あなたの目を見て謝りたい
不璽王
あなたの目を見て謝りたい
人ッ橋
お天道様に顔向けできる生き方をしないとね、と六十九歳のひいおばあちゃんは言った。
イジメくらい楽しいものはないね、と三十歳のお母さんは言った。
アタシは今、お天道様に顔向けできるイジメをしていて、ものすごく楽しい。
今まで生きてきて、一番楽しいかもしれない。
赤いランドセルを弾ませて教室にたどり着く。開けっぱなしのドアから、クラス中に響く声で「おはよー!」と挨拶をする。
挨拶は大事だ。挨拶は相手を人として扱っている証拠だ、とお父さんが言っていた。お父さんがお母さんに挨拶しているところを、アタシは見たことがない。だからアタシは、挨拶が大事だと知っている。
教室のあちこちから「人ッ橋さんおはよー」と挨拶が返ってくる。アタシはニコニコしながら自分の席に歩いて行く。その席の隣には、五丹田さんが座っている。サイドで結んだ髪がロールしている、ふくよかでかわいらしい女の子だ。アタシは五丹田さんの前を通るのが楽しみで仕方がない。
まっすぐ歩く。五丹田さんがこっちを見る。口をOの形に開いて、アタシに挨拶しようとする。タイミングを見計らっていたアタシは、絶妙な間でプイッと顔を逸らす。
横目で確認すると、五丹田さんは開いた口を閉じ直してうつむいている。ダメだ、無表情でないといけないのに、楽しすぎてにやけてしまう。ほっぺたがヒクヒクして恥ずかしいくらいだ。席について、すでに無視を済ませたであろう三多香とくすくす笑い合う。なんて素敵なスクールライフだろう。こんなの毎日もらえる登校ログインボーナスだ。クラスメイトを無視して楽しんでいいなんて。
三時間目の社会の授業は、グループ学習だ。アタシ、東二錠さん、三多香の順番で、情報室のパソコンで調べたゴミの処分方法を発表していく。可燃・不燃・ビンカン・資源・粗大。ノートにまとめた内容を、三人で全て読み終わる。五丹田さんの読む分は残さない。そういう手筈だ。ぬかりなく。
三多香の音読が終わり、教室に沈黙が流れる。
「……どうしました? 五丹田さん、続きを読んでください」
先生に促されて、五丹田さんが起立する。そして一言。
「以上で発表を終わります」
ちっ、と心の中で舌打ちをする。うまいこと頭が回るやつだ。発表することがないんだから、黙って立ち尽くすしかないだろうと思ったのに。
「はい、とてもよくまとめられていました。でも次は、五丹田さんも調べた内容を発表できるようにしてくださいね。じゃあ次のグループ」
ふーん。とアタシは思う。東二錠さんと三多香も多分同じ気持ちだ。五丹田さんもそうかもしれない。先生、これくらいだと軽く流すんだ。
じゃあ、もっと派手に。先生が無視できないくらいに、五丹田さんを無視してあげないと。
東二錠
昨日までとは大きく変わった教室で、それでも五丹田さんは昨日と同じように「おはよう東二錠さん」と挨拶をしてくれる。私にはその声を聞くことができない。何も見ていないかのごとく、まっすぐ進む。進路にいた五丹田さんは私を避けきれず、肩同士がぶつかりあう。不意をくらってよろけた五丹田さんは、机の角で腰をうち「いたっ」と声をあげる。私はそれも、当然無視。
ふくよかな五丹田さんにぶつかった反動で、私も肩がジンジンする。けど、そんなことは悟らせないようクールに、無表情に自分の席に座る。背中の中ほどまで伸ばしたサラサラの黒髪を、見せびらかすように(もちろん、見せびらかしているのだ)手で滑らかに払って椅子の背面に回す。同じ班のポニーテールの人ッ橋さん、ショートの三多香さんとはいつも通りに挨拶を交わし、先生がホームルームの号令をかけるのを待つ。
チャイムが鳴り、先生がその大きな手を教卓に付く。
「教師と言えば?」
「親も同然!」
茶番だ。クラス替えで今の先生になってから、ずっと耐え難い茶番に付き合わせられている。
辛い。
何気ない顔で過ごしているが、私はこの時間がすごく辛い。
