硝子玉のエルシオン

鯨鮫工房

天と地が交わる日

第1話 大図書館のイスカンダリア

『星の動きが天を越え、地上に注ぐと風になる』

『この世の全ては、たった一つの火から始まった』

『世界の端を閉ざしているのは、切れ目のない水平線だ』

『その中心にある土の塊は、大いなる竜が残した骸より作られた』

 ――アリストテレス著『四大元素論』より抜粋。



 かつて世界は、人類の理解を超えた〈神秘〉にあふれていた。この世の万象が、神の手によって引き起こされていると信じられていた時代の話だ。

 誰かが説いた。もしも人生に意味があるのだとしたら、それは〈知識を積み上げる事〉だと。世界に満ちる神秘を理解し、人の手で利用できる知識へと変えていかねばならないと。

 世界の中心を貫く巨大な樹を育てるように、人類の営みが大地に智慧の水を注いでいく。その先端はいつの日か、星の浮かぶ天の中心にだって届くだろう。



 夜明け前。薄闇に瞬く星空の下。木の枝の如く空へと伸びる集合住宅インスラが、周囲の星明かりに長細い輪郭を幾本も黒く浮かばせる。

 その高層にある一つの露台で、毛皮の防寒具に身を包む〈少年〉が椅子へと腰を預けていた。背丈は低く、歳は十歳前後といった所か。

 ウルフカットに整えられた薄紫の髪の隙間からは、猫に似た大きな獣耳けものみみが生え、付け根には黒い小さな双角がちょこんと突き出ていた。

 乳白色の肌は寒さに少し赤らみ、可愛らしく発色する幼い顔立ちには生来の美しさが片鱗として垣間見える。

 少年の顔立ちと声は、少し中性的な女児のそれである。


 吸い込む外気には、つんと冷たく夜の匂いが残っている。少し朝に焼け始めた空の端を眺めて息をすれば、目の前の空気が白く濁る。

 夜の残滓と仄かな太陽の香りが混じる時間が、少年のお気に入りだ。世界で自分だけがこの味わいを知っているような、特別な気分に浸れるから。

 少年は冷たい空に胸の中に溜まる興奮を吐き切ると、机の上に丸めてあった地図の筒を広げた。


 広大な海原に浮かぶ、たった一つの大陸。これが少年の住む世界の全てだ。


 山の一つ先さえ冥界同然だった時代から、人類はここまで世界を調べ尽くしてしまった。この世界から未知や未踏が失われる日も、いつかは来てしまうのかもしれない。そんな風に考えると少年はたまらなく不安になる。

 世界の全てを調べ尽くしてしまった時、そこに人が生きる意味は残っているのだろうか。少年が想う世界の終わりは、そんな言葉で綴られていた。


「……さ。仕事仕事!」


 少年は目元を照らす陽光と共に立ち上がる。いずれ来る終わりを、巡る世界は待ってなどくれない。少なくとも始業時刻に関してはそうだ。

 少年は地図を片付け、部屋の奥へと姿を消した。



 顔より少し小さい釜を少年は付属のベルトで背負い、壁を這う長い螺旋状の階段を登っていく。他に荷物と呼べるものは、腰のベルトに留められた一冊のバインダーだけだ。

 階段をのぼり切ると、少年は用具箱に用意されていた掃除道具を取って、幾本もの柱に囲まれた開放的な空間に出る。その中心には、見上げる程の大きな鏡が吹き抜ける風を浴びて聳え立っていた。


紐付きアルレシア。出番ですよ」


 少年が背中に呼びかけると、両腕を通していたベルトが中程でかしゃりと分かれて小さな爪のある四肢となり、釜は蜘蛛に似た動きで歩いて腕へと向かう。

 名前の通り二本の紐が付いた釜の蓋がひとりでに開き、少年は紐付きアルレシアの内側へとカードを放り込んだ。すると釜は内側から仄かに光る蒸気を吹き出し、蒸気の文字で綴られた〈錬成円〉と呼ばれる半球ドームを周囲へと展開する。

 少年は半球ドームの内側で両手の指を組み合わせ、三角形をベースにした形の〈印〉を次々に結び、両腕を前に突き出した。


登場者キャラクター――【鏡像のスライム】!」


 不思議な文言。おそらくは何かの名前と思しきものを唱えると、錬成円の内部で黄金の炎が噴き上がる。その内側から現れたのは、大人と同程度の体躯で鎌首をもたげる無色透明の軟体動物だ。

