第14話 上司の気持ち
てっきり解雇についてだと思っていたのに、上司に深々と頭を下げられたイサはわけがわからず混乱した。
ジャンの銀髪の頭頂部が見えている。
美形はつむじの形まで綺麗なのだなと、場違いにも思ってしまった。
というより、なぜ謝罪されているのだろうか。
我に返ったイサは慌てふためき口元をあわあわと震えさせた。
「あ、あのっ、一体何を……!?」
「今日のことだ。俺は君の身体を、知らなかったとはいえ、無理やり……」
ジャンが頭を下げたまま重い口調で話し始める。声音には後悔の念がありありと滲んでいた。
イサは最初彼が何の事について語っているのか理解するのに時間がかかった。
身体? 無理やりとは一体全体何の話だ?
とジャンの言葉を脳内で復唱して、やっとそれが示す意味について気づいたイサは思わずあ、と声を出した。
(も、もしかして、胸を触ったこと……?)
そこで漸く合点がいく。ジャンは今日イサの胸を揉んでしまったことを詫びているのだ。
そのためにわざわざイサの部屋にまでやってきたらしい。
「あ、ああ。そのことなら別に大丈夫ですので、あの、お願いですから頭を上げてください。何ていうか、すごく精神的にくるので……」
彼が来た意味はわかったが、いたたまれなさにイサが頼むとジャンは渋々だが顔を上げてくれた。
しかし彼の表情は優れない。納得がいっていないようだ。
どうしたものか、とイサは困惑した。つい先程までジャンへのお礼について考えていたくらいなのに、まさか謝られるなどと思いもしなかったのだ。
そもそも、あの場ですでに謝罪はもらっているし、イサの胸など彼にとっては小石に触れたのと大差ないと思っていた。なのに、どうやらジャンは本人よりずっと重く捉えていてくれたらしい。
律儀な人だなぁとイサは思った。
「だが俺は……君の女性としての尊厳を傷つけてしまった」
「そ、そんげん??」
尊厳、なんていう大げさな言葉を使われてイサは面食らった。
確かに胸を触られたことは自分にとっても衝撃だったが、元々男のふりをしていたのはこちらなのだ。
意図的ではないにしろ、案内所では女人禁制であると知っていたのだから。
だからジャンは胸の腫れ……つまりイサの乳房が自前だとは思いもせず、男性ならばありえない異常があると信じて観察しようとしたのであって、いわゆる下心があってあんな行動を取ったわけではない。
彼にとってあれは、ある意味事故でありむしろ被害者である。
「許してもらえるかはわからないが、本当にすまなかった。恋仲でも無い男に触れられるのは、君にとって恐怖と屈辱でしかなかっただろう」
「き、恐怖と屈辱? い、いえっ、そんなことは」
ひどく沈痛な面持ちで、とんでもなく重大なことのように言うジャンにイサは驚きを隠せない。
確かに元の世界で、もしもイサの友人が上司に胸を触られたなんて聞いたら憤慨してセクハラで訴えるべきだと言っただろうが、この場合は完全に当てはまらない。
だというのにこの上司は普段の冷徹ぶりはどこへやら、むしろこっちが申し訳なくなる勢いで重く受け止めてくれている。ありがたいやら、気まずいやらでイサは大いに慌てた。
「申し訳なかった」
言って、ジャンはイサに向かって再び深々と頭を下げた。彼自身には何ら非は無いのに、むしろイサの方が責められるべきなのに、真摯に謝罪してくれている。
ジャンの白衣の肩がいつもより頼りなく見え、明らかに落ち込んでいるのが見て取れた。
医務室に置いていった白衣はちゃんと彼の元に戻ったらしい。それに安心するとともに、きっちり着込んでいる姿を見てイサは完璧主義者な彼だからこそ、自分の失態が辛いのかもしれないと気付いた。
イサはなんだかいてもたってもいられなくなった。
「あ、頭を上げてくださいムール統括長! そもそも私が言わなかったのが原因なんですから!」
「だが、俺がすぐに気づくべきだったのだ。ひと目でわかるはずのことだった。嫌な思いをさせた」
イサがそう言っても、ジャンは今度は頭を戻してくれない。イサのことを傷つけたと思っているようだ。
そんなこと、ありはしないのに。
だからイサは思ったことそのままを口にした。
「いいんです! 気にしないでください! それに貴方に触られたのが恐怖とか屈辱だったなんてことありませんから! 恥ずかしかっただけです!」
「……そうなのか?」
状況に耐えられなかったイサは思わず本音をぶちまけていた。
実際、ジャンに触られたことは確かに恥ずかしかったがそれだけなのだ。
ショックだったとか、怖かったとか、そういった気持ちは一切感じなかった。なので正直にそれを告げる。
