第18話 ベッタベタ


 図書室を素通りしてその奥の階段を登る。手は繋いだまま。

 二階は理科系と家庭科系の実習室とその用具室が固まっていて、私たちも何度か授業で来たことがあった。実習自体はまだしたことないけどね。現状、別館の中では一番馴染みがあるかも。


「……」


「……」


 このフロアも、少なくとも廊下の先までは私たち以外誰もいなくて、どの教室も明かりは点いていない。羽須美さんはますます嬉しそうに、だけど抑えめな声量のまま呟いた。


「こうしてみると」


「うん」


「絶好のデート日和だったのかも。ある意味で」


「たしかに」


 手を握られる感触が、僅かに強まった気がする。正直、手を握るときにはもっとあたふたするんじゃないかって思ってたんだけど──や、あたふたはしてたけど──、実際のところ今の羽須美さんは、恥ずかしさもあるけど嬉しさの方が勝っているような、そんな雰囲気。初デートのときは誘うのすらガッチガチになってたっていうのに。成長著しい。

 ……にぎにぎしてみるか。にぎにぎ、にぎにぎ。


「っ!?ぅ、ぁ、ぁっ……??」


 あーそうそうそれそれ、その反応が見たかった。


「にぎにぎー」


「ま、まって、まって黒居さん……っ」


 これは流石に羞恥の方が勝るらしい。小さいまま上擦っていく声が、なんとも耳に心地良い。なんだろう、困らせたいってわけじゃないんだけども。ああでも、かわゆい。

 楽しくなってきた私はさらに調子に乗って、指の腹で順番に、羽須美さんの手の甲をとんとんノックしていく。親指から小指へ、また翻って親指へ。一つ叩くたびに手がびくっと震えて、唇がわなないて、そして。


「──も、もう勘弁して下さいぃ……!」


 湯気でも幻視しそうな有り様で、羽須美さんはそう懇願してきた。


「しょうがないなぁ」


 自分でも口角が上がっているのを自覚しつつ、ゆっくりと指をほどいていく。自由になった左手を、羽須美さんは大事に大事に胸の前で抱え込んだ。


「うぅー……頑張って耐えてたのに……」


 なんと、意図して平静を保とうとしていたらしい。べつに良いのに。好きなだけテンパっても。

 

「なんだってまたそんな」

 

「ほ、ほら、二回目だし……ちょっとは熟れてきた感出したいなって……」


「あっはは」


「もぉ……」


「ごめんて」


 唇を尖らせて、少しだけ拗ねたような表情。そんな顔を見るのは初めてで、新鮮で、ちょっと心が浮ついた。いたずらが上手くいった楽しさも相まって、つい口を滑らせてしまう。


「まあでも確かに……こう意識してみると、私もちょっとどきどきしたかも」


 だってこれ、めっちゃ恋人っぽかったじゃん?自分からやっておいてなんだけども。そう伝えた私に、羽須美さんは耳まで真っ赤になりながら言うんだ。


「わ、ぁ、あーしは、前のデートの時も、めっちゃドキドキしてた……」


 白旗を上げたあとの羽須美さんはとっても素直で、ちょっとグッときた。すぐ赤くなる顔は毎日見飽きない。むしろその赤面が見たくって、いたずら心が湧いてしまう。そういう意味では、私は羽須美さんに変えられていってるんだろう。少しずつ、だけども確実に。


「羽須美さん」


「……なに?」


「その調子」


「どの調子……?」


 はてなを浮かべる彼女さんに委細話すべきか少し悩んで、そしてそこで、廊下を端まで歩ききってしまったことに気付く。一つの教室も覗くことなく、反対側の階段まで到達してしまった。これじゃ探検というよりウォーキングだ。ウォーキングデート。うーむ、健康的。


「三階は文化部の部室があるんだっけー?」


「確かそう。文芸部とか漫研とか」


 その辺りは梅雨でも変わらず活動してそうではある。つまり三階には人がいる可能性大。二人して顔を見合わせ、少しの沈黙。上履きの先は揃って、下り階段へ向いていた。


「……降りる?」


「……そう、だね」


 一階からなら、もう一つの別館に向かうこともできる。臨時用の空き教室ばかりの、ここよりもこじんまりとした小舎に。なんとなくまだ“二人きり”を味わいたくて、足の向くまま下へ降ることに。同じ気持ちだったのがわりと嬉しくて。だからってべつに、それくらいで浮足立ったわけじゃないけど。でも私は、唐突にやらかした。


「ぁっ──」


 下り階段の二段目を踏み外し、つるりと右足が滑る。ここに来て梅雨に足を掬われた。身構える余裕もなく、体が斜めに傾いで──


「──危ないっ」


 思いっきり引き寄せられた。誰かってそりゃもちろん、彼女さんに。


「っ」


 あんなに悶々としていたのが嘘みたいに、一瞬で私の手を掴んで、引き寄せて、抱きとめてくれた。ちから強いなとか、体幹しっかりしてるなとか、知っていたつもりの羽須美さんを肌身に感じる。咄嗟のことだったから加減もなく抱き寄せられて、私たちの顔は、たぶん映画を見た時と同じくらいにまで近づいていた。


「大丈夫、黒居さんっ!?」


 まっすぐだ。射抜くようにまっすぐ。髪色よりもうんと暗いダークブラウンの瞳が、呆け顔の私を映し出している。羽須美さんの表情は真剣そのもので、この至近距離にあって、浮ついたような色は一切ない。そういう風なことを滔々と考えてしまうくらいには、私はびっくりしていた。


「黒居さんっ?どっか捻った?痛い?」


「……あ。だいじょぶ……うん、だいじょぶ。ありがとう、羽須美さん」


 心配そうな声音にようやく心が戻ってきて、お礼を言って、それから自分で立つことを思い出した。下り階段の二段目にしっかりと両足を付けて、小さく息を吐く。


「いやードジっちゃった。ごめんねぇ」


「ううん。怪我とかしてなくて良かった」


「お陰さまで。ほんと、ありがとう」


「いえいえ」


 元通りの距離に戻ってからも、羽須美さんはまだ少し心配そうで。ベタで申し訳ないんだけど、私はこう、けっこういた。自分でもびっくりしてる。私って、こんなドストレートにときめくことあるんだ、って。


「……羽須美さん」


「うん?」


「スタンプ押して良い?」


「……………………はぇっ!?!?」


 ちょっとの沈黙、廊下に響く声。

 初デート以降お互い強いて話題に上げることはなかったけど、でもスタンプって言葉だけで十分伝わるくらいには、ずっと意識してくれてたらしい。


「良い?」


「今!?ナンデ!?」


「キュンと来たから」


「ェッ、アッ……いや、わたし別にそんな、そういうアレじゃ……!」


「うん、分かってる。だからキュンと来たの」


 混じりっけなしの咄嗟の善意に。むしろ私の方が不純だろう。そう思いながらも手は勝手にスカートのポケットに伸びて、ずっと持ち歩いてたキスマークのスタンプを取り出していた。


「だめ?」


「ダメッ……じゃ、ない、です……」


 一段下から見上げれば、羽須美さんはまだ混乱を残したまま、おずおずとそれを差し出してきた。奇しくも同じスカートの右ポケットから出てくる、弟くんから貰ったらしいスリーブ?っていうので保護された、スタンプカード。私が手渡したときよりも随分と可愛らしくなったそれを受け取って、スリーブから取り出して──これ下敷きに丁度良いな──、それから、スタンプのキャップをはずす。


「はい、二個目ー」


 二つ目の丸枠内にきゅっと押し当てれば、真っ赤なキスマークが一つ増えた。

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