 芋虫に似たスライムは形状を変え、少年の上半身を模倣していく。不定形の下半身が蠕動して鏡の表面へとよじ登ると、人型の半身を駆使して道具を使い鏡の表面を磨き始める。

 少年も濡れた新しい雑巾を使って、奇妙な生き物と協力しながら鏡を掃除していった。


 ものの十分程で鏡は磨き終わり、作業を終えた少年は柱の隙間に立って街を眺める。

 エヌマエリス大陸の西に位置する砂漠の国、ケメト。その首都として古くから栄える、大図書館の王都イスカンダリア。

 かつて〈大陸中の国々を統一し、帝国を築いた〉という偉大な王の名を冠するこの都市は、古来より知識の集積場として発展してきた。

 街の景観は、殆どが強烈な斜面で構成されている。紙が発明される以前、文書の記録媒体がまだ石だった頃。学者達は砂漠に石を積み上げ、その表面に研究の成果を彫り残した。そんな時代が数百年も続いたものだから、イスカンダリアはすっかり石の山で覆われてしまったのだ。

 学者の子孫達は石の上に住む道を選び、斜面の限られた土地から枝のように伸びる、背の高い集合住宅インスラを次々と建設していった。それが今日まで残る、一本の大樹を彷彿とさせるイスカンダリアの外観を作り上げている。


 何もかもが空を目指して伸びるこの街の頂上に聳えるのが、少年の立っている〈大灯台〉だ。

 大理石で造られた三重構造の高層建築物で、四角形の基底部分と八角形の中層部分、円柱になっている最上層部に分かれる象徴的な造形である。頂上の部分は格子状の柱に囲まれており、その中心には一つの巨大な鏡が置かれていた。


 鏡の表面にはここから遠くに見える筈の水平線が映し出され、穏やかに揺蕩っている。それと同じ光景を暫く見詰めていた少年は、ふと波の上に何かを見つける。


「あ……帰ってきた!」


 夜明けの空に黄金の亀裂を入れて水平線の向こうから向かってくるのは、一隻の船。少年はいてもたってもいられずに急いで紐付きアルレシアを背負い直すと、港に向かって大灯台の階段を駆け下りていくのだった。


       ◇


 建物の隙間に作られた狭い階段を人々が往来する中。少年が背中の釜を揺らして、がしゃがしゃと段を下りてくる。

 先程の防寒具から着替えて漆黒の修道服に着替えた姿だ。そのデザインは教会などで古くから使われているデザインとは少し異なり、頭に被るヴェールが服の襟元と接合してフード状になっている。また側頭部には目玉に似た丸い飾りが付いており、フードをしっかり被ると魚人間のようにも見えた。前開きになった胴体部分は丈が長く、生地もコートのように厚い。歩きやすくする為に、裾の部分には幾つかの切れ目スリットが入っている。

 修道服は、この時代において特別な意味を持っていた。それを知る街の人達は擦れ違いざまに次々と声を掛けていく。


「アルカちゃん、今日は先生の所へお使いかい。いってらっしゃい」

「はい、いってきます!」

「いっひっひ。取って食われちまわないようにな!」

「大丈夫! 師匠はとっても良い人ですから!」


 元気に駆け抜けていく後ろ姿を見て、階段の脇に座り込んでいた老人はほっほっと愉快げに笑う。


「ほっほっほっ……大したもんじゃ。あの歳で錬金術師アルケミストの弟子とはなぁ」

 

 少年の名はアルカ。古い言葉では〈箱〉という意味があり、転じて〈船〉や〈探究心〉を表す言葉として勇敢な印象を与える名前だ。

 石段を下りる最中、アルカは横の脇道に逸れて広い大通りへと歩みを進める。そこは人の数も多く、道の脇には多くの店舗が面していた。

 イスカンダリアの中央市場。頭上にアーチ状のステンドグラスが張られたその通りは、市内でも有数の賑わいを見せる場所である。軒先に並んでいるのは、どの店も絵と文字の描かれた小さなカードばかりであった。


 少年は目的の店まで小走りで近付くと、品揃えをさっと見渡す。


「うーんと。ウルさん、【食用黒イモリ】って置いてますか?」


 呼びかけに褐色肌の中年男が応じ、店の奥から一冊のバインダーを取って戻ってきた。しばらくそのページを捲った後、男は「おっ」と声を上げる。


「一枚だけ在庫があったな。買ってくか?」

「お願いします。師匠が食べたがってるんです」

「ああ、いつもの錬金術師アルケミストの先生か。浮世離れした御仁ってのは、食うものから俺達とは違うんだなぁ」


 店主は【食用黒イモリ】のカードと一緒に、【糖蜜リンゴ】も持ち帰り用の布に包んでくれる。


「んみゅ。これは……?」

「不良在庫を買ってくれた礼だよ。嬢ちゃんの朝飯にしちまいな」

「はわ、ありがとうございます!」


 代金を銅貨で支払い、アルカは再び石の階段へと戻っていく。

 イスカンダリアは港町だ。階段を下れば下る程に磯の香りが近くなり、波の音や海鳥の声も感じられる。階段の幅が広くなって集合住宅インスラによる遮蔽のない開けた視界に、街の最下段に広がる港と一隻の大きな船が見えた。