好きな人の存在を無視するのが、とても辛い。いつまでもいないもの扱いなんて、続けてられない。そう思って手を打ったけど、効果が出るまで待っているのもしんどくて。少しでも早くこの状況を抜け出したい。そんな思いで心臓がはち切れそうになりながら、授業を受けている。
机の足が床を引っ掻く甲高くて不快な音が鳴り響く。時計の針は掃除の時間を指している。私はロッカーからほうきを取り出すと、教卓の方から床を掃いていく。教室の後ろの方に集められた机のそばに埃を集めるには、真ん中で寄り添うように放置された机を迂回するルートを取る必要がある。今は一人でゴミ捨てに行っている五丹田さんの机。彼女の机も無視しなければならない。
窓の方では、三多香さんが両手に黒板消しをはめてパンパンと白煙を上げていた。窓が閉まる音を後ろに黒板消しを元に戻した三多香さんは、こちらを見る。私ではなく、ちりとりを持った人ッ橋さんを。
「ねぇ〜人ッ橋ぃ。早く終わらせて遊ぼうよぉ」
「わーってるよ。掃除がやりにくいんだよクソ」
言って、人ッ橋さんは真ん中に鎮座する机の足を蹴る。大きな音が響いても、それを諌める子はクラスに居ない。
「ほら、掃除が終わったら手早く元に戻して」
監督していた先生もパンパンと手を叩きながら片付けを急かすが、人ッ橋さんを咎める声はない。
視線を感じる。両手がふさがった三多香さんの代わりに窓を閉めた子の、優しい視線がこちらに向いている。私はそれを意識しながら、努めて無視する。
教室のドアが開き、五丹田さんが空になったゴミ箱を持って帰ってくる。放置された机を見て、泣きそうな目になっている。
放課後、私たちは二人だけになる。学校の中で無視をしないでいい、唯一の時間。渡り廊下の屋根の下で行われるこの時間のことを、私は秘密の密会と呼んで楽しみにしている。
「ごめんなさい」でも、最初に出てくるのはいつも、謝罪の言葉だ。「無視なんてひどいこと、今日も」
「ううん、いいの。いじめを止めるために動いてくれてるって、知ってるから。今日東二錠さんが頑張ってるとこ、ちゃんと見てたよ」
好きな人の優しさが、身に沁みる。曇りのない双眸が、まっすぐにわたしを見つめている。わたしはその視線を正面から受け止める。なんて綺麗な瞳だろう。なんでこんなにいいものを無視しないといけないんだろう。
「本当は、もう一秒も我慢させたくない。あなたに我慢させてるってことに、私自身が我慢できない……!」
私の右手を、あなたの両手が包むように握り込む。その柔らかさ、温かさを、私はずっと忘れないだろう。
「大変なこと押し付けちゃって、ごめんね」
助けると勝手に決めたのは私だ。頼まれてもいない。それなのに、押し付けだなんて。
「謝ることなんてない! 私が不甲斐ないから」
泣きそうになるのを、目を擦って耐える。
「あの空気に逆らうのは大変だもん。みんなはちっとも悪くないよ。ね、そんなことよりさ。二人の貴重な時間なんだし、楽しいお話しようよ」
今まで何度も救われたこの優しさに、私はまた助けられる。気を取り直すために、私は自分の頬をはたく。
「うん。せっかくの秘密の密会だもんね。もったいないもんね」
「えー?」好きな人が笑顔になるだけで、私の胸はこんなにも暖かくなる。「東二錠さん、ひょっとしてこの時間のこと秘密の密会って呼んでる? 初めて知った」
しまった。うっかり口を滑らせてしまった。頬が赤くなるのを感じる。叩いたせいだと思ってくれるといいのだけど。
「でも、秘密じゃない密会ってあるのかな?」
そう言われてみれば、確かに。
私たちは、肩を震わせて笑い合う。それに合わせて、彼女の頭でリボンが揺れる。
三多香
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさん」
給食の黙食が終わって、みんながマスクを付け直すと途端にクラスが騒がしくなる。当然、あたしもそのうちの一人。向かいに座っている人ッ橋に、食べてる間ずっと言いたかったことをぶちまける。
「あんたさぁ、スパッツで学校くるの、恥ずかしくないの? 下着じゃん」
かわいいお尻が丸出しなんだよ、と心の中で続ける。
