとは、最初から思っていた。

 レイラと出会ったばかりの頃の俺はもちろん、海鳥達が使う吸血鬼って単語の意味や、『第二の人外シルバー・ブラッド』なんて言葉は知らなかったから、レイラが『災禍の化身』と呼ばれるような存在であることは知らなかったが――それでも俺はレイラが、人間にとって負の、何かしらなんだろうなとは思った。

 それは全身を黒い靄のようなものに包まれた姿を見たからというのもあるが、そうじゃない幼女の姿をしていても、言葉が通じて意思疎通ができても、レイラからは、人間らしいという印象をあまり受けなかったからだ。

 目が覚めて幼女の姿で初めて対面した時、レイラは髪が膝に届くほど長く伸び放題の状態で、全裸の格好だった。しかもレイラは一糸まとわない自分の姿をまったく恥じず、その状態が自分にとって平常のように振る舞った。

 野生の獣に近い心を持った何か。

 人とは異なる精神を持った何か。

 レイラと接して、俺は最初にそんな印象を抱いた。

「で? レイラ……お前は一体何者なんだ?」

 だからレイラを家に上げた時、一度だけそう尋ねたことがあった。

 しかし俺を助けた当の本人は、俺の質問にこう答えた。

「? 儂の名前はレイラじゃが?」

「いや、名前を訊いているんじゃなくて」

 レイラはそもそも、質問の意味をよくわかっていなかった。

「俺はお前が何者かって訊いたんだよ」

「……?」

「何故そこで首を傾げる」

「ナニモノってどういう意味じゃ?」

「……そこから説明しないといけないのか」

 その後、言葉の意味を説明したり単語を変えたりして、どうにかして俺の質問をレイラの理解できる形に変換したあと、レイラはこう言った。

「んー……わからん」

「わからんて……自分のことだろ?」

「そう言われてもの……確かに儂は人間ではないが……何者と言われてものう。うー」

「……自分でもうまく説明できないのか」

「あ! よくわからんが儂、しる……えぇーっと、忘れたがなんとかって呼ばれておるぞ?」

「忘れたらなんなのかまったくわからないなー」

 レイラは自分の素性をちゃんと説明しなかった。

 今の俺だったらレイラは、自分のことをうまく言葉にして説明することができなかったから、あんな言い方をしたとわかるが、まだレイラのことをあまり知らなかった俺は、レイラが意図的に自分の素性を明かさないようにしている可能性を考慮していた。

 だから俺は、レイラのことを『視る』ことにした。

 共に生活しながら、レイラを観察することにした。

 レイラがどのような存在で、どんな性格をしていて……何ができて……何がしたくて、何故俺の前に現れて、なんのために俺を助けたのか……わからないことはすべて観察して、考察して明らかにしようと思った。

 ――家で飯を食う生活ができれば、ほかのことはどうでもいいし。

 そう思って、俺とレイラとの生活は始まった。

 初めは知らないことが多かったし、生活するのにそれなりに苦労したけど、共に過ごしているうちに、俺は色んなことを知った。

 レイラは自分の正体について説明できなかったが、俺がレイラの眷属になったことは言ってくれた。俺を眷属にすることによって腹の傷は治ったと、レイラはそう言った。眷属という単語の意味は知っていても、レイラが何者なのかよく知らなかったから、俺は自分が何になったのかよくわからなかったが、しかし、目覚めてから感覚がこれまでと違うことから、漠然と自分が、人間じゃない、人とは異なる何かになったんだなとは思った。

 レイラはとにかく、多くのことを知らなかった。

 テレビやスマートフォンについても、箸の使い方や風呂場が何をする場所なのかも、まったく知らなかった。だから俺はレイラが聞いてくることになるべく噛み砕いて説明して、色んな物事を教えた。

 初めて食事をした時、レイラは獣みたいに手掴みでご飯を食べ始めたため、俺は箸の使い方を教えた。しかしレイラはうまく箸を扱えなかったため、まずはスプーンとフォークを与えて、その使い方を教えて、一緒に食事をした。

 初めてレイラを風呂に入れた時、レイラは浴槽に溜まったお湯を見て首を捻っていた。ここは何をする場所なのかわからないと言うので、俺は一緒に風呂に入って、風呂場が身体を洗う場所であることを教えた。

 レイラは服を着ることを嫌った。

 風呂から出て身体を拭いて髪を乾かしたあと、俺は買って来た女物の下着や服をレイラに着させたのだが、レイラは落ち着かないと言って、せっかく買って来た衣服をビリビリに破って脱ぎ捨てた。買って来た服は何を着せてもレイラは嫌がって脱ぎ捨てたが、唯一、俺のTシャツだけは何故か大人しく着て、破って脱ぎ捨てることはなかった。