 数百人を収容可能な漆黒の船体は、当世最大規格のリヴァイアサン級。

 船尾の部分が高い箱状になっており。張り巡らされたステンドグラスの窓には、大きな鐘を手に持つ聖人の姿を模したモザイク画が施されている。その造りがチャペルを彷彿とさせる事から、この船は〈黄金の福音号ゴールデン・エヴァンゲル〉と呼ばれていた。

 何より目を引くのは、船体側面から無数に生える巨大な鋼の腕だ。この船は腕で陸上を踏破し、航海のみならず航を可能にする。

 生ける船、〈アルゴー船〉。当世の技術がもたらした、最高峰の移動手段である。五本指の金属塊が波を掻いて船体を動かし、港に停泊を試みていた。


「ボクもいつか必ず……あの船に乗って海の先へ行くんだ」


 そんな事へ想いを馳せている内に、アルカは港へと足を踏み入れる。石畳は木の板へと変わり、ぼこぼことした靴音が耳に楽しい。周りでは船乗り達が荷物を運んだり、街の住人と仕事の話をしていた。


「お。お弟子くんじゃないッスか。こんな朝早くから偉いッスねぇ」


 背後から荷物を抱えた船乗りの一人が声を掛けてくる。

 若い男だ。オレンジ色の派手な髪。修道服の上に纏うのは、髪の毛と色を合わせた暖かそうなポンチョ。おっとりとした睫毛の長い垂れ目は左側を眼帯で隠しており、目元には少し化粧をしている。耳には無数のピアスが開けられ、首元には刺青いれずみも覗いて、お世辞にも柄が良いとは言えないだろう。


「おはようございます! 大灯台の上から船が見えたので、急いで来ちゃいました」

 

 知った仲なのだろう。少年は男の風貌にも物怖じせずに返事をした。


「団長なら自分の部屋に籠ってるッスよ。ノックは三回。忘れないようにね」

「アイサ!」


 船乗りが好む独特の相槌を打って、アルカは船の露天甲板へと架けられた仮設階段タラップを上っていく。

 縦長の箱状になった船尾にあるのは、船員達の居住区兼研究室棟。今日はそこの最上階にいる、黄金の福音号ゴールデン・エヴァンゲルの船長に会いにきたのだ。


 研究室棟に入ると一階部分はロビーになっており、来客用の応接スペースや受付カウンターが設置されている。部屋の最奥には、外からも見えるステンドグラスの窓が壁一面に広がっていた。

 その手前には筒状の昇降機が三本天井へと伸びており、これで各階層を移動できる仕組みだ。最上階まで上がって廊下に出れば、ステンドグラスとは反対側の壁沿いに無数の扉が並ぶ。足元には絨毯が敷かれてホテルに似た雰囲気を醸している。

 昇降機を出て直ぐの場所にある部屋の扉をアルカが三度ノックすると、「入りたまえ」と中性的な声が返ってきた。

「失礼します!」と声を掛けながら、少年はゆっくりと扉を開く。


 奥のカーテンが閉められた部屋の中は薄暗く、扉からの明かりが射し込んでいなければ殆ど何も見えないだろう。声がしたのは確かだが、内側に人の姿は見当たらない。


「師匠。いるんですか?」


 アルカが扉の奥へ足を踏み入れた刹那。不意に扉が閉まり、外部からの光が遮断される。

「んみっ!」と悲鳴を上げたのも束の間。背後から皮革の感触が少年の口を塞ぎ、続いて柔らかい感触が背中全体を包み込む。

 捕らえられた小さな身体は完全に床から浮いてしまい、抵抗もできずに部屋の奥へと運ばれていく。そして前のめりに柔らかい感触へと倒れ込んだ。

 すると近くの明かりが点き、そこがベッドの上である事が分かる。少年は腕に抱きかかえられ、一緒の寝床で寝かされていた。首元に寝息を感じる。そして背中の柔らかな感触からは、少し低めの体温も。


「ふぅ……やはり長い航界から帰った後は、少年浴に限るね」


 少し低めながらも、性別の判断がつかない独特な声。

 アルカがもぞもぞと寝返りを打つと、女の顔が近くに見えた。少年を抱きしめていたのは、二メートル近い長躯を持つ女性だ。

 白い肌に尖った耳。作り物のように整った顔立ちだが、目は死んだ魚のように生気と幸が薄い。額をサングラスで飾られた黒い髪はアルカと同じウルフカットに整えられ、長い襟足の部分だけが藍色に染められて肩の辺りまで流されている。

 寛いでいたのか、丈の長いシャツ一枚のみという中々に際どい格好であった。


「おはよう、少年。朝御飯はまだかな?」


 ジル・ド・レイ。アルゴー船に乗って、世界の外側へと航界に出る冒険者。この得体が知れない女を、人は〈魔女〉と呼んだ。

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