脳みそに解けるあい

空岡

第1話

 どうしてこんな子に育ったの、それが母の口癖だった。

 平日の殆どは居酒屋に通って時間をつぶしてから家に帰る。土日は昼間っから酒をあおって煽って、泥酔するまで飲み続ける。酒が好きだ。すべてを忘れさせてくれるから。

 大学を出て社会人になって、私は孤独になった。誰も私のことを見てくれない、両親の仲はとうに冷め切って、私が大学入学した日に離婚した。私は当然のように母に引き取られたけれど、大学生活は散々だった。

 離婚してしばらくは父からの養育費で生活できた、けれどそれもそう長くは続かず、私が成人したのを機に、母は長いブランクを経て就職した。

 就職すると母の機嫌は目に見えて悪くなり、家では職場の同僚の愚痴ばかり吐くようになった。

 そのころ私は、学費を奨学金で賄いきれず、毎日アルバイトに勤しんでいた。

「いらっしゃいませー」

「亜紀さん、もっと明るく挨拶くらい出来ないの? 挨拶は尻上がりに。いらっしゃいませ~! ほら、できる?」

「い、いらっしゃいませぇ」

 尻上がりに、と言われたって、まるで理解なんて出来なかった。意味がわからないのに指摘も出来なくて、だけれどどうやら私というアルバイトが、この店長の癇に障ることだけは理解出来た。

「亜紀さん、もっとシフト入れない?」

「レポートがあるのでこれ以上は」

 週に五日は入っている。

「ほんとに? 大学ってそんなに忙しいの?」

「……分かりました、入ります」

 どちらにしろ、学費を稼ぐために別のアルバイトを掛け持ちしなければならなかったから、この店長は私が断れないのを知っていたに違いない。

 シフトが週七に増えて、大学のレポートを徹夜で終わらせることが増えた。だけど誰も、私の苦労を知らない。大学の友達は、放課後になれば私をカフェに誘ったし、母は今月の稼ぎが少ないからと、私に金をせびってきた。

「亜紀、顔色悪いよ。無理してない?」

「ないない。ちょっと忙しいだけ!」

 心配されても突っぱねた。私は可哀想なんかじゃない。私はちゃんとやれている。アンタたちと違って自分の金で大学に通って、誰よりも真面目に勉学に励んでいる。

 それが、私の誇りだった。唯一、私を支えてくれる真実だった。

 けれど、アルバイトに忙殺されて、当たり前に私の成績は落ちた。

 大学はそこそこ名の知れた国立で、だけど私に就活なんてする余裕があるわけもなかった。

 本末転倒だ。大学に通うためにアルバイトをするばかりで、その先が見えていなかった。大学は終わりじゃない。就職こそがスタートなのに。

 同期はみんな、就活の合同説明会に参加して、就活の波に乗ったというのに、私はアルバイトにがんじがらめで、身動きひとつ取れなかった。

 果たして私は就活に出遅れて、みんなが内定を勝ち取るさなか、私の就活はようやくスタートを切る。しかし、何事もタイミングが大事だ。私は遅すぎた。ほとんどの会社が募集を終えた状態からのスタートで、私はなすすべがなかった。

 そんな中で、やっと取り付けた内定は、誰も知らない名前の会社だった。

 折角大学まで出したのに、アンタはなんでそんなつまらないところに就職したの。

 就職が決まった私に母が言った第一声である。そんなものこっちが聞きたい。そもそも一体誰のせいだと思っているのだ。私の学生生活を台無しにしたのは、アルバイト漬けにしたのは、母じゃないか。私が大学に進学したタイミングで離婚するなんて、考えなしな母がすべて悪い。


 私には親友がいる。小学校からの付き合いで、中学、高校、大学と同じ学校に進学した唯一無二の存在だった。そして、アルバイト漬けの私を心配してくれた、ただひとりの友人だった。

 だけれど最近、その親友が心底鬱陶しくてならない。

 私がアルバイトに明け暮れる中、親友はサークルに趣味にいそしみ、それは学生生活を謳歌していた。この差はなんだ。彼女といるとみすぼらしくなる。

「由紀ちゃんは公務員受かったっていうのに、あんたときたら」

 母が私をなじる。やめてくれ。ただでさえ自分が嫌になりかけているのに、親友の由紀まで嫌いにさせないで。「知るかよ」

 私が口答えしたのは、この日が最初で最後だ。

 由紀は当然のようにいい会社に就職した。私たちの縁はいったんそこで切れた。


 就職して最初の一年は、自由にお金が使える喜びよりも、奨学金の返済の苦しさだけが待ち構えていた。加えて、母が私の給料をあてにするようになり、仕事を疎かにするようになった。なんで私がこんな目に。

