左へ曲がれ

空岡

第1話

「左へ曲がれ!」


 その日A男は空耳を聞いた。

『左へ曲がれ!』

 確かに今、A男の目の前には道が二つある。

 学校から自宅へ向かう途中の、唯一の岐路だ。

 左へ曲がればいつも通り、だが右に曲がれば遠回りになる。

 普段なら迷うことなく左へ折れるところを、A男はこの日に限って右に曲がった。弱冠十歳のA男は、反抗期真っ只中で、故にどこからともなく聞こえた声に反発したのだ。

 右に曲がってしばらく歩いたところで、正面の遥か遠くに黒い点が見えた。その点はものすごいスピードでA男の方へと走ってきていた。目視できた頃にはすでに遅く、それは黒く薄汚れた野良犬だった。牙を剥いてA男に噛みつかんとしている。

 A男は犬に背を向けて今来た道を引き返す。全力で走る。

 足元のアキレス腱に犬の生暖かい鼻息が掛かる。

 このまま食い殺されるのでは?

 A男は後ろを何度も何度も振り向き確認しながら家までの道をひた走った。

 家が見えてきたところで、A男は走りながら器用にランドセルを前側に持ってきて、内側のポケットから鍵を取り出す。いまだ犬はA男の足元で鼻息を荒く追いかけてきている。

 家の玄関まで来て、A男は素早く鍵を鍵穴に滑り込ませ、がちゃり、右側に回す。

 回した鍵をもとの位置まで回してから引き抜く。この間わずか一秒足らず。

 玄関を勢いよく開けて家の中に入る。ばたん、とドアを閉めて鍵も閉める。

『ワオン、クーン!』

 外に居るであろう野良犬がカリカリと玄関を引っ掻く音がする。

 A男はふう、と息を吐き、玄関でへなへなと腰を抜かす。堪えていた涙がぶわっと溢れ、ようやく生きた心地がした。

「あらA男、帰ったの?」

「おかあさぁん!」

 A男のただならぬ様子に母親は玄関に座り込むA男に歩み寄る。

「何かあったの?」

「犬に追いかけられた」

「まあ……」

「変な声が『左へ曲がれ!』って言うから右に曲がったら、犬がいてっ」

「声? あらあら、大変だったわね」

 母親は詳しくは聞かなかった。この歳の子供にはよくあることだ。感受性が豊かである子供には、時々不思議なことが起こる。母親はそれを理解していたし、A男自身もその後空耳を聞くことは一切なかった。


 それ以来、A男は犬が苦手になった。トラウマになった。

 とはいえ、それで生活に支障が出たかと言えばそれはノーだった。今日この日までは。

 A男は高校生になっていた。十七歳、華の高校生活。A男には恋人ができた。学校でも有名な美人だった。

「お邪魔します」

「上がって上がって~」

 A男は兼ねてから誘われていた、恋人の家に遊びに来たのだった。初めて上がる異性の自宅に、胸が高鳴っていた。だが、

『ワン、ワオン!』

 恋人の家には犬がいた。かつてA男を追いかけてきた犬と同じような、大きな大きな犬だった。

「ひっ」

「A男くん?」

 犬の方はA男を歓迎するべく甘えた鳴き声でA男の足元にすり寄ったつもりなのだが、いかんせん犬にトラウマがあるA男にとっては、あの時の犬を彷彿とさせるだけであった。

『ワフ!』

「う、うわっ、来るな!」

 A男は足元でワフワフと甘える犬を、しっし、と手で払い除けるが、犬の方はまるで遊んでいるかのように、今度はA男にのし掛かった。犬の前足がA男の体を押す。

「ひ、ひー!」

 A男は恐怖からとうとう腰を抜かした。ガタガタと震えるA男を、犬はペロペロと舐めている。

「あはは、何A男くん、犬が怖いの?」

 端から見ていた恋人は、無遠慮に笑いを漏らした。しかも抱腹である。

「な、笑うな……」

「だって、おかしい! こんなにかわいいのに。おいで、ポチ」

 ポチはA男の上から退いて、恋人の傍にすり寄る。恋人はポチの頭を撫でながら、

「ほら、かわいい」

「い、いいから別の部屋に連れてってくれ!」

「あーはいはい、ポチ、おいで?」

 恋人はいまだ笑いをやめず、ポチを隣の部屋へと連れていく。

 帰ってきた恋人は、

「それにしても、A男くんって甲斐性なしね」

「う、うるさいな」

「おかしかったなあ! あんなに震えて!」

 なおも笑う恋人に、とうとうA男は、

「人にはひとつふたつ苦手なもんがあるだろう!?」

「なによ、怒鳴らなくてもいいじゃない」

「お前が笑うから悪い!」

「はあ? 何よ、腰抜け!」

 A男と恋人は本当に仲のいいカップルだった。だがそれは、ポチという存在により破局を迎える。

「あんたみたいな男とは付き合えないわ!」

「それはこっちの台詞だ! 俺と別れて後悔しても遅いからな!」

「後悔? あんたが万が一有名人にでもならない限り、そんなことはしないから! 帰って!」

 A男はこの時を境に決意した。将来絶対に有名になって、この女を見返してやると。そして、もう二度と女なんか作るものかと。


 件以来、A男は勉学に励んだ。有名になるには勉学が必須だと考えたからだ。

 元来勉強が嫌いではなかったA男は、めきめきと力をつけ、やがて日本で最難関と言われるT大学に合格した。

 大学では機械の開発、研究を学び、大学院にも進学した。その後は当然のように研究職に就く。

 そうして月日は流れ、A男はついに念願を果たした。

 A男が発明した機械が、世界でも権威のある賞を受賞したのだ。

 A男の名前は瞬く間に世界中に広がり、A男は一躍時の人となる。


 授賞式やインタビューで忙しい毎日の中、A男はようやく自分の時間を確保した。

 A男にはまだやることがある。むしろ、この発明をした暁には、必ずやらねばならないことがひとつだけ残っていたのだ。

 A男は自分が開発した機械の前に座ると、電話型のそれの受話器を手に取る。

 ダイヤルを回す、一、〇、歳、七、月、一、五、日。

 何を隠そうA男の開発したこの電話型の機械は、過去の自分に電話を掛けられるというものだった。

 今の段階では自分以外には電話はできないが、将来的には色々な人間に電話が出来るようになるだろう。

 A男が押したダイヤルは、十歳七ヶ月十五日を生きる自分に向けての電話を意味する。

 呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回。

 プツ、と繋がる音がする。電話に内蔵されたスクリーンに十歳のA男が写る。今まさに、A男は岐路にいた。人生の、岐路に。

 A男は深く、深呼吸する。

「左へ曲がれ!」

 斯くして、A男少年は、右に曲がった。

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左へ曲がれ 空岡 @sai_shikimiya

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