第16話 朝の教室


 気象予報によると今年の梅雨は例年より期間が短いとかで、たぶん一ヶ月無いくらいらしい。今のところはまあ……あめあめくもり、あめくもり。くもりあめあめ、あめくもりってな塩梅。雨が降ろうと降るまいと私がうちのクラスで一番乗りってことには変わりないんだけど、この頃は羽須美さんの登校時間がどんどん早くなっていて、今日はついに、私の次に戸をくぐってきた。


「おはよー羽須美さん」


「おはよう、黒居さん」


 挨拶して、それからカバンを置きつつ教室を見渡して、少し嬉しそうにする彼女さん。まだ廊下を通る生徒さんもかなり少ない時間帯、しとしと雨も相まってすごく静かな雰囲気だ。まるでそれを壊すまいとするように、羽須美さんは慎重に慎重に、椅子を私の机のすぐ横まで引いてきた。


「黒居さんの髪、今日も元気だね。毎日違う跳ね方しててちょっと面白いかも」


「私の御髪様は気まぐれだからねぇ。そういう羽須美さんも毎日お洒落さんだ」


 そのままストレート、ゆるーくウェーブ、ハーフアップに時々サイドテールなんかも。何パターンかある髪型は、毎日見ていて楽しい。今日は毛先内巻き前髪ふわっと8:2分けって感じ。この梅雨の時期に、こんなに早く登校してるにもかかわらず、すごい美意識の高さだ。しかもお弁当も作ってるんでしょ?ハンパない。


「あ、ありがと……」


 私は例によって自分の腕枕に頭を乗っけてるから、赤くなった羽須美さんの顔を軽く見上げる形になる。下から見るとまつげの長さがよく分かるね。


「うーむ。これだけバッチリ決めたうえで早く来てるのに、私こんな出迎えでちょっと申し訳なくなってきたかも」


 朝はいーっつもぐでっとしてるからね、私。なんなら朝じゃなくても。ホームルームまでだらだら駄弁ったり、うとうと微睡んだり。生態的にはナマケモノとかに近いんじゃなかろうか。わかんないけど。


「そんな、あーしはその、黒居さんのこと見てるのす、好きだし……っていうかむしろ、あーしの方こそ昼寝?朝寝?の邪魔になってない?」


 朝寝とはこれ如何に。しかし一方で言い得て妙でもある。そして邪魔になってるなんてことは全くない。


「だいじょーぶ。私わりと、いつでもどこでもどんな環境でもうとうとできるから」


「そ、そっか。それも一種の特技的な?」


 ガッツリ寝られるかはまた別の話だけども。でも私はその“うとうとする”ってのが好きなのだ。意識があるようなないような心地良さの中で、周囲の喧騒が少し遠くに聞こえたり、あるいは静けさを肌に耳に感じたり、そういうのが。好きすぎて授業中にもやっちゃうくらいには。


「かもね。なので羽須美さんにガン見されてても問題なし」


「ガン見はっ、その……して……や、あの……はい……」


 してないとは言い切れまい。本人も自覚があるようで、気まずげに視線をそらされた。別に全然良いんだけどね、私もよく鏡ガン見してるし。それにー……


「羽須美さんの視線、あったかくて気持ちいいし」


「いっ」


 あったかい通り越してあっついときもあるけど。でも、まどろむ私を見てるときのそれは、あったかくて穏やかで、良い感じにうなじの辺りがちりちりしてくるというか。程よくうとうとできるというか。まあこれは、最近気づいたことなんだけども。


「だから、遠慮なく見てて良いよ。羽須美さんがイヤじゃなければ、ね?」


「そ、っれは……どうもぉ……」


 お礼を言うわりにはむしろ、視線がきょろきょろとせわしなくなってしまった。羽須美 綾、やはり面白い。静かになってしまった教室にはまだ私たち以外いなくて、別のクラスの誰かが歩いていくリノリウムの音が、廊下の方から聞こえてくるだけ。それにつられてか、羽須美さんは顔をそちらへ向けて。音の主がうちの教室前を通り過ぎていったのを確認してから、私へ視線を戻した。いや、私へというか私の頭へ、かな?


「黒居さん」


「なーに」


「その……か、髪、梳いても良い?」


 唐突っちゃあ唐突だ。だけどまあ、梅雨入りの日にも一度撫でてもらってるし。あのときは私の方から誘ったけど、今日は逆。あの心地良い手付きを断る理由なんてない。


「どーぞ」


 つむじを差し出すように、頭の角度を変える。今回はごきゅりって音は聞こえてこなくて、でも恐る恐るな雰囲気はまだ変わらずに、羽須美さんは私に触れた。


 なでり、なでり。なでり、なでり。

 一拍置いて、指が髪の毛に埋もれていく。


「今日もくしゃくしゃ?」


「……今日もくしゃくしゃ」

 

 静かなまま、程よい熱を感じる。指先と視線、それから声に。

 つむじからゆっくりと、毛流れに沿って手櫛が滑る。指の腹と丸く切り揃えられた爪の先が、頭皮に僅かに触れて心地良い。落ち着くような、少しだけぞわぞわするような。続けられれば続けられるほどに、まどろみが助長されていくような。そういう指遣い。


「羽須美さん」


「……ん?」


「やっぱり、上手だねぇ……」


「……ありがと」


 まぶたが勝手に落ちていく。静かだ。雨の音が遠い。代わりに、指の擦れるほんの小さな音がすぐ近くに。なんだか贅沢な朝だ。そう思ううちに意識は半分溶けちゃって、またしても気付いたらホームルームの時間だった。髪のうねりも多少収まってるような気がして、やっぱり羽須美さんはテクニシャンだなぁって、改めて思った。

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