ひまわりの花言葉

明太子

第1話

ひまわりの花言葉


——第一章・神様なんていない


 忘れもしない雨の日だった。濡れたアスファルトの臭い、車道を走る車の音、耳を刺す地面を打ちつける強い雨音あまおと、何故か鮮明に覚えている。二十九歳になる柏木祥太かしわぎしょうたは足早に病院へと向かう。悲しみや怒り等の感情はない。何も感じない不思議な感覚だった。


 いわゆる祥太は普通の人間だった。特にお金持ちの良家に生まれたわけではなく、波瀾万丈な人生を送っているわけでもなく。毎朝同じ時間に起き、食パンをトースターで焼く時間で歯を磨き、朝食を済ませ、満員の電車に揺られる。小さな町役場まちやくばに勤め、十七時には仕事終え、また満員の電車で帰宅する。週に一度、休み前の仕事終わりに一人で居酒屋に行く事を楽しみに生きる。そんな至って普通の人間だ。祥太はそんな毎日を幸せに思っていた。変わり映えのない日常を心から愛していたのだ。


 祥太は今日も町役場での仕事を終え、書類をまとめ、帰り支度をしていた。

「柏木さんお先です」同じ住民課で後輩の武内久雄は元気良くそう言うと同時に立ち上がり、デスクに足を引っ掛け、デスクの上に積まれた書類を床に散らしてしまった。

「なにやってんだよ」祥太は苦笑いを浮かべ、自身の帰り支度の手を止め、床に落ちた書類を拾うのを手伝い始めた。

「すみません、自分慌てん坊で」

「自覚があるなら落ち着いてやれ」一緒に散らばった書類を集めながら武内はニヤニヤと笑いながら口を開いた。

「柏木さんって女っ気ないですよね。今日この後看護師の合コンに行くんですけど一緒にどうですか?丁度男が一人来れなくなっちゃって困ってるんですよ」

「俺はな、あえて一人でいるんだよ。何もない平凡な日常を愛してるの」

「またまた……強がっちゃって。そんなこと言ってると婚期逃しますよ」武内はそう言うと顔をしかめてみせた。その瞬間、強い雷鳴音らいめいおんと同時にポツリポツリと雨が降り始めた。

「うわ。雨降ってきましたね」

「そうだな。強くなる前に早く帰らなきゃなっと。よし、もう落とすなよ」祥太はそう言うと拾い終えた書類を武内に渡した。

「ありがとうございます、では改めてお先です」スキップでその場を去る武内を見送り、自身の帰り支度の続きをしようとしたまさにその時だった。彼の携帯電話の着信が誰もいないオフィスに鳴り響いた。見覚えのない番号だった。

「はい。もしもし———」


 祥太は傘も刺さず走った。雨足はすっかり強くなっていた。体にあたる大きな雨粒が痛いと感じる程であった。タクシーで行った方が早いとか、スーツのジャケットがはためいて邪魔だとか。何も考えず走った。正しくは何も考えられなかった。病院に着いてから覚えていることは白い布に掛けられた三つの「何か」を見たことだった。現実味が無くそれをモノとしか捉えられなかったのだ。それ以降の記憶はあまり無い。


 この日、祥太は両親と妹の家族全員を失った。対向車のトラックの飲酒運転が原因だった。正面衝突で即死だった。慌ただしく葬儀を済ませ、彼には悲しむ時間すらも無かった。事故から半年が経った今も、彼には不思議と何の感情も無かった。怒りも悲しみも。あの雨の日を境に祥太は抜け殻のようになってしまった。町役場の仕事も自主退職し、今まで普通に出来ていた事が何もできない毎日。辛うじて生きてはいるという感覚だ。唯一やっていたのは近所の公園のベンチに腰掛け空を見上げる事だった。

「俺が何をしたって言うんだ。何もないただの日常を望んでいただけなのに」


——第二章・平凡な毎日を


 何も求めない。変化を嫌う。「普通」を願う。彼がそう強く思うようになった出来事は過去に遡る。


 十五歳、中学三年生の祥太は活発な少年だった。部活動ではキャプテンを務め、クラスでは学級委員を務め、面倒な事も率先して行う。特に部活動のサッカーをしている時間がとても大好きだった。また、曲がったことが嫌いで怠け者や不正を見かけると正義感から強く反発・抗議するような性格でもあった。