「そうです。ムール統括長のことは尊敬していますし、信頼しています! 私が案内所で案内人としてやっていられるのも貴方が上司だからです! ……ムール統括長にはご迷惑をおかけしてばかりですが、貴方は私を含め案内人達一人一人をちゃんと見てくれています。今回の私のミスにだって、真っ先に気づいてくれたのは貴方じゃありませんか。念話が切れて混乱している私に、すぐさま的確な指示をくれました。ムール統括長の下で働けて、私は幸せなんです……!」
「そ、そうなの、か……?」
怒涛の勢いでそう吐き出したイサに驚いたのか、ジャンがぱっと顔を上げた。
普段は鋭い氷色の瞳が驚愕に丸く見開いている。
そして、言い切ったイサの顔を見ながら彼はぱちぱちと目を瞬かせた。
「はい!」
「そう、か……」
大きく頷いたイサを不思議そうに見つめながら、ジャンは頭の位置を元に戻した。
イサはそのことにほっと安堵しつつ、この上司は真摯な上に人の心を慮れる良い人なんだなぁとにこにこしてしまう。
そんな彼女を、ジャンはいつもより少しばかり強い視線でじっと見つめた。
「エキディウスには……お前は厳しすぎるとよく言われる。実際、そうしている自覚もある」
「人の命がかかっているんですから当たり前ですよ。それはみんなもわかっています。何より、ムール統括長がいるから重い責任にも応えようと頑張れるんです。指示と統制を、しっかりやってくれる方がいるから。貴方ほど信頼できる人を、私は他に知りません」
どこかイサの反応を窺うように投げられた言葉に、笑顔を浮かべたまま彼女が答える。
すると、ジャンの目元がほんのりと赤く色づいた。
いつもなら冷たく見える瞳に、ほんわりと温かい優しい光が灯る。
やや陰の滲んでいた表情が柔らかくなるのを見て、イサはおや、と目を開いた。
「そう思っていてくれるなら……こちらとしてもやりがいがある」
言いながら、ジャンがゆっくりと口角を上げた。彼のきめ細やかな頬はほんのりと赤く染まり、瞳は緩やかに笑んでいる。
それはイサが目を瞠るほど、綺麗で優しい笑みだった。
(わ、笑った……!? 始めて見た!)
イサは内心驚きの声を上げていた。案内人達の間で白い悪魔とすら呼ばれるジャンの笑顔を見たのは初めてだったからだ。彼が笑むのは部下を責めるための冷徹な微笑と相場が決まっている。
こんな風に、心の底から喜んでいるような、嬉しそうな笑顔を見たことはイサは無かった。
「イサ・カブラギ。君が嫌な思いをしたので無ければ良かった。それと……俺のことをそんな風に思っていてくれたこと、嬉しく思う。ありがとう」
「あ、いえ……」
初めて目にする柔らかな微笑を浮かべて礼まで言われて、イサはなんだかどぎまぎした。
心臓の鼓動が早くなって、顔が熱い気がして、声が上手く出てこない。
一体自分はどうしてしまったんだろう、と思いながらジャンの顔をまともに見ているのが恥ずかしくなってつい目を逸らす。
すると、ふいに頭にぽふりと優しい感触がした。
「……初めて案内所に来た君の顔を見た時、張り詰めた糸のようだと思った。笑っていてもいつも無理をしているように見えていた。オウガストと離れ知らない世界でたった一人で……さぞ心細かっただろう。……よく頑張ったな」
「っ……」
ジャンはそう言って、イサの頭を優しく撫でた。その言葉と同じく温かく労るような撫で方に、イサの目尻にぶわりと熱い涙が浮かぶ。
まさかそこに気付いてくれるとは思わなくて、完全に心が無防備になっていたところへ優しく言葉が染み込んでいく。
自分を召喚したオウガストに呆れ、普段通りの自分を装いながらずっと過ごしてきたイサだったが、不安でなかったわけはないのだ。
けれど元の世界で外側を取り繕うことに慣れていた彼女は、心底を表に出せずにずっとこれまで生活していた。
誰にも心の内にある不満や恐怖を口に出来ず、それでもとにかく毎日を繰り返しなんとか生きてきたのだ。
その事を、今になってまさか上司に、ジャンに指摘されるなんて思わなかった。自分の頑張りを、この人が認めてくれるなんて。
驚きと、嬉しさと、ある種の感動でイサはゆっくりと顔を上げた。
ジャンが優しい顔で彼女を見ている。
「今回のことで、俺は君の事情を知った。何かあれば、いつでも相談にくると良い」
「は、い……」
ぐす、と鼻を啜りながら返事をしたイサに、ジャンはふっと吐息を零すように微笑んだ。
その顔がとてつもなく綺麗で、安心できて、心が暖かくなったイサは自分も同じように笑う。
「これからも、よろしくお願いします。ムール統括長」
「ああ。こちらこそ」
涙目のイサと、そんな彼女を見つめながら優しい微笑を浮かべるジャンの二人を、温かい空気が包んでいた。
***
―――それから数分後。