「下着じゃねえよ」人ッ橋はマスクにかけていた指をウエストに突っ込んで、生地を伸ばす。「厚手だからパンツも透けねえし」
「透けてないけど、お尻のラインが出ててじっと見ちゃうんだよな。赤ちゃんのほっぺとおんなじくらいの丸さ」
「赤ちゃんのほっぺはすごいよな。妹が小さい時無限にこね回してた」
「それと同じ破壊力だっつってんの。てか、下にパンツ履いてんだ。ノーパンかと思ってた」
「あったりめえだろ⁈」人ッ橋は声を荒げる。「そう言う三多香だってチューブトップなんか着てるじゃん。ちょっとズレたら乳首丸出しになんのに。そっちのが恥ずかしいよ。せめてオフショルにしたら?」
「ぜんぜん恥ずかしくないよ。このかわいい肩、そして鎖骨を」あたしは肩を、くいくいと動かす。「見せびらかしたくて着てるのに、恥ずかしいなんてあるもんですか」
「でも三多香、胸ねえんだからヘソまでノンストップでズレるだろ」
「失礼な、ごたッ」
「……なに?」
「ごたごた抜かすんじゃないわよ」
危ない、五丹田さんの名前を出すところだった。
横目で五丹田さんを盗み見る。斜向かいに座っている五丹田さんの胸は学校一の大きさだが、あたしの胸だって他の子より膨らんでいる方なのだ。五丹田さんほどじゃないにせよ、チューブトップが少し緩んでもズレる心配なんてない。はず。
「ごちそうさまでした」
もう一人、給食を食べ終わる。
「あなたたちは良いわね。私は肌を出したらすぐに体を冷やしちゃうから」
人ッ橋の隣で目を伏せて食べていた東二錠が、マスクをつけながら切長な目を人ッ橋の太ももやあたしの肩に向ける。言っている本人は長袖のワンピースを着て、ふくらはぎまでしっかりと隠している。
「私も人に見られて恥ずかしくない体をしてはいるんだけど」
言いながら、頭を振ってサラサラの髪をなびかせる。そうしてる間も、正面にいる女子には決して視線を向けようとしない。
「普段はこの髪くらいしか見せびらかすことができなくて」
「イヤミかよ」
人ッ橋が舌打ちをする。でも、そういう人ッ橋の髪だって艶があるし、光に透かすと赤っぽく見えて綺麗なことをあたしは知っている。まぁ、ちょっと芯は硬そうだけど。
「体温上げたいなら運動しなよ。東二錠だったら男子に混ぜてもらえるんじゃない?」
チヤホヤされてるもんね。見た目が女の子女の子してるから。
「ボール当てられるじゃない。痛いのはイヤよ」それに、と東二錠は続ける。「あなたたちと一緒にいる方が好きだもの」
言いながら東二錠は、あたしにも人ッ橋にも視線を向けようとしない。見てはいけない誰かに向けて言っているのだろう。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
その、視線を向けてはいけない方向から声が聞こえる。その声がきっかけになり、あたしたち三人は分担して食器や机を片付ける。無視してる人の分はもちろん放置。自分の分は自分でやるでしょ。
視界の端で、給食を一人で片付けた五丹田さんが机を持ち上げるところを捉える。天板にその大きなおっぱいが乗っかっていて、あたしは思わず声をあげそうになる。
「見た?」
あたしは人ッ橋に尋ねる。
「見……てねえ。見てねえけど、三多香とは比べもんにならねえな」
そうだ、無視しないといけないんだった。
「人ッ橋さん、三多香さん」
その時、教卓で食事していた先生から声が掛かる。
「はい」とあたしたちは返事をする。来たか?
「クラスメイトは呼び捨てではなく、さん付けして呼ぶようにしましょうね」
なんだそっちかよ。と不満たらたらになりながら、あたしたちは「はーい」と気の抜けた返事をする。
「それと」
先生はクラス全員が聞こえるよう、声量を上げた。
「最近、目に余る行為が行われているようです。本日のホームルームの議題はそれにしますので、皆さん一人一人が自分の問題だと思って、しっかり考えておいてください」
あたしは快哉をあげそうになるのを我慢する。見ると、周りのみんなも同じように我慢していた。
ついに、来たー!