 二年目になってようやくやりくりに慣れてきて、同僚に誘われて居酒屋に入ったのが間違いだった。

 それまで私は飲み会でもお酒を飲まなかった。翌日の仕事に差し支えがあってはと思ったからだ。だが実際、お酒を飲んだ翌日は、心なしか気分もいいし仕事もはかどった。そうか、適度な酒はQOLをあげるらしい。

「最近、亜紀さん、調子いいみたいだね」

 同僚がそんな嫌味を言った。

「いい息抜き方法を見つけたので」

 嫌味で返す。周りからも浮いていた私は、週末の居酒屋での晩酌がひそかな楽しみになっていた。

 このころから、私の酒の飲み方は常軌を逸していたらしい。私は酒の飲み方を知らない。飲み会で教わる機会もないし、親から教わることでもないからだ。

 私は度の高いお酒を一気に飲み干すのが好き。きゅっと煽って、じわっと胃がアルコールで焼ける感覚。そのあと時間差でアルコールが頭に回って、ぼわんと霞んでいくのがいい。なにもかも忘れられるこの瞬間が好き。

 お酒が回れば回るほど、なにも分からなくなっていく。嫌なこともいいことも、一緒くたにアルコールに溶けて揮発して、私の体から抜けていく。体がどろどろと融けていって、最後に意識がふわっと消える。

 ブラックアウトは脳にダメージを与えるから人生で一回まで、とどこかで読んだことがあるけれど、私は果たして何回のブラックアウトを経験しただろうか。わからない。

 ブラックアウトしても翌日にはちゃんと実家の布団に寝ているのだから、人間の本能は面白いものだ。


 ある時、一人で居酒屋で飲んでいた私に、ある男が話しかけてきた。

「おひとりですか?」

「……まあ」

 酒に酔っているとはいえ、警戒心は残っていた。見れば、男は居酒屋にいるのに酒ではなく烏龍茶を飲んでいる。

「飲まないんですか?」

「車で来てるので。アナタはすごいペースで飲みますね」

 来店と同時に日本酒を二合とレモンサワー、ビールを立て続けに胃に収めている。

「アナタには関係ないじゃないですか」

「嫌なことでもありました? ひとりで飲むのはつまらないでしょう」

 やけに物分かりのいい男だと思った。けれど私は、酒の勢いに任せて胸の内のぐちゃぐちゃを吐き出した。吐き出してみると存外すっきりして、私の警戒心は一気にとけた。男が私の話を全部頷き肯定してくれる。それがたまらなくうれしくて、楽しかった。

 だから私は、こうして見ず知らずの人間と仲良くなれるのも酒の場の楽しみだと、そんなことを思い始めていた。

 男が私に酒をすすめる。言われるままにアルコールを体に回して、滑らかになった私の口が愚痴を吐き出す。母のこと、大学時代のこと、親友のこと。

 酒は偉大だ。今まで誰にも打ち明けたことのない内なるものが、アルコールに溶けて私の毛穴から、口から、脳天からぷくぷくと抜けていく。

 楽しくて言葉が止まらない。

 私は男性とトークを繰り広げ、そうして飲んで飲んで飲んで――目を開けた翌朝、私は自分の体に違和感を覚えた。ちなみに昨日もブラックアウトするまで飲んだらしく、途中から記憶はほとんどない。

 そんな、切れ切れの記憶の中で、私はあろうことか男に姦されていた。嘘だろ。くそ。

 当然、連絡先も聞いていないし、動揺してどうにもできない。悩んだ挙句、母親に打ち明けたのはその日の午後だった。

「酔ってヤられたかもしれない」

 会社を早退して恥を忍んで、助けをこうた。

「自業自得でしょ。男と飲むってそういうことだろ」

 母の答えは冷たかった。私は本当にこの人の娘なのだろうか。泣きたくなるより先に怒りが勝って、かえって頭が冷えてくる。

 冷えた頭で、私は警察に電話をする。出たのは男性の警察官だった。

「女性の警官にかわります」

 事務的な声には感情がないようにも思えた。

「お電話かわりました」

 柔らかな女の声に少しだけ安堵した。

「あの。昨日居酒屋で見知らぬ男性と飲んでいたんですけど」

「知らないひとと飲んでたんですか?」

 やや呆れたような声に、私の声は小さくなった。

「それで、酔って男の車に連れていかれて……」

 泣きたいのをこらえて、恥ずかしい気持ちを押し殺して、私はことの顛末を一から十まで説明した。

「分かりました。今すぐ署に来られますか?」

 ふたつ返事で、私は着替えもそこそこに警察署へと向かった。

 迎えてくれたのは私と同い年くらいの婦人警官だった。なにより先に、婦人科へと連れていかれた。そこで初老の婦人科医に検査されて、「いますね、精子。アフターピルどうします?」淡々とした声で言われた。

