案内人イサ・ビルニッツは上司の愛から逃げられない
国樹田 樹
プロローグ これは腫れじゃない
(どうしてこうなった!?)
風が吹きすさぶ崖の上で、イサ・ビルニッツは半泣きで震えていた。
目の前では、上司(男性)が真剣な表情で胸元に手を伸ばそうとしている。
逃げることはできない。
イサの両手はいまや頭上で固定されているからだ。
「安心しろ。すぐに治してやる」
白い治癒術の光をまとった上司の右手、つまり男性の節くれだった手がイサに迫る。
「ひっ……!」
イサはそれを、磔にされたまま呆然と眺めるしかなかった。
なにしろイサの胸元は、諸般の事情で今や布切れ一枚無い状態なのである。
つまり上半身がほぼ丸裸、簡単に言えば乳房丸出し、という有り様だ。
イサのささやかな二つの膨らみに伸びているのが上司の手なわけで、固まるのも当然である。
しかし上司ジャン・ムールの美しい冬の湖氷を思わせる瞳は真剣そのもので、そこに
だからこそイサは余計に混乱していた。
(う、嘘でしょっ!? 何で気付かないのっ!?)
イサは信じられなかった。
上司が至極真面目に、彼女の「胸の腫れ」を治療しようとしていることが。
「後遺症など残さん」
「ち、ちがっ……これは腫れてるんじゃなくてっ、ちょ、待っ……!」
イサは女の沽券と無職とを天秤に掛けた。速攻で決意を固め真実を話そうと口を開く。
が、時すでに遅しとは言ったもので。
「ひっ!?」
待って、という言葉は、素肌に直接触れられた衝撃によって喉奥へと引っ込んだ。
びくりと慄いたイサの身体で、柔らかな膨らみがふるりと揺れる。そこに、そっと添うように当てられた上司の指先が、彼女の肌の上でゆっくりと線を描いた。やや乾燥した皮膚の感触をありありと感じて、は、と声にならないイサの驚愕が吐息となって零れる。
「ふむ。かなり腫れているな」
イサの左胸に触れたジャンは薄氷色の瞳をやや伏し目がちにして感想を告げた。
神妙な面持ちだ。完全に診察されている。
その証拠に腰を屈めた彼の長い銀髪がイサの膝下に垂れてきていた。
(っ……いやあああ夢なら覚めてええええ!!)
普段なら見上げているはずの上司の秀麗な顔が自分の胸元にあることに、イサは半泣きで現実逃避したくなった。
いやむしろ、何が悲しくて上司に、しかも元の世界ではお目にかかれないような超絶美形に拘束されたうえ乳房を観察されねばならないのかと内心滂沱の涙を流した。
上司ジャン・ムールは、外見だけならこの世のものとは思えないほどの美丈夫だ。
月の光を想起させる銀糸の髪に、透明度の高い湖に張った氷のような瞳の色、幻想種エルフの血の影響らしい高い鼻梁に尖った顎はまさしく神の意匠といえた。
体躯は痩せ型ながらしっかりした筋肉が詰め襟の白衣からも見て取れ、いわゆるすべてにおいて完璧な容姿を持った男なのである。
だが、そんな男が今しているのは、イサの丸出しの乳房を触診することで。
(し、死にたい……っ!!)
あまりの羞恥に顔と心臓が爆発しそうで最早自棄になってくる。
だが仕方ないことではあるのだ。
この銀色の美丈夫は、イサの胸の「腫れ」が元々なかったものだと思いこんでいるのだから。
どれだけ恥辱であったとしても、ある意味自業自得でもあるからして。
(恥ずかしい!! 死ぬ!! 恥ずかし死ぬ!!!)
イサの顔は全身の血が集まったように真っ赤に沸騰している。目尻には涙が浮かび、羞恥と混乱と素肌をさらしている寒さとで身体は小刻みに震えていた。
(いくらなんでも!! 鈍感すぎないっ!!??)
どう見てもこれが「腫れ」なんかではないことくらい、普通なら誰でも気づくはずなのに、なぜにこの上司はわかってくれないのかと半ば逆切れに近い感情すら浮かんでくる。
「少量でも男の胸がこうも腫れ上がるとは、ヴェロアマジェス《硫仙酸竜》の硫酸液はかなり危険度が高いな。帰還したら報告書に記載しておかねば―――」
冷静に考察を述べながら、ジャンは手のひらに魔力を込め始めた。
彼の手の白い光が大きくなるのと同時に、イサの胸を温かい熱が覆っていく。
その最中、イサは内心絶叫していた。
(だから!! 私は、「女」なんだってばあああーーーっ!!)
イサの声なき悲鳴は、彼女の自尊心とともに、崖に吹き込む風によって明後日の空へと飛んでいった。
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