第262話 22『アンナリーナが甘えることができるひと』

「おかえりなさいませ」


 クローゼットから出てきたアンナリーナをアラーニェは、そこで待っていたかのように出迎えた。


「ただいま。何か変わりはなかった?」


 今日はもう陽が暮れてきたのでエイケナールに行くのは諦め、後日に訪問する事にしたのだが、その顔には疲れが滲んでいる。


「サバベント侯爵から面会の要請がきております。

 リーナ様が外出中でしたので返事は保留しました」


「サバベント? ああ、アレクセイくんの……

 面倒くさいね。別にわざわざ来なくてもいいのに」


 ブツブツと文句を言いながらも浴室に向かっている。

 今夜はゆっくりと入浴して、アラーニェにマッサージしてもらうつもりだ。


「では、どう返答致しましょう?」


「明日の授業の後……

 夕食に招待、というかたちで話を進めておいてくれる?」


「承知致しました。

 リーナ様が入浴なさっている間に伝えて参ります」


「うん、よろしくね」


 同じ女性だという事から、アンナリーナはさっさと下着姿になり、浴室に向かう。



 ふんだんに満たされた湯を手桶ですくい、掛かり湯をする。

 基本【洗浄】で身を清めているため、この時には身体を洗わない。

 そして、お気に入りのバスバブルを湯に落とし、泡立てた。


「あぁ〜 生き返る〜」


 泡湯の中に身を沈め、その少し熱い目の湯を堪能する。

 ほのかな薔薇の香りと、なめらかな肌触りにうっとりしながら、アンナリーナは首まで湯に浸かり、手足を伸ばした。

【異世界買物】で定期的に購入している、某メーカーのバスバブル。

 シャワーのないこの世界ではいささか使い勝手に問題はあるが、大きな桶に湯を用意しておけば問題ない。


「リーナ様、お待たせいたしました」


 海綿のスポンジを持って跪いたアラーニェは、アンナリーナの首筋から清めにかかる。


「あちらはどうだった?」


「はい、快く了承して頂けました。

 侯爵とともにアレクセイ殿もいらっしゃるそうです」


 アンナリーナの口角が上がる。


「そうね。動けるなら動いた方がいいわね」


 一度断裂した筋肉を再生はしたが、それをなじませるのは本人の努力だ。


「何か、アレクセイくんへのご褒美になるメニューを考えなきゃね」


 今度は、アンナリーナはにっこりと笑った。




 深夜、人は皆眠りについている頃、アンナリーナはベッドを抜け出してクローゼットに向かった。

 そしてテントの中に入る。

 アンナリーナが姿を現したのは灯ひとつ付いていない部屋だった。


「【ライト】」


 小さな灯をともしてあたりを見回す。


「あれ? 部屋に帰ってない?」


 アンナリーナが、相手のいる所を把握するために付ける【位置特定】

 それでは、彼は今ここにいる事になっている。


「まだ、下で飲んでいるのかな?

 そりゃあ、今日やっと帰って来たんだからバカ騒ぎもするかな」


 しょうがなくソファーに座り、持ってきた毛布に包まる。

 そしてそのまま瞼が下りた。



 アンナリーナの新学期が始まるのと同時に、テオドールは久しぶりに自分のパーティで依頼を受けていた。

 わずか5日間の依頼だが、そんな近くに高位パーティの力を必要とする魔獣が出るなど異例以外の何ものでもない。

 魔獣自体はランクBだが群れる性質なのでタチが悪い。

 広範囲魔法を使うアーネストとエメラルダがいたからこそ、受けられた依頼だったが、テオドールも負けていなかった。

 アンナリーナにもらったミノタウロスの戦斧は敵を一閃し、ともに巡ったダンジョンでの戦闘は、テオドールの戦闘力を一段上に押し上げていた。


 ほろ酔い気分のテオドールが自室に戻ってくると、瞬時に気づいた薔薇の香り。


「リーナ?」



 ソファーに横たわる毛布の塊に気づいたテオドールに、もうほろ酔い気分は残っていなかった。

 足早にソファーに近づき、そっと毛布を持ち上げると、その中でアンナリーナは眠っていた。


「リーナ……」


 眠った子供独特の暖かい身体を抱きしめ、すぐにテントに向かった。

 むさ苦しい男所帯のこの部屋のベッドではなく、柔らかなアンナリーナのベッドで彼女を堪能したかったのだ。

 だが、もそもそと身体を動かしたアンナリーナが起きたことで、矛先が変わる。


「熊さん、おかえり」


 意外なほど元気のない声のアンナリーナが、そのまま抱きついてきて……動かなくなった。

 彼女がこんなふうになるのは見たことがある。


「リーナ、何があった?」


「んん、ごめん……

 少しだけ、こうしていさせて」


 前回と違って、号泣しているわけではない。

 静かに、顔を押しつけてきてテオドールの服を握りしめているだけ。

 それでもテオドールは、アンナリーナの中で何かドロドロとしたもの……悲しみとふつふつとした怒りが渦巻き、今まさに爆発せんとした状況なのが不安だった。


「リーナ、大丈夫か?」


「熊さん……ギュッて抱いて」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る