 私はもちろん「お願いします」と答えたが、婦人科医は私に怪訝な目を向けている。おそらく母と同じ考えなのだろう、「今後は知らない男性と一対一で飲まないようにしてくださいね」私が悪いと言わんばかりの言葉に唇をかみしめた。

 アフターピルを飲んだ後は、血液検査をされた。性感染症が現時点で無いことを確認するためだ 。三ヶ月後に改めて検査するまで、今回の件は解決とはならない。潜伏期間は、長く見積って三ヶ月だからだ。


 婦人科で検査を済ませたあとは、現場検証で事細かに状況を聞かれた。思い出せる限り答えたのだが、別れ際に、「抵抗した形跡がないので立証するのは難しいと思います」そう言われた。その後警察から連絡が来ることはなかった。

 肝の冷える二週間を経て、生理が来たときは心底安堵した。

 そこからさらに三ヶ月後、血液検査で陰性の結果が出たとき、ようやく生きた心地がした。


 そんな事件があったにも拘わらず、私は相も変わらず平日の半分は居酒屋に行くし、残りは家飲み、週末は昼間っから酒を浴びた。

 酒が私の生活を侵食して行く。仕事に行けない日が週に一日、二日と増えていった。

 鬱積した感情は固く閉ざされ、いまや酒をもってしても融かすことは不可能となっていた。

「亜紀さん、最近変ですよ」

 だし抜けに同僚が言った。

「変? なにがです?」

 心当たりは一切なかった。だから私は、食い入るように訊き返していた。

「お酒臭いし……最近休みが多いじゃないですか」

「……気のせいですよ」

「気のせいじゃないって。今日だってほら、お酒の匂いぷんぷんさせて」

 同僚が私に顔を近づけて、すん、と鼻を鳴らした。少女漫画なんかではここで恋が始まるのだろうけれど、生憎と現実はそうはいかない。

 私は鞄からマスクを取り出して口元を覆った。

「風邪予防にアルコールで手を消毒してるんです。口はマウスウオッシュ使ってたので。不快でしたら気をつけます」

「……そう、なのかなぁ」

「そうですよ」

 けれど私のぺらぺらの嘘なんて、同僚も上司も後輩にも、見抜かれていたに違いない。

 酒から抜け出せない。やめよう、やめようと思えば思うほど、酒は私の足を絡めとって、ずるずると深い沼に引きずり込む。

 まるで嘲笑うかのように、酒が私の生活に染み付いて、いくら染み抜きをしようとしても、染みは広がるばかりで取れやしない。

 離れようとすればするほど頭は酒のことばかり考えて、一日中、私の頭は酒に浸かっていた。

「亜紀さん」

「はい」

「最近、体調不良で休むことが多いけど、大丈夫なの?」

「……大丈夫、です」

 なにが大丈夫なのか分からなかった。そもそも上司に私のなにが分かる。

 早く帰りたい。酒を体に回したい。全てを酒に溶かしてしまえば、私は誰にだって負けない、無敵になれる。

 もう、私の味方は、酒しか残されていなかった。


 とある朝、珍しくメールの通知が携帯のランプを照らしていた。どうせどっかのメールマガジンだろうとその日は無視した。結局メールを確認したのは翌日の昼で、私は例に漏れず休日の酒を楽しんでいた。

 脳がアルコールに漬かる、浸かる、じんわりと体中に回っていくアルコールの感覚に、気分は上昇した。警戒心もなくなって、ただただ気持ちがいい。脳みそがどろどろだ、今ならどんなメールマガジンでも気分よく読める自信がある。