四華市
「帰りのホームルームを始めます。今日は先生からお話があるそうです。先生、どうぞ」
日直の東二錠さんが、みんなをワクワクした顔で見渡した後、自分の席に戻る。
「教師といえば?」
「親も同然!」
前に立って開口一番、朝夕恒例のコール&レスポンスからホームルームが始まる。こっちを見てという気持ちを込めて、わたしは声を張り上げる。
「さて、お昼にも喋りましたが、クラスでとても看過できない事態が起こっています。最初は自分の目が信じられませんでした。あなたたちみたいないい子ばかりが集まるなんて、先生が教師になってから初めてだったからです」
「はぁい、先生」人ッ橋さんが手を上げる。「かんかって何ですかー?」
「看過は『見過ごす』という意味です。ほうっておけないことが起きている時は『看過できない』と使います」
「わかりました。ありがとうございます」人ッ橋さんは座り、三多香さんに向かって口パクで「だって」と伝える。この二人は本当に仲が良くて、羨ましい。
「では、先生が見過ごせない何が起こっているのか、説明できる人はいますか?」
手を挙げるように促しているが、見回してもクラスで挙手しているのはわたし一人だけだ。
「……誰も挙げませんね。わかりました、先生から説明します。もっとも、説明しなくても分かってもらえてると思いたいんですが」
軽く息を吸った後、本題に突入する。心臓がドキドキしている。
「無視、されている人がいます。している人にも言い分があるでしょう。嫌いな人と無理やり付き合うよりはマシだと思っているとか、無視されてもしょうがないことをその人がやったんだとか。だけどね」語気が強まる。「無視をするなんて、人間として幼稚で、最低な行為です」
教室の中が騒々しくなる。隣の席の子や仲のいい友達とささやきあう。無視というイジメに教師が言及したことが、よほどおおごとに感じたのだろう。わたしは気を良くする。
「無視された人の気持ちを想像してください。悲しい。なぜ悲しいか、自分はいないほうがいいんだって気分になるからです。出ていけと言われたのと同じように、ここに自分がいちゃいけないんだと思うようになるからです。小学校は義務教育です。皆さんがいていい場所なんです。立ち去れなんて言う権利は誰にもありません。ここにいることを後ろめたく思う必要なんてないのに、そんな罪悪感を植え付けてしまう」
生徒の顔をひとりひとり見つめ「先生の言うこと、わかりますか?」と問いかける。しかし、まっすぐ見据えるわたしの視線が絡み合うことがない。
「先生は、あなたたちの頭の良さを、心の綺麗さを信じています。ホームルームの内に解決できるものだと思っています。でももし、誰も謝らなかった場合」
ごくり、と一度つばを飲み込む。
「先生と学年主任、生徒指導の先生、教頭先生などたくさんの大人が、当事者やそのご両親とお話をして問題にあたります。ひょっとしたら、誰かが転校するかもしれません」
「転校はやだな」三多香さんがつぶやく。
「だよな。もう謝っていいんじゃねえか」人ッ橋さんが小声で同調する。
「先生の話を聞いて、その気になってくれたようですね。心当たりのある人は謝罪してください。あ、でも」早口で補足する「謝罪されたからって、絶対許さなければならないわけではありません。人を許せとは強制できません。謝る方も、許されなかったからといってひどいと思ってはダメですよ。心の傷はそう簡単には癒えないし、贖罪はとても難しいことなんです」
「許されないの?」と、人ッ橋さんが立ち上がる。
「別にいいでしょ」と、東二錠さんが立ち上がる。
「贖罪って何だ?」と、三多香さんが立ち上がる。
わたしは立ち上がったみんなと、視線を交わす。
「後で調べましょ」と、五丹田さんが立ち上がる。
先生が「え?」と声を上げるのを無視して、四人がわたしの机の前に並び、声をそろえて「四華市さん、いままで無視してごめんなさい」とわたしに頭を下げる。
ずっと無視されてきたわたしの目を、やっとみんなが見てくれる。
「うん、いいよ。うれしい。みんなに無視されないのが、すごくうれしい。許さないわけなんてないよ」
感極まったわたしの視界が、涙でぼやける。
