第16話 おや? 上司の様子が……

「んーっと、今日は荒雨湿地方バルサト方面に大蝦蟇蛙マンドゥーラが出てるんだ。よし、弱点属性メモっとこ」


 お昼の休憩が終わり、魔術パッドを起動したイサはデスクで業務連絡を確認して手元の植物紙パピルスに書き込みを入れた。

 周囲では休憩を終えた他の案内人達が続々と戻り、遅出シフトの者も出勤を始めていた。

 

 ここシュトゥールヴァイセン案内所では早出と遅出、夜勤のシフトがあり、今日のイサは前者なので夕方終わりだ。夜勤があるのは夜行性の魔物がいるためである。


「えっと、熱砂丘ラジャスタはそろそろ火サソリが出る時間帯だよね……」


 午前と午後では出没する魔物が違う。

 イサは朝にセットした資料の配置換えをし始めた。


「これはこっち、この資料は……ここでいっか」


 イサのデスクの上は真ん中を空けてぐるりと資料で埋まっている。


 各地方の特色や気候、出没する魔物一覧や弱点をまとめたこれらは、イサが自ら作ったものだ。

 魔術パッドですぐに検索できるものの、出没頻度が高い魔物などはひと目でわかるようにしている。

 それに、このほうが覚えるのにも役立つ。


(この前みたいな失態は……もう絶対、しないんだから)


 案内人の仕事には、人の命がかかっている。

 それに、ジャンの期待も裏切りたくはない。


 ふと、イサは頭に優しく置かれたジャンの掌を思い出した。イサよりずっと大きくて、けれどとても温かい手はあの日、イサの心を労ってくれ、出張案内では守ってくれた。


 そのことを思うと、なんだかほわほわとあったかい気持ちになる。あと、少しむず痒い。


(……って私、何思い出してんだろ。はい、仕事仕事!)


 そんな風にイサが思考を追い払っていると、隣のデスクにどさっと鞄が置かれた。


「よおイサ! おっはよ!」


「ユッタ。遅刻だよ」


 やや呆れながら見上げると、大きな青い瞳と目が合った。するとそばかす顔がにっと笑い、セットされていない無造作な金髪が愉快げに揺れる。ユッタは今日遅出らしい。それでも十分ほど遅刻だが。


「へへっ、わぁってるよ。さっきムール統括長からお小言食らったばっかだって」


 肩を竦めて見せたユッタはまったく凝りていないようだった。


 お小言と言っても、ジャンの場合は絶対零度のブリザードが吹き荒れる。なので普通の案内人達はみな恐れ慄くのだが、彼は少し天然なところがあるせいか結構な頻度で食らっていた。

 だというのに凝りないのだから、ある意味大物なのかもしれない。


「自業自得だよ。それにムール統括長だって忙しいんだから、余計な手間かけちゃ駄目だってば」


「わーかってるって。つーかイサ、今日は妙に統括長の肩持つじゃん。……何かあったのか?」


「べ、別に何もないよ」


 片眉を引き上げ怪訝な顔をするユッタに、イサは慌てて否定した。


 普段は大雑把なくせに、人の機微には妙に鋭い男だ。

 平静を装いそそくさと始業準備を進めるイサだったが、それを逃さないとばかりにユッタが顔を覗き込んでくる。


「へえ〜? そういや、昨日は統括長と出張案内に行ってたよな? しかも、帰ったら統括長の白衣なんて着てるしー?」


「あれは……」


「怪我したんだってな。まあ今見る限り、元気そうで安心したけど。でもさー?」


「な、何?」


 意味ありげに言いながら、ずい、とユッタが顔を近づけてきた。というか、近い。男性ばかりの職場のためか、パーソナルスペースというのがまるで配慮されていない距離である。

 それに、妙に含みのある言い方も気になる。


(何か気付かれた……?!)