『最近どう?』

 メールの内容はただ一言、そう書かれていた。親友の由紀からだった。実に三年ぶりのメールである。

『まあぼちぼち』

 そう打って一度本文を全部消す。みじめだ。ぼちぼちすらやれていない、あんな会社で私がまともにやれていると思うのだろうか。皮肉交じりに返す。

『もうさあ、最近私アル中で。今も昼間っから酒飲んでる』

 何をどのくらいとは書かなかったが、度数12の缶酎ハイ500ミリリットルを、半日で四本は空けている。すぐに返事が来た。

『アル中は病気だよ。誰か相談できる人はいないの?』

 何本気にしてんだ、うっざ。こんなのその場のノリの冗談だろうに。そもそも今は、『アル中』じゃなくて『アルコール依存症』って名前なのに。

『別に病気じゃないよ』

 見下されてるようで悔しかったから、真面目に返してやった。それ以降、返事はなかった。


 お酒の量が増えていく。一週間、日から土まで昼は家飲み、夜は居酒屋でブラックアウトするまで酒を飲む。つまみも腹に入れず、きゅっと。じりじりとアルコールが私のなにかを溶かしていった。


 そこから半年ほどしたころ、私は久々にアルコールのない休日を過ごしていた。休日といっても、今の私は仕事もやめて、酒に溺れる毎日だった。そんな私を母は見て見ぬふりをして、もう長いこと口を聞いていない。

「ちゃんと食べてるの? 私なんて仕事のストレスで食べ過ぎちゃって」

 朗らかに話すのは親友の由紀だ。久々に会わないか、と誘われて、渋々ながらオーケーした。外出で酒を飲めないことよりも、家にいることのほうが苦痛で、由紀を口実に家から――母から離れたかった。

 待ち合わせに現れた彼女は、昔の面影なんかない。太ったこともそうだが、そのふくよかな体を包む服は、彼女の存在を際立たせた。

「着物なんて着るんだ」

「うん、おばあちゃんの形見分けでもらってから、なんとなく。おばあちゃんっ子だったからかな?」

 へえ、と相槌を打つ。着物なんて興味もないけれど、いいご身分だなと思った。少なくとも私には無理だ。着物なんて高いし手入れは大変だし、苦しいし、悪目立ちするし。

「亜紀は成人式来なかったじゃん。興味あるなら私の着られないやつ、何枚かあげようか?」

 そういえば私は、成人式ですら着物を着たことがなかったな。

「いや、興味なんてないし」

 ごにょごにょと言葉を濁す。どこかで思った、私だって彼女のように着飾れば、それなりにまともに見えるはずだ。

「その顔。亜紀ってわかりやすいよね」

「なにが」

「ううん。じゃあ今日は、最初に少し私に付き合って」

 なんだろう、と言われるがままに電車を乗り継いで、たどり着いたのは古びたお店だった。ディスプレイを見るに着物の店だ。もしや、由紀にねずみ講でもされるのではと構えたが、「すみませーん」と由紀はお店に入っていく。すると店の奥から「あら、いらっしゃい」出てきたのは初老の女性で、彼女もまた、着物を着ている。私は由紀に隠れるようにして店内に入る。着物の独特のにおいがした。

「あら、今日はお友達も?」

「はい、彼女に着物を紹介したくて」

 由紀とおばあさんの間に会話が弾む。私は店内を見渡した。五百円、千円コーナー、一万円コーナー。思わずハンガーにかかった着物を手に取り、まじまじと見ていた。

「安いでしょ」

「うん、洋服より安い」

「そこがアンティークの魅力」

 由紀も着物を物色する。恐る恐るだった私の手も、次第に遠慮なく着物を物色し始める。キラキラしている、このお店が、お店に飾られた着物たちが。

「着始めとなると、着付け小物はこの辺かねえ」

 おばあさんと由紀が勝手に話を進める。私は着るなんて一言も言ってないけれど、半分はもう流されている。手に取る着物はすべらかで、どれも肌触りがよさそうだ。

「どれが好き?」

 由紀が訊く。うーんと返事を渋る。正直どの柄も好みではないし、そもそも着る気がない。だというのに、これはこうとかこっちはああだとか、由紀はおせっかいに着物を一枚一枚私の体に当てて、姿見で私に確認を促す。

 ああ、本当に嫌だ。由紀のこういうところが嫌い。なんにも苦労せずに生きてきて、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いって、はっきり言えるこの子が。一緒にいると私はみじめになるし、どうしても自分と比べてしまう。なぜ私は、由紀じゃないのだろう。

「あ」

 ざらりとした感触が私の指に引っかかる。その着物を引っ張り出して、今一度よく触れてみる。今まで触ってきた着物とは明らかに手触りが違う、そして軽い。指に馴染む感覚は、不思議と私を落ち着かせた。

