第4話

「だからびっくりしたよ。君のほうからエアコンを見に行こうって言い出すなんて」

 彼女にとってエアコン売り場は楽しい場所じゃない。むしろトラウマだらけの近づきたくもない場所のはずだ。

 同棲を機にあのときの店からは遠く離れた場所に引っ越したけれど、その程度で治るような傷ではないだろう。

 現に今も、彼女は僕の手を離そうとしない。

「ごめんなさい」

 妻はくるりと振り返って頭を下げた。白いつむじがこちらを向く。

「エアコンを探してるっていうのは嘘なの」

「そうだったんだ」

「人のボケにツッコんだりスベったときにフォローしたり、ちょっと小腹が空いたときにそっとあたたかいお茶漬けを出してくれるエアコンなんて本当にあると思う?」

「お母さん設定が増えてる」

 エアコンにそんな気の利いたことはできない。それを為すのはAIではなく愛だ。

「正直、信じてなかった。もうきっとあの日のことなんか憶えてないって思ってた」

 だから思い出して欲しかったの。妻はそう言ってからもう一度謝った。

 別に怒ってはいない。むしろ彼女の信用を取り戻せてほっとしているくらいだ。

 でも、気にはなった。

「なんでそんなこと」

「幸せだから」

 彼女は簡潔に答える。

「今がとっても幸せで、それが薄れていくのがとっても怖いから」

 そう言って僕の存在を確かめるように、繋ぐ手に力を込めた。

「私たちの出会いは誰がどう見ても劇的だったと思うのよね」

「僕にとっては半分黒歴史なんですが」

「私にとっては白エアコンの王子様よ」

「まったく嬉しくないのはどうしてなんだろう」

 しかしまあ劇的と言われればそうなのかもしれなかった。

 僕のようなひょろい男が自分よりも大柄な男に正面から立ちはだかり美女を守り抜いたと見えなくもない。方法はさておき。

「そんな出会い方をした大人の男女がその後幸せな結婚に至ることくらい大体の人が想像できるでしょ」

「まあドラマとかではそうなるだろうな」

「じゃあその後は?」

「その後?」

 その問いかけの意味がわからず僕は妻の顔を見た。

 彼女もこちらをじっと見つめている。丸く光を湛えた瞳は吸い込まれそうなほど綺麗だ。

「ところで私ってめちゃくちゃ美人よね」

「急にどうした」

「本人が目の前でここまでハッキリ言っちゃっても正面から否定できないくらいには私は美しいのよ」

「どうにか君に静音モードを搭載できないかな」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる妻は「けどね」とその笑顔を消した。

「あと二十年もすればこの美しさも無くなるわよ」

 彼女はそんな言葉を放った。そこに悲哀はなく、ただそうである事実を述べるだけの事務的な声音。

 時間とは残酷だ。

 どんなに艶やかな美貌も、鮮やかな思い出も少しずつ薄れていってしまう。

「でも私、抗いたいの。できるだけ長く美しくありたいと思うし、できるだけ長くあなたと仲良し夫婦でいたいのよ。だから思い出してほしかった」

 私がいいエアコンに出会ったあの日のことを。

 妻の声が耳に届いて、脳に響いた。

 だから今日なのか、と僕は思い至る。三年目の結婚記念日を迎えて、彼女はふと時間を意識し始めたのだ。

 この幸せはいつまで続くのか。あの思い出の賞味期限はいつ頃なのか。

「……ふふふ」

「なんでちょっと笑ってるのよ」

「あーはっはっは!」

「なんで魔王っぽく笑ってるのよ」

 ……嬉しいな。とっても嬉しい。

「僕の幸福センサーを舐めてもらっちゃ困るね」

 眉間に皺を寄せている表情すらも素敵な自分の妻を見る。

 ずっと幸せだったのが僕だけじゃなくて、本当に嬉しい。

「確かに僕たちはドラマチックに出会って幸せな結婚をした。あの日のことは特別で、できればずっと憶えていたいと思うよ」

 いい思い出とは言い切れなくても、それでも僕たちにとってかけがえのない日だ。いつか薄れていくと思うと残念で仕方ない。

 でも。

「でも、僕は今日のことも憶えていたいと思うんだ」

 結婚して三年が経っても、二人で手を繋いでスキップをする。

 早足で歩く君と喋りながら、エアコンコーナーをぐるぐると回る。

 デートでも何でもない近所の家電量販店に行くだけが、こんなにも幸せだ。

「それでこれからも憶えていたい日がどんどん増えていくんだよ。それに押し出されて古い記憶を失くすのは残念だけどさ」

 決してあの日だけが、今の幸せを形作ってるわけじゃない。

 たとえ特別な思い出が薄れても、また新しい特別な時間が上塗りしてくれる。そうやって僕たちの幸福は常に更新されていくのだ。

 時間は残酷だけど、希望でもある。

「さっきの質問に答えるね」

 手を繋いだまま、妻の目をじっと見つめる。

 その表情はあの日とまるで変わってなくて僕はまた少し笑ってしまった。

「劇的な出会い方をした大人の男女は、幸せな結婚に至ったその後も、なんだかんだ普通に楽しく暮らしてると僕は思うよ」

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