空梅雨

@koyuki-taira

空梅雨

 ふと、死のうと思った。

 二限の講義を受けたあと、食堂でひとり昼食をとっているときに、午後から雨が降るらしいと耳にした。

「マジで? 俺、傘持ってきてないわ」

「俺も」

 彼らと同じく、私も傘を持っていなかった。

 今日は朝から日が照っていて、梅雨らしからぬ天気だと驚喜したのだが、どうやらぬか喜びだったようだ。

 大学から家まではかなり距離があるため、雨の中帰るのはかなり難儀である。

 どうせならはじめから降っていて欲しかった。家を出る時点で雨が降っていたなら、私としても余計な期待をすることはなかっただろう。それとも、天気ごときで一喜一憂する私が単細胞にすぎないのだろうか。

 私だって、日常生活における僥倖に静心なく雀躍するほど無垢であるわけではない。これまで数々の糖衣に包まれた嘘に幻惑されてきてはその度に裏切られ、今ではすっかり羹に懲りて膾を吹くような人間になってしまった。

 世の中には幸せになることや優しくされることを恐れるひとが一定数存在するが、そうした人々は生来そのように懐疑的だったわけではない。狂ったように吠える犬が生まれつき怯懦であるわけではないのと同じである。彼ら彼女らはきっと、私と同じように、裏切られることを恐れて自分自身を裏切ることを選んだのだ。

 幸せになりたくない、優しくされたくないという悖理は、その根底に幸せと優しさへの渇望を隠し持っている。私は、おそらく人並み以上に幸せを希求し、ひとからの優しさを渇望しているが、旱天の慈雨のあとの乾きはまことに耐えがたいものであるから、自分が傷つくことを極度に恐れ、幸せの足音を幽かに聞いただけで、嗚呼、幸せになってしまう……と、自らそれから遠ざかることを選ぶのである。喉が渇いているときにひとから渡される一杯の水に杯中蛇影を見るのだ。

 今や私は、天気にさえ傷つけられている。太宰も言うように、弱虫は綿で怪我をする。私は想像の中で低く浮かぶ雨雲で怪我をしている。

 私は、もう、晴れを喜ぶことさえできない。

 だから私は、ふと、死のうと思ったのだ。

 夢の中ではどんな突飛な不条理も理性の検閲を通過するように、雨が降るなら死ぬべきだという思いつきも、きわめて合理的な発想であるかのごとく思われて、その合理性ないし正当性については一抹の疑懼の念も生じることはなかった。

 さて、どうやって死のうか。私は食堂を後にして、まるで今日の夕食について思案するかのような気軽さでもって、自分の人生の終わらせ方について考えを巡らせていた。

 ――案の定、空はどんよりと掻き曇っていた。

 私にはあれこれ悩んでいる時間は残されていないようだ。今にも雨が降り出しそうな妖雲に急かされて、早く死なないと、早く死なないと、と心の中で独りごちながら、私は歩き始めた。

 飛び降りがいいか、それとも踏切に飛び込むのがいいか、などと考えながらキャンパス内を正門に向かって粛然と歩いていたのだが、ふと顔を上げると、観光客が集合写真を撮っているのに気がついた。

 カメラを遮りそうになっていたことに直前で気づき、私は慌てて会釈をしながら、カメラマンの後ろを通るように迂回しようと進路を変えた。

 小声で「すみません」と言いながら、はて、私は一体どうしてこんなことを気にしているのだろう、と思った。これから死のうとしているというのに? 

 曇天が私を圧し潰そうと刻一刻と迫ってきている。焦慮に駆られながらカメラマンの後ろを通り過ぎようとしていたとき、彼女は振り返り、その黒い目で私を見た。

 どうせ死ぬのだから、と再び自分に言い聞かせ、「写真を撮ってくれ」と言われてもきっと断ろうと腹帯を締めてかかったのだが、私の決意はいとも簡単に動揺させられた。彼女が私の知らない言語で話しかけてきたからである。

 日本語でも英語でもない。外見から判断するに、彼女らはどこかアジアの国からやってきた観光客なのだろう。七人の集団で、中には年寄りも子どもも混じっている。おそらく家族旅行だろう。

 カメラマンをしていた女性が、何かを言いながら持っていたスマホを私に手渡そうとしてきた。その場の状況から察するに、「写真を撮ってくれないか」とでも言っているのだろうが、私は死ぬのに忙しいのだ。呑気に生きている暇はない。

 しかし、どうやってそれを伝えようと思案しているうちに、彼女は私の手にスマホをねじ込み、家族に位置やポーズの指示を出し始めた。相変わらず何を言っているのかは分からないが、彼女の方はどんどんヒートアップして、家族にミリ単位の指示を大声で出している。

「あの、時間があまりないのですが――」

 私が日本語でこう言うと、彼女は何やら早口でまくし立ててきた。

「すみません、何を言っているのか分からないです」

 彼女もまた、母国語で何やら言っている。

 ……嗚呼、私は何をやっているのだろう。お互いに不透明なまま、私たちは「言葉」を交わしている。なんという無駄なやりとりだろう。お互いがお互いに理解を押しつけているが、それでいて、そもそも相手が理解するなどとはどちらも期待していないのだ。

 もう、よい――私があれこれを思案する義理はないはずだ。私はどこか吹っ切れたように、相手のことなど構わずに、日本語で話し続けた。

「もういい? そろそろ写真撮ろうか」

「はい、撮るよ! 笑って! はい、チーズ」

「もう一枚撮るよ! 違うポーズとかしてみて!」

 きっと何一つ通じていないのだろう。日本語の分からない外国人に日本語で話しかけているのだから。しかし、そんなこと些細な問題でしかない。それは、彼ら彼女らが外国人だからではない。日本人同士でさえ、きっとこの観光客以上に私を理解していないのだから。

 ――そんなこと些細な問題でしかない。そうか、そうだったのか。

 観光客は受け取ったスマホを確認し、こちらに笑顔を向けながら何か言っていた。多分、ありがとう、とでも言ったのだろう。私は「どういたしまして」と半ば独り言のようにつぶやいた。

 気づけば、私を圧迫していた曇天も幾分剥落し、ぼんやりとした陽光が、障子越しの明かりのように地上を淡く照らしていた。

 天気予報は外れた。雨は降らなかった。

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