 レイラの正体を知ったのは、ゴールデンウィーク最終日の、翌日のことだった。

 ゆーきと海鳥が俺の家を訪れたあの日、海鳥からレイラが『災禍の化身』と魔術師の間で恐れられている、吸血鬼であると聞いた。あの時は暴走するレイラを見て、レイラがそう呼ばれるのに相応しいチカラを所有していることを知ったし、眷属になって自分がどんな能力を持ったのか、人間ではなくどんな存在になったのか、より具体的に知る日になった。

 ゴールデンウィークが終わって登校するようになった時、レイラは家に一人にするなと駄々をこねた。だから俺はちゃんと帰って来るからと言って学校に行ったのだが、玄関の扉を閉める瞬間までレイラは不安そうな顔をしていたため、俺はなるべく早く帰ってこようと思った。

 レイラと一緒に過ごして、世の中には、魔術という異能を操る人間がいることを知った。

 世の中には吸血鬼と呼ばれる存在がいて、レイラは二人いる吸血鬼の原点の、片割れだということを知った。

 俺を襲った怪物はクリーチャーズと呼ばれる存在で、吸血鬼から生み出された存在であることを知った。クリーチャーズは週二くらいの頻度で、よく俺を襲ってきた。

 レイラの髪は伸び放題だったため、俺が切って整えた。

 最初は美容院に行って、専門の人に切ってもらった方がいいと思って、予約の電話をして街に出掛けたのだが、レイラは道の途中で人を見付ける度に俺の腕に抱き着いて警戒するように唸り、街に行くと人の多さに驚いて、一歩も動かなくなった。レイラは頑として街中を歩くことを拒否して、最終的に怖い怖いと言って泣き出したため、俺はレイラを連れて美容院に行くことを諦めて、その日は自宅に帰って、俺が髪を切った。

 毎日一緒に食事をしている内に、レイラは肉が好きであることを知った。魚も野菜も美味しそうに食べると言えば食べるが、レイラは俺が作る肉料理全般を何よりも美味しそうに食べた。

 レイラは辛い食べ物が嫌いであることを知った。いつの日だったか、夕食に麻婆豆腐を作った時、レイラは一口それを頬張ると悶絶して口の中が痛いと言って泣いてしまったことがあった。だからそれからは麻婆豆腐を作る時は、俺はレイラが食べられるよう、甘い味付けのものを作るようにした。

 夜寝ている時、レイラはよく俺の布団の中に潜り込んできた。最初は隣に自分の布団を敷いているのだから、そっちで寝ろと注意したが、何度注意してもレイラは俺の布団の中に潜り込んできてやめなかったため、俺は注意するのをやめた。レイラは寝相が悪く、たまに俺の顔面を蹴ってくることがあるため、実は言うと毎日少し寝不足気味だった。

 レイラは女物のパンツを履くことも嫌がったため、パンツを履く習慣を身に付けさせるのには苦労した。

 レイラは文字が読めなかった。

 レイラは自動車どころか、自転車の存在すら知らなかった。

 レイラはお金の概念を知らなかった。

 レイラには一度、電子レンジとテレビを壊されたことがあった。

 レイラは家の中で寝るのが好きだった。

 レイラは人工物が多い街よりも、自然に溢れた森の方が好きだった。

 レイラは――俺が作る料理を、いつも美味しそうに食べた。

「……俺が何をしたいか――だあ?」

 と。

 その問いを聞いて、俺は今までレイラと過ごした日々の記憶を思い返しながら、佐々木に言った。

「そんなもの、決まっているだろ……俺は家で飯が食える生活ができれば、それでいいんだよ」

「嘘よ……もしあんたがそうしたいだけだったら、あんたが『第二の人外シルバー・ブラッド』を受け入れている理由に説明が付かない!」

「だから!」

 俺は言った。

「俺が言う生活の中には……レイラのことも含まれているんだよ」

「…………」

「最初はどうでもいいって思っていたよ……レイラは俺の命を助けてくれた恩人だったけど、あいつが人間じゃないのはわかっていたからな。観察してレイラが俺を害する気があるってわかったら、その時はあいつを壊そうって思っていたし……最初は自分さえ家で飯が食える生活ができていれば、それでいいって思っていた」

 家で飯が食える生活ができたら、それでいい。

 それさえできれば、レイラが化物だろうが俺自身が人間じゃなくなろうが、ほかのことはどうでもいい。

 そう思って俺はレイラとの生活を始めたし、レイラが『第二の人外シルバー・ブラッド』と呼ばれていることを知っても、俺の望みは変わらなかった。

 変わっていないと思っていた。

「けどよ、レイラと一緒に過ごしているうちに、俺の望みは変わっていたんだ」

「…………」

「なあ佐々木。レイラを化物としか見ていないお前は知らないだろうけどよ……あいつはな、俺が作ったご飯を、滅茶苦茶美味しそうに食べるんだ」

「…………」

「それだけじゃない。あいつは一人で髪の毛を洗えないから俺が毎日洗っているし、一人ぼっちで寝るのが寂しいのか、よく俺の布団の中に潜り込んで来る……服を着る習慣を身に着けさせるのは苦労したよ」