黒澤くろさわ。今日こそは言わせてもらうけどな、お前ランニング五周しかしてないだろ。俺たちは十周ちゃんと走り切ったぞ」

祥太は、副キャプテンで同じクラスの黒澤孝浩に強い口調で注意をした。黒澤は学校の周りを走る練習メニューの際、毎度道のわきにれ、走る本数を誤魔化していた。皆気付いていない訳ではない。しかし、十五歳の割に体格の良い黒澤を恐れていた。また、黒沢の父親は政治家でありPTA会長で、声を荒げて学校に乗り込んでくることも散見された。子供達ながらに身の危険を察知出来ていたのか、親にそう言われているのか。皆自分の安全・保身のために見て見ぬふりをしていた。

「だからなんだ。俺は効率が良いんだよ。大体こんな練習してもサッカーは上手くならねえんだよ」黒澤は大きな声をあげた。

「お前は副キャプテンだろ。皆の模範もはんであるべきだろ。士気しきが下がるからサボりはやめてくれ」おくさず祥太も大きな声をあげた。

「チッ。面倒臭えやつだな」捨て台詞ぜりふを吐きながら黒澤は不服そうに校舎の中の方へと歩いて行った。


 「今日から命の学習としてうさぎの飼育をこのクラスに担当してもらいます」唐突に担任教師の中村が話し始めた。中村はサッカー部の顧問監督も務める二十八歳の若手男性教師だ。

「可愛がってあげることもそうだし、いかにうさぎが過ごしやすい環境になるかを考え、実行する。そういったメリハリも大切にしてください」

この鶴の一声に生徒達は最初は皆戸惑ったが、すぐに受け入れうさぎを可愛がり始めた。うさぎの小屋は教室の外、校庭の隅に位置しており、皆休み時間の度に足を運んだ。しかし数ヶ月も経てば気が付けば祥太だけが継続して世話をしていた。学級委員としての責任感もそうだったが、何より彼にとってうさぎと接する時間は癒しになっていたからだ。無表情ながらも世話をしたらその分、愛情表現を一生懸命するうさぎに魅了みりょうされていた。

「ほら、人参だよ。今日も暑いね」

最初は警戒心で近付くだけで隅に逃げたうさぎが、今ではかがんだ膝の上に乗り人参を食べ始めている。祥太にはうさぎがニッコリとこちらを見て笑いかけているように見えた。いつもありがとう、と聞こえた気がした。

「失礼します。中村先生いらっしゃいますか?」

この日、祥太は職員室を訪れた。コーヒーの香りがふわっと広がり各教科の教師がデスクに向かう職員室は形容しがたい謎の緊張感がある。

「こちら今日の分の皆の提出物です」

「うん、回収ありがとう。うさぎは元気かな?」

「はい、とても元気です。少し暑そうにしていたので涼める場所を今日は作ってみました」

「それはいいね」

「はい、ありがとうございます。では……失礼します」どうも職員室が苦手な祥太は報告を済ませると足早にその場を後にした。

「中村くん。良いのかい?見たところ柏木くんしか世話をしてないように見えるが」隣のデスクの長谷川が話しかけた。長谷川は五十七歳のベテラン教師であり保護者等の苦情担当、学年主任でもある。

「良いんです。失敗することも勉強ですし最低限死なないように私が世話をしていますから」

「そうかい。まあ、君のクラスには黒澤さんの息子さんもいるしね。あまり強くは言えないよね」そう言われると中村は愛想笑いを浮かべた。


 「祥太はすごいな。サッカーも上手くて勉強も出来て」

真夏の猛暑日、ミンミンと騒がしいせみの声が響き渡るグラウンドの木陰こかげで、垂れ落ちる汗をぬぐいながらしばし休憩をしていた時、チームメイトで同じクラスの川上勇太が祥太に語りかけた。