イサの部屋を出たジャンは、案内人寮の外通路を案内所フロアへと向かって歩いていた。
するとその途中で、真っ赤に燃えるような色の髪をした青年が姿を見せる。
腰に帯剣している快活な青年は、ジャンを見て琥珀色の瞳をぱっと開くと挨拶代わりに片手を上げた。
「ようジャン!」
「……エキディウスか。今帰ったのか」
ジャンは旧知の仲である友人にぶっきらぼうな返事をした。
そんな彼の態度を意にも介さず、エキディウスと呼ばれた赤髪の青年はからからと軽快に笑いながら、少しばかり土汚れのついた肩を軽くすくめて見せる。
彼の出で立ちは軽装スタイルの剣士装備で、胸と肩の他に肘から腕、脚に
「おうよ。今回は変異種の
エキディウスは不思議そうに滅多と表情を変えないはずの古い友人の顔を覗き込んだ。ジャンより頭一つ分背の高い彼からは、赤く色づいたジャンの表情がよく見える。
ジャンの頬は誰が見てもわかるくらい綺麗に赤く染まっていた。それにいつもなら鋭い瞳が普段より何十倍も優しく見える。
友人の以外な表情にエキディウスは驚きで目を白黒させた。
「別に赤くないっ」
けれどジャンはそれを否定した。エキディウスは「ん〜?」と意味ありげな視線を彼に投げる。
「いいや赤いね。おれが何年お前と一緒にいるってんだよ。一体何があったんだ?」
「五月蝿い黙ってろ」
にべもなく言い返され、エキディウスはこれは益々何かあるなと勘ぐった。実際その通りなのだが、歴戦の戦士でもある彼は中々鋭くジャンの否定など気にも留めない。
これは追求しないわけにはいかないな、とエキディウスの琥珀の瞳がきらりと光る。
「なー、ジャン教えてくれよー!」
「ついてくるな!」
なあなあ、とやや強引に聞いてくる旧知の友を邪険に扱いながら、ジャンは自分のことについて話してくれたイサの表情を思い浮かべていた。
自分のことを信頼していると言ってくれた彼女。
働けて幸せだと言ってくれたイサの言葉は真っ直ぐで、ジャンがこれまで耳にした女性の声のどれとも違っていた。
彼だと思っていたのが「彼女」であったことには確かにジャンも驚かされたが、初対面の時にあまりにも華奢な体躯に子供かと感じたのも、今思えばあながち間違いではなかったのだろう。
案内所の検知に引っかからなかった理由は不明だが、ジャンはそれはそれで良かったのだろうと自分でも不思議だがそう思った。
イサは真面目だ。それに勤勉であることもこれまでの仕事ぶりでわかっている。
全く別の世界から来た者が、たった二ヶ月と二週間で順応するには並大抵の努力ではなかっただろう。
案内所に勤務し始めた当初のイサは今思えばかなり気を張っている様子だった。
それは恐らく自分が異世界人であるということと、生活のために必死だったからなのだろうと今となればわかる。
彼女はそれを、今はそばにいないオウガスト以外の人物には誰にも話せずにここまで来ていたのだ。
自分は上司でありながらなぜ彼女のそんな状況に気付いてやれなかったのかと、ジャンは歯がゆくすら思った。
あの華奢で小柄な女性がーーーたった一人で、知らない場所で、しかも男ばかりに囲まれて。
育った場所は平和なところだったと彼女は言っていた。魔物などもいないようだった。
なのに出張案内へ連れて行かれて、不安でなかったはずはない。けれど、イサはそれを言わなかった。
ジャンはそれがひどくもどかしく感じられた。
イサの事を思うと、不思議と胸がぐっと詰まされたように苦しくなる。
けれど、それと同時に温かく優しい気持ちにもなった。
上司という立場上、また職務内容上、ジャンは部下には厳しく当たらざるを得ない。
自分が白い悪魔などというあだ名で呼ばれていることも知っているし、それで良いと思っていた。
けれど、イサに今日信頼していると言われてーーー自分の下で働けて幸せだと言われて、心底嬉しかったのが事実だ。
その上あの……涙ぐみながら自分を見上げた彼女の顔は、恐ろしいほどに可愛らしくて。
思わず抱きしめたくなった衝動を、何とか抑えられた自分を褒めたい。
異性にこんな気持を抱いたのはいつぶりだろうか。
もしかすると、初めてかもしれない。
ジャンの脳裏で可愛らしく微笑むイサに、かっと身体が熱くなった気がした。
「っ……」
「あ、また赤くなった」
「っ、やかましい!」
つらつらと考え事をしていたところをエキディウスに茶化されて、はっと我に返ったジャンは彼を叱り飛ばすと、そのままずんずんと荒い足取りで案内所フロアへと戻っていった。
白い白衣に、彼の赤くなった顔がやたらと映えていた。
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