クラスメイトのみんなが、まばらにだけど、ぱちぱちと拍手をくれる。わたしはやっと、透明ではなくなった。ハンカチで拭っているのに、安心した時に出る涙が次から次へと溢れてくる。
先生が目の前の教卓を蹴り上げた。膝に打たれて浮き上がった教卓は、四本足で同時に着地してガシャンと大きな音を響かせる。
「五丹田のことだよ! 四華市のこと言ってんじゃねえよ、お前ら勝手に何してんだコラァ!!」
「五丹田さんとは無視ごっこして遊んだだけでーす」
人ッ橋さんが頭の後ろで手を組んで体を傾ける。
「あたしら東二錠さんに誘われて遊んでただけだもんねー?」
三多香さんが人ッ橋さんと鏡像になるようなポーズで笑う。
「私たちが本当に謝らないといけないのは、どう考えても四華市さんの方です」
東二錠さんはわたしに寄り添い、肩を抱きしめながら先生に反駁する。
「先生だって、無視は最低な行為って言ってたじゃん。自分からいないもの扱い始めたくせに。授業とかでも四華市ハブってさー、ごめんなさいって言うべきじゃないの?」
「人に謝れって言うのに自分は謝んねーの、くっそダセェ」
みんながにやにやしながら、煽るように囃し立てる。
「わたし別に、謝ってもらわなくても……」
無視さえ終わってくれれば、それで充分だもん。あんな先生のことなんて、別にどうでも。というかなんだか、かわいそう。
「四華市さんダメよ、ケジメは付けないと。今まであんなに酷いことされてきたんだから」
わたしの無視を止めるために、逆にわざとらしいくらい無視される役を引き受けてくれた五丹田さん。その五丹田さんが、キッと先生を睨みつける。
「こっちに来て、頭を下げてください!」
先生がわたしに向かって歩いてくる。足音ひとつひとつに怒気がこもっているようで、わたしの口は緊張でカラカラになる。
「んなドスドス歩いて、それが謝る人間の態度かよ」
と言った人ッ橋さんが、先生にポニーテールをつかまれて投げ飛ばされた。
ガラス戸を背中から突き破り、お尻から落ちて一回弾む。ベランダに散らばったガラスの破片の上を転がって、腕や太ももや顔といった剥き出しの皮膚が切り裂かれ、血が噴き出す。
「いや、人殺し!」
叫んだ東二錠さんは後頭部をグーで殴られて、顔から机に突っ込んだ。机が倒れる派手な音に、たこ焼きが潰れるような音が混じる。声にならない悲鳴をあげながら東二錠さんがうずくまっている。机の角に目が当たったのか、手で押さえた左目からは血と透明なゼリーのようなものが流れ出している。
「うわ、なに、やっば」
ドン引きしている三多香さんの鼻に、机の上に置いてあった鉛筆が突っ込まれた。余計な穴が鼻に一つ開く。出た血が口に流れ込み、三多香さんの絶叫がその血を床に壁にと撒き散らす。
「靭葛先生、やめてください」
泣きながらお願いするわたしの頬を、容赦のないビンタが吹き飛ばす。耳の奥で何かが破れる音を最後に、右側から音が消え去った。衝撃で髪を結んでいたリボンがほどける。先生は倒れたわたしの耳朶をつまみ上げると、力任せにねじってちぎり取る。肉がちぎれる音は小さくしか聞こえないのに、振動が骨に直接響いて、わたしは恐怖と痛みで失禁する。
「なんでわかんないの、どいつもこいつも」
まだ聞こえる方の耳で、先生がぶつぶつと呟き続ける声が聞こえる。教室のドアが開いて、他のクラスの先生たちがなだれ込んでくる。
「とめ、男の人きてー! 先生を! 早く止めてください!」
腰を抜かしている五丹田さんが大きく口を開けて助けを呼ぶと、そこに先生のスニーカーの爪先が蹴りこまれた。根こそぎ折れた前歯が、先生の靴底にくい込んだまま口から抜き取られる。
「何やってんだあんたは!」
飛び込んできた生徒指導の先生に腕をねじり上げられ、取り押さえられた靭葛先生の顔がわたしの目に飛び込んでくる。
血が昇って真っ赤になった顔を、先生は涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしている。
「先生は、みんなに、痛みを知る子供になってほしくて………」
子どもみたいで、すこしかわいいな。
そう思ったのを最後に、わたしは意識を手放す。耳の痛みが、みんなの騒ぎが、どこか遠くに離れてゆく。
五丹田