「そうかな?」

「うん、すごいよ。何でそんなに頑張るんだ?」

「昨日の自分より今日の自分の方が強いってかっこいいじゃん。この前まで出来なかったダブルタッチが今日は出来る。練習した分だけ身になる。それが楽しいし嬉しいんだよ。サッカーが好きだからね」

「……そうなんだ」

「川上も毎日死ぬ気でちゃんと練習したら俺みたいになれるよ。勉強も同じさ」祥太はそう言いながら持っていたサッカーボールを蹴り、サッカーゴールの方までドリブルしながら走っていった。

「……俺だって毎日努力してるさ」

川上は苦虫にがむしを噛み潰したような顔でボソリと呟いた。彼はいわゆる虚弱体質で、思うように体が動かせないことがコンプレックスであった。

「川上。あいつ嫌味ったらしくてムカつくよな」すぐ近くで話を聞いていた黒澤が不意に現れ、川上に話しかけた。

「……そんなことないよ」

「あいつがキャプテンやってる理由知ってるか?先生に必死こいて媚び売ってるからだぞ。先生からしても従順で扱いやすいしな。学級委員とか言われておだてられててもやってる事はただの授業後の黒板消しと宿題集めだしな」

そう言いながら黒澤はニヤニヤと笑った。

「お前のことも才能の無いボンクラだってみんなに言いふらしてたぞ。だからレギュラーにもなれないんだってな。悔しく無いのか?」

「……」

「俺はああいう目立ちたがり屋が大嫌いなんだ。鼻につくからな。それより良い考えがあるんだけどさ——」

黒澤は悪魔のような表情でほくそ笑んだ。

「……!そ……そんなこと……出来ない」

「川上ぃ。社会を上手く生きていくコツはなあ、強いものには逆らわず、誰の目に止まることもなく、ただ流される事だって俺の親父が言ってたぞ。お前はどう生きるんだ?」

「……わかった」


 翌日、真夏の空調の効かない蒸し暑い体育館で急遽、学年集会が開かれた。何故集められたか分からないが学年全員が集められる会なんてほぼ開かれないことと、教員達の険しい表情を見てなんとなくではあるがその場の全員が只事ただごとでは無いのだろうと察していた。張り詰めた重い空気の中、学年主任の長谷川が口を開いた。

「今朝、うさぎがおりの中で死んでいた。生きとし生けるもの死んでしまう事は勿論あるだろう。ただ、毒の餌を食べさせられた形跡があった。これは悪ふざけでは決して済まない問題だ。犯人は正直に名乗り出なさい」

なんとなくで察していた生徒達であったが、あまりに予想外の内容に体育館がざわつき始めた。数分のざわつきのあと後方で手が挙がったのが見えた。

「柏木君が変なものをうさぎに与えているのを見ました」

黒澤の妙に落ち着いた声が体育館に響いた。さっきまでのざわつきが嘘のように静まり返り、外から聞こえる蝉の声だけが体育館に響いていた。祥太は衝撃で声が出なかった。

「川上君とランニングをしている時に見かけました。間違いありません」

「……川上君、どうなんだ?」

長谷川が問いかけた。祥太は川上と目が合った。川上は酷く汗をかき、目は泳いでいた。しばらくの沈黙の後、川上は目線を外し重い口を開いた。

「……はい。……間違いありません」そう答えた瞬間、川上は昨日の黒澤の言葉が頭の中で再生された。


『それより良い考えがあるんだけどさ、仕返しにあいつがバカみたいに手をかけてるうさぎを毒で殺してやろうぜ。教員達は複数人で見たと言った瞬間信じるからな、お前は証人になってくれればそれでいい。あいつのカバンに毒の餌も突っ込んでおけば証拠にもなるだろう』


 黒澤は無表情で冷静に淡々たんたんと語り始めた。

「今朝の犯行ならまだ毒の餌を持っているかもしれませんよ。柏木君の鞄の中身も検査した方がいいと思います」


 それからどれくらい時間が経っただろう。勿論弁明はしたが、黒澤、川上以外にも四名程祥太が毒餌どくえを与えているのを見たと話す生徒が現れた点、祥太の鞄の中から見覚えの無い毒餌らしきタブレット状の物が出てきた点から教員達に話を聞いてはもらえなかった。気付いた頃に見えたのは祥太の母親が泣きながら教員達に頭を下げる光景だった。母親は車で来ていてその日はそのまま車で帰ることになった。帰り道の車内でしばらく会話は無かった。祥太が震えた声で沈黙を破った。