「……なんの話?」

 佐々木は言った。

「自分は『第二の人外シルバー・ブラッド』の……化物以外の側面を知っているとでも言いたいの? だから自分は、彼女を化物として見ることができないとか?」

「そうじゃない」

 俺は否定した。

「レイラが化物だっつーのは、俺もよく知っているよ……あいつが『災禍の化身』なんて呼ばれるほどのチカラと精神性を持っていることは、一緒に暮らしているからよくわかっている」

「……じゃあ、なんであんたは『第二の人外シルバー・ブラッド』を受け入れているのよ?」

「さあな。楽しかったからじゃないか?」

 俺がレイラを受け入れている理由を――眷属になって今日まで一緒に生活することができた理由を、佐々木が納得するように説明することは、俺にはできない。

 そんなもの、客観的に根拠を提示して、どうやって説明すればいい?

 ただ一つ言えることは――俺はレイラとの生活を、楽しんでいた。

「まあ、楽しいばかりの生活じゃなかったけどな。レイラは常識知らずだし、一人でできることは限られているし、気性は荒いし、すぐ物は壊すし、持っているチカラは凶悪過ぎて簡単に制御できるものじゃないし……散々迷惑を掛けられたよ。クリーチャーズとか、お前らみたいな魔術師とか、これまで出会ったことのない存在に絡まれるようになったし」

 けどそれも全部含めて、俺はレイラと一緒にいたいと思ったんだろう。

 いつからはわからないが。

 俺の望みは――そういうものに変化していた。

「俺はレイラと一緒に暮らしたい。あいつと一緒に飯を食う生活を、俺はもっとしたい」

 俺は言った。

 今の自分の望みを。

 ……と言っても、これはさっき自分の言動を振り返って、気付いたことだが。

 だからさっき、俺はレイラを追い詰めるような言い方をしたんだ。その願いが前提にあったから、あんな行動をした。

 怖かったんだろう。

 あそこにいたのが本人じゃないとわかっていても、俺はあの場にいたレイラの姿を見て、今の生活が終わることを連想した。家に帰って飯を作って、一緒に食事をする生活ができなくなるのが……俺は怖かったんだ。

『お前、今の生活、楽しんでるだろ?』

 俺はゆーきに言われた言葉を思い出す。

 さすが親友を名乗るだけはある。

 あいつに指摘されたのは癪だけど……ああ、認めてやる。

 あの時は違うって否定したけど――俺の目的の中心にあるのは、レイラだ。

「その望みを叶えるためだったら、なんだってする。あいつとの生活を続けるためだったら、なんだってしてやるよ」

「……それは誰かを敵に回してでも?」

 佐々木は言った。

「例えば、あんたを大切に思っている人を敵に回すことになってでも、叶えたい望みなの?」

「誰かを敵に回す必要はない」

「…………」

「俺は誰も敵に回すつもりはない……俺が過ごしたい生活は、誰かと敵対して成り立つものじゃないからな」

 『災禍の化身』と呼ばれるレイラと、その眷属である俺は存在するだけでも、敵として見る人は存在する。それはわかっているし、俺の望みを叶え続けるのは困難だってこともわかっている。……でも、だからって、誰かと敵対して、襲って来たからって殺したら、それこそ俺の望みを叶えるのは、ますます困難になるだろう。

「誰も敵に回さず生きるなんて、不可能よ?」

「だろうな。だからどうした?」

「…………」

「俺は誰とも敵対する気はないし、例え誰かが俺達を敵視して襲い掛かって来たとしても――その時はお前らみたいに、殺さず襲われない理由を作り上げてやるよ」

 そう言うと佐々木は、俺の言葉に納得したのか呆れたのか、どちらかわからないが、何も言わず溜め息を吐いた。

 それから掌に生み出した火球を消す。

 理由は明確にわからないが、どうやら、戦闘を続ける意思はなくなったらしい。佐々木はやる気を消失した表情をして……しかし、俺への敵意は失っていないのか、こう毒を吐いた。

「あんた、頭おかしいわよ」

 そう言って佐々木は横に目をやる。

 佐々木の視線の先には、今にも泣きそうな顔をした、レイラが立っていた。

 両目に涙を溜めたレイラは手の甲で目元を拭いた。

「かなめ」

 そのあと、レイラは意を決したようにこう言った。

「話したいことがある」

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