深夜のスィーツ作り
下弦の月が東の空から昇る頃に、冒険者フィル・ワーズがラティの喫茶店に来た。
彼とは一つ約束がある。
スミレのシロップを食べさせるというものだが、彼は新たな冒険に出発するとのことで、約束の日よりも早くにラティに会いに来たのだ。
ちゃんと事情を話してくれるあたり、律儀な性格をしているようだ。
––––––けれど、なんで彼は店内に入ってきたのだろうか。
このくらいの内容なら手紙で済むし、口頭で伝えるにしても店先で話せば良さそうに思える。
他に用でもあるのだろうか?
「この前俺が叩いたところ、まだ痛むのか?」
「手首は痛いままだよ。っていうかむしろ、昨日よりも悪化した気がしますね」
「悪かったな。手首の痛みで、何か困っていることがあるなら、遠慮なく言えよ。手伝ってやる」
「いいの?」
「ああ」
「何かあったかなぁ。……あ!」
ラティはカウンターの上に置いたボウルを見る。
「実は今とっても困ってたんだ。えーと、カウンターの上に置いているボウルの中に生クリームが入っているんだけど、泡立て器で泡立ててほしい」
「生クリームを泡立る? ケーキでも作っているのか?」
「残念ながらハズレですね。私が作っているのはバニラアイスなんだよ!」
「へぇ……。この喫茶店はアイスを出せるのか。王都の高級レストランだって置いてないところの方が多いのに」
「普段は出せないですよ。でも今日、常連さんに生クリームや卵をたくさんもらったから、それらが新鮮なうちに使い切ってしまいたいんです。バニラアイスを作ったなら、ちょうど良い消費になるかと思います」
「ふーん。バニラアイスはそれらの素材で作られてるのか。勉強になった」
「勉強? まぁ、ちょっとした雑談ネタにはなるか。クリームは六部立てくらいの泡だてで頼みますね!」
「六部? 何を言ってるのかさっぱり分からない」
「クリームの硬さの度合いです。ちょうど良い硬さになった時に、声をかけます」
「分かった」
フィルに嫌そうな顔をされるかと思っていたのに、そんなことはなかった。
スタスタとカウンターに向かって歩いて行き、ボールや泡立て器をしげしげと観察している。
一度、泡立てている様子を見てもらった方がいいかもしれないと思ったが、フィルはすんなりと正しい作業を開始した。
どこかで泡立ての様子を見たことがあるのかもしれない。
彼が泡立て作業をしている間に、ラティはスミレの砂糖漬けを作ることにした。
バニラアイスには卵黄しか使わないから、卵白が多量残ってしまう。
その点、スミレの砂糖漬けは卵白を使うから、余り物の処理方法としてはピッタリなのだ。
適切に保存したなら、一年は保存出来るから、たくさん作って卵白を使い切ってしまいたい。
卵白を軽く混ぜてからバニラエッセンスも加え、
––––––二人無言のまま十分ほど手を動かすが、良い香りが漂う中での単調な作業だから、眠くなる。
ついウトウトしてしまうラティだが、カウンターを挟んだ向かい側から聞こえてくる、カシャカシャと軽快な音のおかげで何とか眠らずに済んでいる。
それにしても、深夜だというのに元気な人だ。
普段から鍛えているからなのか、十分程度生クリームを泡だて続けているのに、腕を動かす速度は落ちない……、と思っていたのだが、唐突に止まった。
こちらを見下ろす目は
寝落ちしかけていたところを見られていたのかもしれない。
「お前って不思議な奴だよな」
「ん?」
「元々世界樹に暮らしていて、後から人間の世界に来たのか、それとも逆なのか気になってしょうがない」
「んー、そのどちらでもあるのかな。私はかなり昔はリスだったんです。でも悪さをしちゃって––––気難しい生き物達の仲をとりもつのに失敗した感じなんだけど……、その罰として人間界で生活することになったんだよ」
「人間の生活は罰なのか?」
「不自由が多いしね」
「それは常々感じているな」
「……脆弱な人間の体ではあるけれど、なんかアチコチふらふらしているうちに、世界樹に戻れちゃって、ここに住むのが正しいのかなーと、また世界樹の同じような場所に居着いちゃったんだよね」
「住もうと思えるのが、俺には理解できないけど……」
「そう?」
世界樹なんかで喫茶店を開いているのは、信頼関係が壊れた生き物達がそこで仲直りしてくれたら……という願いがあったりするけど、それについては言わないでおく。
(そのうち会いに行きたいな。凄く嫌そうな顔をされそうだけど)
夜空を見上げながら思い出に浸ると、再び向かい側から泡立て器を回転させる軽快な音が鳴る。
「生きた人間の中に、世界樹に辿り着いたことがある奴が存在していたとはな。冒険者ギルドに報告したなら、
「私の場合は、リスだった頃の記憶や能力の多くを持ったままだから、”人間”として世界樹に辿り着いたってことにはしない方がいい気がする。君が最初の人になればいい」
ラティがそう言うと、フィルは微妙な表情をしながらも頷いたのだった。
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