「……お母さん。俺はやってないよ」

「うん。分かってるよ」

「じゃあなんで……」

「ずっと言おうと思ってたんだけどね。キャプテンだったり学級委員だったり、強い正義感だったりね。祥太の良いところなんだけどお母さんは祥太には普通になってほしかった。正しくなくてもいいから、目立たず普通に生きてほしい。お願い」母親の目は涙で光っていた。


——「普通」に生きていれば誰からも嫌われないのか。

——「普通」に生きていれば愛した物を失わないのか。

——「普通」に生きていれば誰も悲しませないのか。


 気が付いたら周りに何もない真っ暗な闇の中にいた。手にはスコップを持ち、足元には泡を吹き死んだうさぎの亡骸なきがらがあった。冷たくて硬直していた。

「……せめて自分で埋葬しなさいって言われたんだっけ」

頭がボーっとし酷く痛む。上手く手に力が入らない。地面に穴を掘ろうとその場に屈んだ。その瞬間、けたたましい爆音と同時にうさぎの亡骸が血の涙を流し、青白く発光し宙に浮かんだ。

「オマエガ……イナケレバ……オマエノ……セイデ……オマエノ!!」

 祥太は叫び声を上げ目を覚ました。寝具が寝汗でぐっしょりと湿っていた。今でもたまにこの夢を見る。その度、再度強く思うのだ。平凡な毎日を送ろうと。


——第三章・太陽に包まれて


 ジリリリと朝の八時に目覚まし時計の音が無機質な寝室に鳴り響く。仕事を辞めた祥太にとって毎朝定刻に起床する必要は全く無い。特に何かをする訳でもない。ただ、理由も目的もなく八時に起きている。大学を出て町役場に勤め始めてから一人暮らしをしているが、事故以来、祖父母がひと月に一度段ボールで食料品や日用品を送ってくる。もう必要ないと伝えても欠かす事なく送ってくる。祖父母なりに心配してくれているのだろう。


 あの日から一年が経った。相変わらず無気力で抜け殻のような状態は続いているが、ゆっくりと家族全員を失った実感・悲しみと唯一生き残ったトラック運転手への怒りと憎悪ぞうおが湧いてきた。トラック運転手は筧宏樹かけいひろきといった。事故当時四十九歳、現在は五十歳だ。飲酒運転は初犯ではなく二回目だったという。現在服役中でたったの十五年の判決であった。祥太から文字通り全てを奪った悪魔があと十数年でまた普通の生活を送るのだ。


 時刻は午前十時。雲一つ無い気持ちのいい青空の日だ。段ボールの中の菓子パンを適当に手に取り食べ終えた祥太は今日も近場の公園へと部屋着のままで足を運び、ベンチに腰掛けた。この公園には赤いシーソーとびたブランコが設置され、至って普通ではあるが、季節の花が植えられ、それをカラフルなレンガでアーチ状にかこった花壇かだんがあった。この時期には数本のひまわりが咲いていた。祥太は出来るだけ何も考えず空を眺めた。ほんの一瞬だけ山積みのストレスから解放され楽な気持ちになる気がするからだ。


 公園へ入ってくる一人の女性が目に入った。午前十時三十分。この時間帯のこの公園に人がいる事自体物珍しかった。正確にはいつもチラホラ利用者はいたのかもしれないが彼が他者を認識したのは初めてであった。事故から一年が経ち、ほんの少しだけ心に余裕が出来たからなのか。とにかく初めてだったのだ。公園に一人の人間が通る、ただそれだけの事だったのに彼にとっては妙に印象的な出来事だったし、この女性の事が気になった。無意識に目で追ってしまっていたからなのかその女性と目が合った。平日の朝に部屋着のまま浮かない表情でベンチに腰掛ける無精髭ぶしょうひげを生やした男。俯瞰ふかん的に見たらさぞ不気味な光景だった事だろう。しかし、女性は嫌な顔一つせず満面の笑みでニコッと微笑ほほえみ返した。

