第10話 臨終と誕生

 リュシアンはいつもの時間に王宮に到着すると、すぐにアドリアンの執務室に向かった。


 だが、今日はいつも先に来ているはずのアドリアンの姿はなかった。


「おかしいな。アドリアンはまだ来て居ないのか?」 


 ちょうど書類を届けに来た文官に尋ねると、彼も不思議そうに首をかしげた。


「珍しいですね。特に遅れるとは聞いていないんですが…」


 そう言いながら文官は書類をアドリアンの机の上に置くとそのまま退室していった。


 リュシアンはしばらく待っていたが妙な胸騒ぎを覚えてアドリアンの私室へと向かった。


 部屋の扉の前に立っている護衛騎士がリュシアンに気付いて挨拶をしてくる。


「アドリアンはいるか?」


「先程アンジェリック様が入って行かれましたので少々お待ちください」 


 護衛騎士には止められたが、どうにも不安が拭えないリュシアンは護衛騎士の静止を振り切って扉を開けた。


 リュシアンの目に真っ先に飛び込んで来たのは、返り血を浴びて呆然としているアンジェリックだった。


 その手には一振りの短剣が握られ、その先端からは今にも血が滴り落ちようとしていた。


 アンジェリックの足元に倒れているのが誰であるのか気付いたリュシアンは急いでその人物の元に駆け寄る。


「アドリアン! しっかりしろ!」


 倒れているアドリアンを抱き起こしたが、その胸は真っ赤な血で濡れていた。


 リュシアンは慌ててアドリアンにヒールをかけるが、回復魔法が得意ではないリュシアンにとっては焼け石に水だった。


「誰か、エクストラヒールをかけられる者を呼べ! それからアンジェリック様を拘束しろ!」


 リュシアンの指示により、アンジェリックは護衛騎士に拘束されたが、依然としてその目の焦点は合っていなかった。


 別の護衛騎士が慌てて魔術団の詰め所に走って行く。


「アドリアン! しっかりしろ!」

 

 リュシアンが必死でヒールをかけるが、アドリアンの傷が塞がる事はなかった。


 リュシアンの呼びかけに目を閉じていたアドリアンが薄っすらと目を開けた。


「アドリアン。今、魔術師が来るからな! すぐに傷を塞いでもらえるぞ」


 リュシアンが必死で呼びかける中、アドリアンは何かを訴えるように口を動かした。


「何て言ったんだ?」


 リュシアンがアドリアンの口元に耳を近付けると、かすかな声が聞こえた。


「リュシ…アン… あの子を…頼む…」


 「あの子」が誰を指すのかをわかっているリュシアンは、更に呼びかけた。


「お前が名前を付けてくれるんだろう? 一緒に成長を見守るって約束したじゃないか」


 アドリアンはその言葉にかすかに微笑んだが、それには諦めが混ざっていた。


「…ごめん… やくそく…まもれな…い…」


 アドリアンの口から一筋の赤い血がこぼれる。


「駄目だ、アドリアン」


 アドリアンは唇の動きだけで「愛してる」と告げると、ゆっくりと目を閉じた。


「アドリアン! アドリアン!」


 リュシアンが呼びかける中、ようやく魔術師が到着したが、アドリアンの様子を見るなり、首を横に振った。


「残念ですが、お亡くなりになられています」


「嘘だ! まだこんなにアドリアンの体は温かいじゃないか! 早くヒールをかけてやってくれ!」 


 リュシアンの訴えにも魔術師は辛そうに首を振るだけだった。


 リュシアンはただ冷たくなっていくアドリアンの体を抱き締めているだけだった。



 ******


 リュシアンが王宮に出かけた後、大きなお腹を抱えて義母の執務室に向かった。


「おはよう、ヴァネッサ。いつ生まれてもおかしくはないのだから無理しなくて良いのよ」


「おはようございます、お義母様。部屋でじっとしているのも退屈ですので…」


 そして机に向かい、いつものように仕事をしている時だった。


 王宮から緊急の使者がやってきた。


「ご報告いたします。先程、王太子アドリアン様が亡くなられました。したがって宰相閣下とリュシアン様は本日は王宮に泊まられるそうです」


 読み上げた書簡を義母に手渡すと使者は帰って行ったが、その知らせに私はポカンとしてしまった。


 …アドリアンが、死んだ?


 聞こえた言葉を頭が理解するのを拒否している。


 書簡を確かめようと立ち上がった途端、内股を何か温かい水が伝い落ちた。


「まあ、ヴァネッサ。破水したのね!」


 義母は急いで侍女を呼ぶと、私の出産の準備を始めた。


 私は出産の為に整えられた部屋に連れて行かれ、医者が呼ばれた。


 アドリアンの死を受け入れる間もなく出産が始まり、私は男の子を産み落とした。

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