第21話 ぜんぜん聞いてはらへん

 そのとき、亜緒依あおいが振り向いて、肩越しに言った。

 「ところで、先生、なんか結婚する言うていきなり姿消したって聞きましたけど」

 いきなりそんなことを聞く。それも朱実あけみよりもれ馴れしい言いかたでだ。

 「ちょっと亜緒依!」

 朱実は慌てたがどうしようもない。この亜緒依という子はこういうところが油断できないのだ。

 「それ、だれに聞いたん?」

 ひな子先生が眉のあいだにしわを寄せて聞き返している。

 「うん?」

 亜緒依が空とぼけたように言う。

 「お向かいのおばさん。なんか町工場こうばみたいな」

 「ああ」

 ひな子先生が溜めていた吐息を一挙に吐き出すような声を立てた。緊張が緩んだようにも、絶望したようにも聞こえる。

 「税所さいしょさんのおばあちゃん。もう。うちから送ってもろうた夏みかんの箱持って、あいさつしに行って、留学です、一年留守にします、て言うたのに。ぜんぜん聞いてはらへん」

 ひな子先生は眉を寄せたまま朱実の少し後ろを歩いている。その表情が、まっ黒な髪と、そこに当てた明るいピンクのカチューシャとに映えて、美人に見えると思い、でも、いまそんなことを思ってはいけないと朱実は思い直した。

 「朱実ちゃんらにそんなことを言うてるんやったら、もっといろんなひとに同じことを言うてはるに決まってる。そんなんでみんないっぱい誤解してたらどうしょう?」

 言うてはるに決まってるよなぁ。

 ああいうおばさん言うか、おばあさんやったら。

 「ちょっと思うんですけど、先生」

 亜緒依が言う。

 亜緒依にとっては先生やないのに、ほんと馴れ馴れしい。

 そんなことを考えていたら、亜緒依が言うのを止める機会を逃した。

 「それ、あのおばさん、夏みかんもろうたんが嬉しぃて、そのあとの話聞いてはらへんかったんと違いますか?」

 「ああ」

 ひな子先生は大げさなほどに感心したような声を立てた。

 「そうかも知れへん。うちからは、親がここに住んでたころから、毎年、みかんあげてたみたいやから、ただ、毎年の夏みかん持って来ただけやと思わはったんかも知らん。でも、みかん渡したあとに、ちゃんと言うたのになあ」

 燃料店と向かいのよくわからない雑貨屋さんのあいだの道を渡る。

 朱実は、混乱のもとになったおばさんのいる町工場の二階を見てみた。でも、その窓はもうぴたっと雨戸が閉められていた。おばさんの姿は見えない。

 まだ空は明るいのに、と思ったけれど、見渡してみるとあたりはもう暗くなり始めていた。

 正月の日は短い。もう日は暮れてしまったのだろう。

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