(あぁ……眩しいな)

祥太は心の中でそう呟いた。この人は自分とは対極の存在だ。きっと何一つとして悩みもないのであろう。快晴の朝、公園に降り注ぐ直射日光よりも眩しいその女性の存在自体に、祥太はねたみや羨望せんぼうに近い感情を抱いた。それと同時に通り過ぎてしまう事を寂しく思う不思議な感覚もあった。

「いつもここにいますね」

祥太は一瞬何が起こったのかが理解出来なかった。

「私もよく来るんですよここ。今日みたいな晴れた日の公園って気持ちが良いんですよね。」

お花も綺麗だし、と彼女は付け足した。

祥太はベンチに腰掛けたままあたりを見回した。誰もいなかった。まぎれもなくこの女性は祥太に話しかけていた。

「隣座っても良いですか?」

「あぁ……はい……」一年間久しく人と話さなかったからなのか、蚊の鳴くような声でやっと返答した。

「私、伊佐坂莉子いささかりこ。あなたは?」

「か……柏木祥太…」

近くでよく見ると容姿も驚くほどに整った女性だった。透き通る真っ白な肌に細くて長い手脚。薄いグレーのギンガムチェックのワンピースを着て、真っ黒でつやのある長い髪。何よりずっと口角こうかくが上がっており、直視出来ない程の眩しい笑顔からは気品きひんと自信が満ち溢れていた。

「何か嫌な事があったんだよね、わかるよ。私たち今から友達ね。私に出来る事があったら何でもするから言ってね」

そう言うと莉子はベンチから立ち上がり、ゆっくりと公園の外へと歩いて行った。視界から外れる曲がり角で立ち止まると、こちらの方へ振り向き、相変わらず眩しい笑顔のまま、細くて長い腕を大きく振って帰っていった。一瞬の出来事だった。不思議な女性だった。気付けば、妬みや羨望の感情はすっかり無くなっており、絶望でどすぐろにごり切った心が洗われていくような心地いい感覚だけを覚えた。


 あの出会いから祥太の生活はガラリと変わった。伸び切った髭を剃り、美容院で髪を整え、ちゃんとした外行きの服に袖を通し、毎朝明確な目的を持って公園へと出向いた。莉子はいつも同じ時間に現れて、他愛もない会話をした。たくさん会っていくうちに色々なことを知れた。莉子は今年で二十六歳になる事。ポジティブで前向きな男性にかれるという事。怖いくらいに趣味や話が合う事。


 莉子は祥太の悩みの理由を無理に聞こうとはしてこなかった。それも逆に心地良かった。莉子に会うと自然と笑顔になった。まるで今までの自分の境遇が無かったことになったかのように何も気にならなくなった。莉子は決まって雨の日だけは現れなかった。気圧の変化で上手く笑えないから雨は嫌いだと言う。そんな事もあるだろうと祥太は気にもめなかった。莉子に会えない日は今まで以上により辛く、より寂しく、より苦しい思いをするようになっていた。気怠けだるくなり、食事も喉を通らず、熱が出る時もあるほどだった。ただ、どんなに辛い状況でも、また晴れた日に彼女の顔を一目ひとめ見れただけで、すぐに不安や胸の痛みは消えて薄れていった。いつしか祥太はこの眩しくて暖かい太陽のような光に永遠に包まれていたいと考えるようになった。もう「普通」で平凡な日常に戻りたくなかったし、戻れなくなっていたのだ。


