第7話 イサ、もとい衣沙


「寒ぅ……っ!」


 風呂場を出てすぐ、イサ―――もとい鏑木 衣沙かぶらぎ いさはぶるると震え上がった。

 シャワーを浴びたばかりの肌が、一気に冬の冷気に晒され縮こまる。


 大急ぎで端のほつれたバスタオルを手に取り、身体を拭いてジャージに着替えると、すると少しばかり寒さがマシになりほっとした。


 はぁ、と一息ついてからドライヤーで肩までの髪を乾かし始める。

 流石に一月の隙間風は辛いなぁとイサはしみじみ思う。

 こんな築四十年も過ぎたボロアパート、さっさと引っ越したいというのが本音である。

 けれど部屋に吹き込む隙間風はイサの懐事情にも厳しく吹きつけており、敷金礼金を考えるとどうにも腰が重たい。物価は上がるのに対して給料は横ばいだし、まだ下がらないだけマシとはいえ二十歳で入ったコールセンターに勤めてもう四年。昇格しても増えるのは残業時間だけとくれば未来への展望は明るいとはいえない。


「転職、すべきかなぁ……」


 古ぼけた洗面所の鏡を見つめひとりごちる。映っているのは年齢の割に疲れた顔をした自分だ。

 友人達は海外に転勤になったり、大きなプロジェクトに参加したりと仕事ができるのに対し、イサはてんで平凡である。特殊技能を持っているわけでなし、資格といえばAT限定自動車免許と、学生時代に取らされた簿記三級くらいのものだ。ほかに取り柄といえば、やる気がなくとも真面目に仕事に取り組むことくらいだろうか。転職するにはかなり心許ない経歴である。


 それに正直、どこに行ってもこんなものだろうという諦めもあった。


「……飲も」


 ぶお、と最後のひと吹きで髪を乾かし終わったイサはドライヤーを百均のフックにひっかけるとそのまま六畳一間のワンルームへと戻った。玄関側に置いてある小さめの冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、プシュ、と音を立てながら封を開ける。


 その場で立ったまま一口煽ってから、いつもの定位置であるテレビ前の炬燵に向かう。炬燵には座椅子が置いてあり、イサはよっこいしょ、と老婆のような掛け声をあげてから座り込んだ。ソファなんて洒落たものはこの狭い部屋に置く余裕は無く、流行りのミニマリストでもないイサの部屋はどこか雑然としている。


 なけなしのお金で買ったタンス代わりのカラーボックスの上には、自分へのご褒美に雑貨屋で買った梟の置物があるが、飾り物の類はほとんどない。部屋にはほとんど寝に帰るだけの生活なので、インテリアに拘ろうとは思えないからだ。


「あ〜……生き返る……」


 イサはくたびれたサラリーマンのような台詞を吐くと、ぼんやりした表情で機械的に薄型の液晶テレビを点けた。なんとなく、今日はパソコンで動画を見るより無意味にテレビの画面を見ていたかったのだ。


 何も考えず、視点をテレビに向ける。深夜放送のニュースが流れていた。右上の時刻表示は零時十三分。完全に日付は変わっている。昨日も、一昨日も、その前もずっと衣沙がひと心地つけたのはこの時間だ。衣沙自身、よく働いているよなと思う。唯一救われるのは、残業代がちゃんと出ていることくらいだろうか。

 ただそのお金は、衣沙のものであって衣沙のものではないのだが。


「疲れた、なぁ」


 ぽつり、と本音を溢してから、視線だけを投げているテレビの前で衣沙は缶ビールをぐびりと飲む。

 そうして座椅子の背もたれに首裏を預け天井を仰ぎ見れば、見慣れた木目が目に入った。ところどころに雨漏り跡の滲みがあり、お世辞にも風情があるとはいえない。普通はこんな部屋に彼氏なんて連れて来れないだろう。まあ衣沙の場合、そもそも存在すらしないのだが。今日だって仕事終わりに見たスマホに届いていたのは二つ年上の兄からのちょっとした連絡メールくらいだ。