「いいねえ、それは阿波しじらだよ」

 おばあさんが言う。

「阿波しじら?」

 思わず訊き返していた。

「徳島の伝統工芸品の木綿着物だよ。盛夏にも着られる夏着物で、そのしぼが特徴」

 しぼ、というのは布の凸凹のことだろうか。それに木綿と言っていた。

「木綿って、コットンのこと?」

 由紀に訊けば、そうだね、と答えた。

「着物は正絹っていう思い込みがあるけど、普段着の木綿は家で洗えるし味があって私も好き」

 由紀がまたまぶしく笑った。木綿、普段着。まるで私だ。絹になれなかった着物。普段着の服。特別な日には着られない、ラフな着物。

「気に入った?」

 由紀が訊く。

「まあ、この中では一番」

 ひねくれて答える。

 じゃあじゃあ、と由紀が阿波しじらを持って店の奥まで私を追いやる。ぐいぐいと押されて私は足がもつれそうになった。

 店の奥には畳の間があって、仕切りが立ててある。そこで着付けをしていいらしく、由紀は断りもなくそこに靴を脱ぎあがっていった。

「おいでよ」

「でも」

 一通りのやり取りをして、私は「おじゃまします」と一応の断りを入れてそこに上がった。畳のかおりが心を落ち着かせる。

 由紀は慣れた手つきで私の体に着物を着付けていく。私が渋ったため、服の上からだ。

 しかし、着あがった私の姿は、由紀のようにしっくりこない。細いのだ。由紀のようにどっしりした体型のほうが、着物は板につく。私は自分の姿を鏡で見ながら、より一層みじめになった。

「あらあ、粋な着物を若い子が着ると、本当に素敵ねえ」

「まあ、ほんと」

 どこの誰かもわからない、畳の間にいた先客が私を見て朗らかに笑った。

「この子、今日が着物デビューなんです」

 煩い、恥ずかしいから黙っていてくれ。おろおろとする私をよそに、先客のマダムたちがニコニコと私を見ている。私の着物を見て、「阿波しじらかしら?」ぴしゃりと当ててみせた。どうやら阿波しじらは、着物通の間では見ただけでもわかるようだ。確かに他の着物にはない生地だし、色だってそうだ。青色とは違う、深い深い藍。絹じゃなくったって、泣きたいほど綺麗だ。

「アナタ本当によく似合ってる。着物ってとても楽しいから、覚悟したほうがいいわよ?」

「え、覚悟?」

 訊き返すも、マダムはにこりと笑うだけで、そのまま店のほうへと歩いて行ってしまう。私と由紀の二人だけになって、私は今一度姿見を見る。やっぱりほそっこくて不格好で貧相な着姿だけれど、それでもどこか、私の心は晴れ晴れとしていた。

 お酒を飲まないと不安で押しつぶされそうだった毎日が、どうでもよくなる。なんであんなにお酒に狂っていたのだろう。こんなに頭がすっきりしたのは、もう何年ぶりかもわからない。

 鏡に写る私の横には、着物を着こなす由紀の姿。由紀がおばあちゃんっ子だったことを、私は今日、初めて知った。由紀が着物を着るに至った理由だって、ストレスで太ったことだって、今日会って聞かなければ私はなにも知らなかった。

 ふと由紀の言葉が私の頭をよぎる。『アル中は病気だよ』。ああ、そうだね、今ならわかる。由紀は私の心配をしてくれていただけなんだ。

 鏡の向こうの私が笑った。

「私は」ここに、いる。

 いていいんだ。

 すとん、とすべてが腑に落ちて、開けた視界に飛び込んだのは深い藍。

 家に帰ったらお母さんとちゃんと話そう。毎日お酒に溺れていてごめんね、でも、大したことない会社に勤めていたからって、今は働けなくったって、私は貴方の娘だから。だから、ありのままの私を愛してくれませんか。

 胃が少しだけきゅっとする。母との関係は修復不可能かもしれない。だけど、その一歩を踏み出さなければ、私は一生このままだ。お酒もやめよう、そのお金を貯金に回そう。一人暮らしにはまだ心許ないけれど、そうしていつか。

「私、アルコール依存症の治療受ける」

 由紀は昔と変わらぬ表情で私の話を聞き、頷いた。

「それで、お金をためて徳島に行くんだ。この阿波しじらを織った人たちに会いに」

 旅路は決して平坦ではない。だからこそ、私はその先にある景色が見たいのだ。

 がらん、と私の中で、なにかがとける、音が、した。

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