 ある日、祥太と莉子は街中のカフェにいた。アイスココアを飲みながらいつものようにしばし談笑をした後、祥太は真剣な眼差まなざしを莉子に向け、口を開いた。

「実は俺、一年半ほど前に交通事故で家族を全員亡くしたんだ。本当に人生に絶望していた。そんな時君が現れて俺を救ってくれたんだ」

莉子は急に眉をひそめ険しい表情を浮かべた。今までに見たことのない表情だった。祥太は少し気になったが今日こそ思いを伝えるんだと強い意志を持っていたので続けた。

「もう莉子がいないと俺は俺らしく生きていけない。これからもずっと、永遠に、俺のそばでただ笑っていてほしい」

そう言い終えた瞬間、さっきまで晴れていた空が嘘のように曇り始め、ポツポツと雨が降り始めた。

「……告白、だよね?少し考えさせて」

莉子はか弱い声でそう言うと、財布からココア代には少し多い千円札を一枚取り出して机に置き、足早に店を後にした。少し声が震えていたような気がした。


 彼女はその日以来、連絡も付かず、晴れた日も公園には現れなかった。


——最終章・あなただけを見つめる


 祥太は自分を責め続けた。莉子と出会ってからの全ての行動を悔い続ける毎日を過ごしていた。

「……なんだよ傍で笑っていてほしいって。自分のことだけじゃねえかよ」

莉子の眉をひそめた険しい表情も嫌に胸に残り、毎日のようにフラッシュバックした。あの瞬間、絶対に何かを感じていたのだ。悩みのない人間なんているはずがない。そんな当たり前のことを今更ながら感じ、自分の言動を恥じた。

 もしまた初めて出会った瞬間に戻れたなら今度は上手く出来るだろうか。本当の意味で相手に寄り添った行動が出来るだろうか。そもそも俺は恋愛なんてしていい人間なんだろうか。お前には何も誇れるところが無いだろう。結局はまた自分のことばかりで、救ってもらいたいだけなんじゃないのか。——終わりのない自問自答を繰り返す。

「……せめて。謝りたいな」

 祥太はまた晴れの日も雨の日も公園に向かった。


 この日は激しい雨が降っていた。

「1027番。面会人だ」看守のドスの効いた低い声が冷たいコンクリート壁を反射して響き渡る。筧はゆっくりと面会室へ向かい座椅子へと腰掛けた。

「莉子。今日も来てくれたんだな」

「あなたが雨の日は面会に来てくれって決めたんでしょ」

「そうだったなあ」筧はそう言ってひとしきり笑うと急に寂しそうな顔をして口を開いた。

「俺は人をあやめてしまっている。三人もだ。あれだけお前にやめろと言われた酒が原因でな。刑務所を出れたとしてもまだ十年以上かかる。ロクな仕事にも就けないだろう。お前はまだ若い。もう今日で面会も来なくていいから自由に生きろ」

莉子はしばらく沈黙した後、パッと笑顔になり話し始めた。

「私は何があってもあなたの事を愛してる。困った時は助けてあげるって約束したでしょ。私だけはあなたの味方でいてあげるから」

 莉子は面会を終え、刑務所の外に出た。雨は止んでおり日差しが差し、路肩の草木に乗った雨露あめつゆが反射してキラキラと輝いていた。携帯電話で時刻を確認すると午前十時だった。


 五年前、莉子は一人でひまわり畑にいた。明るい彼女の周りには自然と人が集まり、友人も多かったが、他人にありのままの自分を見せることに何となくの苦手意識があった。無理をしている訳ではないし、友人との時間も楽しく感じていたが、たまにこうして一人で花を見る時間もまた好きだった。

「君、一人か?」当時、四十五歳の筧が唐突に話しかけた。

「えっ……はい」

莉子は急に話しかけられ驚いたが、すぐにパッと口角を上げ笑顔を作った。普段から街を歩くとナンパやらのたぐいは良くある事で扱いには慣れていたのだ。こう言う時、下手に無視をしたり冷たくあしらったりすると相手はムキになり、変に固執し、酷いと罵声ばせいを浴びせられ嫌な気持ちになるから、ある程度は対応した方が良いという持論まであった。

「ごめんな急に話しかけて。娘に似てたもんでついな……」筧は優しく微笑んだ。

 筧は中肉中背でいわゆる普通の中年男性だ。清潔感はあり、半袖の淡いブルーのワイシャツから見えた腕は少し筋肉質だった。目尻のしわが印象的で笑うとしわがキュッと集まる。普段からナンパ等をするようなタイプにはとても見えなく、きっと勇気を出して声をかけたのだろう。逆に、それが莉子の警戒心を少し緩和させた。