なんだっけあれ。「とりあえず生の人ー?」「馬っっ鹿お前、こんな成人式丸出しの集まりで酒出してくれるわけねえじゃん」「マジで胸でけえな」そうだ、カクテルパーティー効果。「あぁ? 十八歳って酒ダメだっけ?」「目、それ義眼?」「お前いけよ」「お里が知れますなぁ」「いやいやお前、ここにいるみんな里は一緒だよ」「ええ、そうよ」「ナイスツッコミ!」「綺麗ね。左右で色を合わせていないのが素敵」「お前っつーな」「結局、だいたい転校しちゃったの嫌だったよな」「先生、あの後どうなったんだっけ」「あんたんとこ、転校だけじゃなくて離婚もしたんだよね」「え、ごめん、つい」「そうさ、オヤジについてったんだ。妹は母親だけどね」「体罰で懲罰でしょ?」「珍しいね、父方についてくの」「っしゃ! 一番手いきまーす」「え、警察に捕まってないんだ?!」「いや、最低の選択だったね。アイツ二人暮らしになった途端アタシを無視し始めやがった」「写真を持って、この目と同じにしてくださいって注文したの」「ウケる」「ウケんな」「おう、玉砕してこい!」「ところであんた顔の傷跡もう全然分かんないね」「あー、誰の写真のことかわかったわ。愛が重いのね」「化粧で隠れてるだけさ。すっぴん見るかい?」「見せてくれんの?」「その被写体は、まだ来てないみたいね」「そうね。会ってないの?」「この腕みたいなグロいのが見たいならお好きに」「私立に進学してからは、全然。たまに電話は」「あら、そうなの。まぁ、じゃあ大丈夫かしらね」「飛ばされたけどそこ辞めて、地元戻ってきたんだよ」「なんのこと?」「えー? どこがグロいの。ちょっと引き攣れてるだけじゃん」「そういうあんたは海外のモデルみたいな鼻になってるじゃん」「いえ、ちょっと。知らない人が聞いたらびっくりするようなことがあったじゃない?」「ひぇー」「で、監禁事件の当事者」「……わからないわ。本当になんのこと?」「形成手術したからね。手術直前の写真今でもスマホにあるよ」「とっとくなよそんなもん」「うっそまじで?」「ねえねえねえねえ今さ今さ、彼氏いる?」「勉強で忙しかったから、お誘いは断ってたの」「その腕の傷跡なんか比べ物にならないくらいグロいよ、見る?」「外に進学してたら分かんないかもだけど、四華市さんの事件大騒ぎになったんだよ」「マジ? じゃあおれなんかどう?」「そうねぇ。大学はどこに行かれるの?」「アタシがすっぴんになった時、交換で見せてもらうよ」「耳ちぎり取った相手を監禁ってマジ?」「狂いすぎでしょ」「俺は就職組、三年か四年くらい金貯めてツレと組んで起業すんだ」「……ねぇ、二人でこんなところ抜けない?」「うーん、考えとこうかな。一回デートしましょうよ」「やりい! 聞いたかお前ら! 予約取ったから今日はもう五丹田さんにアタックすんじゃねえぞ!」「いいぜ、ついでに大人の階段も昇っちまおう」「うおー!」「やるぅー!」騒々しいわねぇ。「ちがうちがう。逆」「てかぁ、あのー……笑った時に見える歯白くてめっちゃ」「え?」「綺麗ですよね。まるで作りものみたいな。俺こんなに歯キレーな人初めて見ました」「四華市さんが元先生を監禁」「え、え?」「なあに? 急に改まって」「いやマジでマジで、ちょっとすげえその、いいなって」「今度そのふたり結婚するらしいよ」「ゴールイン一番がそのカップル?!」「だってこれ、作り物だもの。私の口が蹴られた時、あなた居なかった?」「ちょちょちょ、吐いた吐いた吐いた吐いたおしぼりおしぼり!」「親も同然とか言っといて、近親相姦も同然じゃない」「ストップホルム、ちがうな。ストックホルムだっけ?」「あ、いや、ごめんそっか。おれすぐ逃げ、っていうか先生呼びに行ってて」「ふうん、そう」「は? 何が?」「酒きてねえのに!?」「あらあらあらあら? 東二錠さん大丈夫?」「なんか被害者と加害者の間に好意的な感情がうまれるやつ」「おい! おーい! 意識ないって! 救急車救急車!」よっぽどショックだったのね。まぁ、気持ちはわかるわ。「どっちが被害者でどっちが加害者?」
あなたの目を見て謝りたい 不璽王 @kurapond
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