 第一、仕事が忙しすぎて恋愛どころではない。朝六時に起きてから深夜十一時に職場を出るような生活では、優先すべきは睡眠時間のみである。


「……寝よ」


 缶ビールを一本空けたところで衣沙は顔の向きを正面に戻した。意味なく流していたテレビを消すと、画面が真っ暗になり衣沙の顔が反射で映り込む。頭上では傘付きのLED電球が煌々とした明かりを放っていて、六畳一間に一人だけでいる衣沙の姿がやけに目立つ。それを見て、衣沙はついへらりと自分に向かって笑った。

 今の生活に特に不満はない。正直仕事は激務に近いが、嫌というほどでもない。辞めて楽して暮らせるならそれに越したことはないが、できないならまぁ仕方ないか、程度のものだ。


 ただ……何か足りない、といつも衣沙は思っている。家族との仲も悪くないし、生活は厳しいものの生きるのに支障はないのに、どこかがずっと欠けているような、横側がすーすーするような、そんな感じがここ最近ずっとしていた。この感覚は一体何なのだろう、と衣沙はふと考える。けれどわからない。

 何が足りないのか。それ自体が何という名前なのかさえわからないのだ。けれどいつも何か、そう何かをずっと求めている気がする。胸の奥にある、ぽっかりと空いたものを埋めてくれる何かを。


(酔ったかな)


 なんて、とりとめのないことを考えてしまうのは酔っ払っているからだろうと結論づけて、衣沙は寝る準備のため座椅子から立ち上がろうとした。普段の彼女なら缶ビール一本で酔うことなどないが、今日は特に疲れているのだろう、そう思って。

 けれど―――衣沙が立とうとしたその瞬間、消したはずのテレビ画面が、忽然と白い光を放ち始めた。


「―――へ?」


 片足を立てたそのままに、衣沙は素っ頓狂な声を上げた。テレビの画面を凝視したまま、動きを停止させている。たった今消したはずのテレビが、なぜ? という疑問符を抱いたと同じくして、なぜか光るテレビの中から、にゅ、と何かが―――あれは人の腕だ。濃い紫色の袖がついた、誰かの腕が衣沙に向かって伸びてくる。衣沙は驚愕したまま腕、というより手が自分に近づくのを見つめていた。驚きのあまり身動きが取れないともいえる。逃げたほうがいいのだろうか、いや逃げるべきだろう、と頭ではめまぐるしく考えるものの、身体は一切動かなかった。そうするうちに、腕、いや手は衣沙の缶ビールを持っている右手をがしりと掴んだ。


「うわっ……!?」


 ぐい、と物凄い強さで衣沙の手が体ごと引っ張られる。濃紫色の長い袖がついた腕は衣沙を掴むと問答無用で彼女を白い光の中へと引っ張り込んでいく。


「わ、わ、わあああああっ!?」


 恐怖の悲鳴を上げる衣沙の身体がテレビの中に吸い込まれる。本来画面である場所にまず指先が埋まり、それから腕が、顔が、身体が光の内側へと入っていく。ぐぐぐ、とまるで柔らかい布団に押し付けられるような感覚だった。やがて彼女の意識は白い光に包まれて、全身がテレビの中へとすっぽり飲まれてしまった。


 そうして、恐怖と一瞬の奇妙な感覚と、白い光から目を覚ました衣沙を出迎えたのは―――


「やあ!! 初めまして異世界の人! ようこそ、シュトゥールヴァイセンへ!」


「……は?」


 やたらとビビッドな紫の髪をした、摩訶不思議な格好をした青年だった。


「ぼくの名はオウガスト・ビルニッツ。この世界で一番の召喚師にして、君を喚び出した者さ!」


 にっこり。そんな擬音が聞こえてきそうなほどにこやかに笑う青年は、月と星の装飾がついた錫杖をしゃらん、とひと振りすると、片腕を胸に添え、衣沙にそう告げた。

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