「娘さん……亡くなったんですか?」

「まさか。俺の酒癖の悪さが原因でな、少し前から家族と別居中なんだ」

 莉子の父親は物心付く前に病気で他界している。無意識に父性ふせいを求めていたのか、落ち着きのある低い声色こわいろが心地良かったのか。もしかしたら、理由や理屈なんて無かったのかもしれない。とにかくこの一瞬のやりとりで莉子は二回ふたまわり以上歳の離れた筧に少しだけ興味を持った。

 風が吹き、ひまわり畑がユラユラと揺れる。ひまわりは太陽を追うように咲く向日性こうじつせいの植物である。ただただ真っ直ぐに、太陽だけを見て強くうるわしく咲く。

 

 筧と出会ってから四年ほど経過した。気付けば莉子は筧の家に入り浸っていた。俗に言う不倫関係になっていたのだ。恋愛だとかそういった感覚とは少し違った。ただ、筧のことが妙に心配になったりと、とにかく気になるのだ。また、筧と過ごす時間だけは素直でありのままの自分でいられた。疲れないし、気を遣わない二人の時間が心地良かった。

 筧は前向きで明るい性格をしていた。他人のことを決して悪くは言わずどんな時でも楽観的思考だった。しかし、筧は酒を飲むと人が変わったようになってしまう一面があった。攻撃的になり、大声を上げ、支離滅裂なことを口にする。体質的に酒が弱いのかひとしきり暴れると糸が切れたように眠るということも多々あった。莉子はそんな筧の駄目なところを見て、嫌うどころか、私が何とかしてあげなくては、という感情になっていた。筧も自覚はあり、莉子の前で酒を飲むことはほとんど無かった。

「もう家族と別居してかなり経つでしょ。寂しくないの?」

「お前が一緒にいてくれるから平気だ」

「……離婚の話は出ないの?」

「俺から提案する事じゃないしな。きっと色々考えてのことだろう。なんとかなるさ」筧は顔をしわくちゃにして笑いながら話した。机の上の麦茶を一気に飲み干し、筧はまた口を開いた。

「莉子。愛してる」

「うん。私も。あなたといると本当の自分でいられる気がする。この先、家族の事とか、あなたに何があったとしても私が助けてあげるから」

「あっはっは。それは頼もしいな」筧は嬉しそうに笑った。少しの沈黙の後、二人は見つめ合い熱い口付けを交わした。


 激しかった雨の音が止んだ。祥太は目覚まし時計を鳴らすより前に目覚め、寝室の窓を開けた。雨上がりにも関わらずカラッとした不思議な風が寝室の中に吹き込んできた。祥太は支度を済ませ、今日もいつもの公園へと足を運んだ。地面には無数の水溜りがあり真っ青な空を映していた。湿しめったベンチへと腰掛け、いつものように空を眺めた。今日だけは何故か不思議と何も考えないでいられた。ただ空を眺め、風を感じては、目を閉じて自然の匂いを嗅ぎ深呼吸をした。

「……祥太」

聞き覚えのある声が聞こえた。ゆっくりと目をあけ、視線を落とすとそこには莉子がいた。名前を呼ばれただけだ。ただそれだけなのに涙が溢れてとまらなかった。悲しいからでも嬉しいからでも無く、自然と涙が出ていたのだ。

「……莉子。ごめ——」

「ごめんなさい」

祥太の言葉を遮るように莉子が芯のある強い声を発した。そこにいつもの眩しい笑顔はない。真剣で力のある眼差し、強い意志と覚悟を持った人間の顔つきだった。

「祥太と初めて会ったあの頃、私も人生に絶望してた。大切な人が事故で人を殺めてしまって捕まってしまったから」

祥太は言葉を失った。一瞬で脳内に最悪の展開が駆け巡った。そんなはずはない、たまたま似た境遇の被害者と加害者だ。

「最初はまさかと思ったよ。まさか祥太が被害者の遺族だったなんて」


 莉子は祥太に筧との関係を全て話した。

「私もすごく悩んでた。どうしたらいいか分からなかった。急に一人ぼっちになってしまったみたいで寂しかった。でもね、この公園の花を見ると少し心が落ち着くの。通ってるうちに毎回ベンチに座ってる祥太を見つけた。なんでか分からないけど一瞬で同じ気持ちなんだろうなって思った。友達になって話を聞いてほしかった」

