扶不起的阿斗

李恩

扶不起的阿斗




籠城しようと言ったのは誰だったか。

降伏しようと言ったのは誰だったか。




蜀の楽曲が流れていた。




望郷の念に泣く涙がそこかしこに光っている。

降伏した私達の心を慰めるために、流される蜀の楽曲。

それを聞き、止めなく涙を流す蜀の臣たち。


「お寂しくありませんか?」

誰かが問うた声に、私は涙のない笑顔を向ける。

「毎日楽しいことばかりで、蜀のことは思い出しません」

呆れたような色が浮かぶ顔が、曖昧な笑みを上っ面に貼り付けそれを塗りつぶした。

直ぐに困ったように首を傾げ、何か言いかけた口を閉ざし、その人は去った。


私のものではないものたちに、私はあの時決別した。

蜀漢という名の私の国ではない私の国。

蜀漢の臣という私の臣ではない私の臣。

故郷という名の私の郷ではない私の郷。

全てが夢のように儚い何かだった。




蜀の楽曲が流れている。




歴史の中に愚者の代名詞となるだろう私の名。

それすらも、やがては人の耳目から消えてゆく儚いもの。

父が成した偉業という名の裏切りも、全てが一睡の夢の中。


『私は蜀の民に助けられるばかりで、まだ何もできていないのだ。

 今、更なる苦しみを民に与えることなどできない』


そう言って、全てを父に譲り渡した人も今はもう亡い。

籠城しようという家臣の言を退け、降伏した人。

ちょうど、あの時の私と同じように。


乱世を生きるには、著しく覇気の乏しい方であったろう。

人が良いというにも憚るほどに、呆れた処置であったろう。

だが、私には分かる。


父が抱く大きな野心を、その息子までもが持つとは限らない。

皆に偉大と称される父の背が、必ずしも大きく高い壁になるとも限らない。

私もあの方も、見ていたのは、遠い遠い、遙かなる故郷。

戦のない、人々の笑顔に溢れる優しい大地。




蜀の楽曲が流れている。


私の故郷の曲とは違う。

私の楽しむ曲とも違う。

私の愛する曲とは違う。

私の欲する曲とも違う。


望むのは、ただひたすらに何も思わぬ日々。





おわり

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