 イサの口元がひくりと引き攣る。

 まさかユッタに何か勘付かれたのではないかと、焦りで背中にじわりと汗が浮かぶ。

 その時、どこか離れた場所で、ぱきん、と何かが折れる音がしたが、イサは気付かない。


「いやな?」

 

 言葉に詰まるイサに、ユッタはふふんと鼻を鳴らしたかと思えば、姿勢を戻し訳知り顔で話し始める。


「そりゃなー、あんだけ美形で仕事もできるとくれば、憧れるのもまぁ仕方ないけどさ? 俺達凡人にとっちゃあ雲の上の人だって。そりゃあ俺だって統括長のことは尊敬はしてるけど、目指すのはさぁ、難しいと思うぜー?」


「え、あ……ああ、まあ、確かにね」


 どうやらユッタは、出張案内がきっかけでイサがジャンに対し憧憬を抱いたと思っているようだ。


 それを聞いて内心ほっと安堵する。あのジャンがまさか口外するとは思っていないが、そういえば秘密にするなどの話をしていない。これはなるべく早急に確認しておくべきだろう。


「それにイサじゃ体格的にも難しいだろーしなぁ。つーかお前、ほんっと華奢だよなー、ちゃんと食ってんのかよ?」


 そう考えたところで、ユッタが急に手を伸ばしてきた。いつもなら同僚からのボディタッチは適当に避けるイサだが、考え事をしていたせいで反応が遅れてしまう。


「食べてるよ、ってあ、こら! どこ触ってんの!!」


「ほそっ!? お前細すぎだろ!! 腰くびれてんじゃん!」


「ひえっ!」


 ユッタがじゃれてイサの腰をがしっと鷲掴んだ。その遠慮のなさにイサの頭に『怒』のマークが浮かぶ。


「まじか、全然筋肉ねえじゃんこれ。片手で掴めそうだし」


「ちょっ! 揉むな馬鹿っ! あ、あははははっ!」


 しかも、わしわしと強弱をつけて揉まれたものだからたまったものではない。ユッタ自身は自分と全く違うイサの腰の華奢さに驚愕しているが、イサ自身はそれどころではなく、あまりのくすぐったさに笑い声が堪えきれず漏れてしまう。ひーひー言いながら、やめてくれ、とユッタに懇願する。


「無理くすぐったい! もおユッタ離して……!」


 流石に殴ってやろうかとイサが思った、その時。


 どこからか、バキィッ!! と盛大な破壊音が聞こえた。


「ん?」


(え……)


 瞬間、ユッタの手が止まり、そっとイサの腰から離れていく。

 嫌な予感にぎぎぎ、と首を動かし二人は同時に音の方向に視線を向けた。


 するとそこには、やはりジャンがいた。少し離れた場所で、真っ直ぐイサ達を凝視している。

 表情は、無い。完璧な無表情だ。

 彼が手にしている指示棒が折れていることから、イサとユッタは今の音の出所を瞬時に察した。


(や、やば……!)


「やべっ」


 イサの心の声とユッタの声がハモる。

 同時にジャンが無表情のまま足を動かしずんずんと二人の方へ真っ直線に向かってきた。


(ひええ……!)


 まだ業務開始前ではあるものの、雑談し騒いでいたのを怒られるのだとイサは思った。

 けれど、足早に近付いたジャンはなぜかユッタの首根っこを掴むと、ぐいっと勢いよくイサから引き剥がした。そして、ユッタを視界から隠すようにイサの前に立つ。ユッタはわけがわからないようで、ぽかんと呆気に取られている。


 常とは違うジャンの行動に、イサは思わず目を丸くした。

 そんなイサを、じっとジャンが見下ろしている。


「ビルニッツ、悪いが昨日の報告書について話したい。俺と一緒に来てくれるか」


「へ? あ、は、はいっ」


 口早にそう言われて、イサはほぼ条件反射で返事をした。それに満足したのか、ジャンがうむ、と頷く。


 彼の背中越しにユッタが目を白黒させているが、ジャンは完全に彼を無視している。

 なんだか今口を挟むのは得策ではない気がして、イサもそのことに触れられない。

 てっきり怒られると思っていたのに、意外である。


 しかもジャンはその場でじっとイサが立つのを待っていた。


 魔術パッドの電源を落としイサが立ち上がると、待っていたとばかりに動き始めたのだ。


(ん、んん〜??)


 なんだかジャンの様子がいつもと違うな、と思いながら、イサは彼の後に続いたのだった。



 ーーーそんな彼らのやり取りを見ていた周囲の何人かが、「まじか」「嘘ん」「うっわー……」とか言っていたのだが、やっぱりイサもジャンも全く気づいていなかった。

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案内人イサ・ビルニッツは上司の愛から逃げられない 国樹田 樹 @kunikida_ituki

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