祥太はしばらく一点を見つめピクリとも動かなかった。ドクドクと体の中で脈打つ鼓動の音だけが聞こえた。自分を地獄の底から救ってくれた人が、自分から家族を奪い、地獄の底に突き落とした悪魔を愛していたのだ。血の気が引き、強張こわばった表情のまま祥太は震えた声で話し始めた。

「俺は今まで自分のことしか考えてなかった。もしまた会えたらその事を謝りたかったんだ。その上でこれからは莉子の幸せを一番に考えようと……そう決心した」

そう言い終えると祥太はベンチか立ち上がった。

「でもそいつは人を殺した悪魔だ。ましてや不倫関係なんだろ。俺の方が莉子のことを大切に思ってる。その男とは絶対に幸せになれな——」

「祥太に何がわかるの」莉子は大きな声で祥太の言葉を遮った。目からは大粒の涙が溢れていた。

「事故を起こしたって知った時私は心から思った。死んだのが彼じゃなくて良かったって」祥太は地面に膝から崩れ落ちた。

「幸せって誰が決めるの。正しいとか正しくないって誰が決めるの。私はこれからも私らしくいたい」

祥太は何も言えなかった。直後、今までの莉子との他愛もないやりとりが走馬灯のように脳内を駆け巡った。言葉の節々に優しさと思いやりがある。今思い出しても幸せで暖かい。あれは嘘だったのか。演技だったのか。いや違う。

 祥太は再び立ち上がると膝についた泥を手で払った。真っ直ぐに莉子の目を見つめ、強張った表情をすこし緩めてみせた。

「莉子は優しい人だ。今だって俺のために……わざと強い言葉を使ってるんだろ」

「……」

「莉子がもし今のそいつと同じ立場になったとしたら俺も同じ行動を取るだろうな。理由や善悪なんて考えないよな。愛してるんだから」

莉子は声を出さなかった。ただ、彼の目を見ていた。

「……筧を……支えてやってくれ」

しばらくの葛藤の末、絞り出したような声で祥太がそう言うと、莉子は黙ったままゆっくりと頷いた。その後彼女は目線を外し、一度も振り返る事なくその場を去っていった。祥太は見えなくなるまで涙でにじんだ彼女の後ろ姿を見つめていた。


 もう三月になるというのにまだ風は冷たい。祥太はコートのポケットに両手を突っ込み、とある場所へと向かっていた。歩きながら莉子のことを思い出していた。あれから二年ほどの月日が経ったが、また彼女とは一切会えなくなったし連絡も返ってこなかった。

 何も行動を起こさず、「普通」や平凡を求めていたら今でもまだ気の合う友達のままいれたのか、自分から家族を奪った筧の事を支えてやってくれと伝えた事はやはり間違っていたのではないだろうか、等ということは今まで嫌というほど考えた。たとえ自分は満たされなくても愛する人の幸せをただ願うことが正しいのか。それは自分らしさを殺してまですべきことなのか。どれだけ長い時間考えても答えはいまだに分からない。

 二十分ほど歩くと墓地に着いた。家族全員が埋葬されている場所だ。祥太は線香にライターで火をけ、家族が眠る墓石の香炉こうろに差した。定期的に祖父母が来ていたのだろう。マメに手入れがされた綺麗な墓だ。墓の両脇には三月という時期にも関わらず生き生きとしたひまわりが献花されていた。

「……もう。……疲れたよ」

そうボソッと呟いた時、季節外れの雪が降り始めた。水分を多く含んだ大粒の雪だった。一粒の雪が献花されたひまわりの上に落ちた。雪はすぐに溶け、花びらが一枚、まるで涙を流したかのように地面にポトリと落ちた。  

                    ——完——

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