前篇
辺り一面青々と生い茂った山深い中、慣れた足取りで道なき道を歩く少女がいた。
彼女の名前はマリィ。近くの村に住んでいる十五歳の子供だ。くすんだ金髪を二つ結びにしており、着古したブラウスとロングスカートを着用している。
彼女は母親に頼まれて木の実や野草を採取していた。片手に抱えた籠へと次々と載せていく。山の歩き方や食べられる物の知識はしっかりと叩き込まれているのだ。
食材はもう十分な程度に集まっていたが、それらを見て一人呟く。
「いっぱいあれば、お父さんもお母さんも喜んでくれるよねっ」
マリィは天真爛漫な様子で奥へ奥へと進んで行ってしまい、気づけば、絶対に入ってはならないと言われていた場所にまで足を踏み入れていた。
木々の間を抜けて、何やら開けた空間へと出る。そこは斜面となっており、周囲が森林地帯となっている中でポッカリと楕円形に空いているようだった。
そして、その足元には彩り豊かな花畑が広がっていた。
「わぁっ」
マリィは思わず感嘆の息を漏らした。こんな素敵な場所があったなんて、と。
しかし、その考えが過ちだとすぐに気づく。
なぜなら、その場所の中心を横切るように、紅い光が薄く伸びていたのだから。それは天から紗幕のように垂れ下がっており、こちらとあちらの境界であることを示している。
「っ……」
マリィは動揺しながらも、その場所に誰かがいることに気づいた。
その者は花畑の中央付近に鎮座する大きな石の上に腰を下ろして、そこから見渡せる雄大な自然を眺めているようだった。
艶やかな黒髪に端正な顔立ち。細やかで流麗な体には漆黒のローブを纏っている。男性にも女性にも見える中性的な雰囲気だ。
しかし、彼には違っている点があった。普通の人間としてはあまりに異質な点が。
その頭からは複雑な形状の角が生えており、ローブの裾から覗かせている足は山羊を思わせる灰色の毛としなやかさで、更に腰からは蛇のような尻尾が伸びていた。
加えて、彼は紅い光の向こう側にいる。こちらの世界の住人ではない。その要素群が示す事実はたった一つ。
それは、マリィが生まれて初めて見るサディロスの姿だった。
サディロス。その名前を村の子供達が聞けば、誰もが震え上がるだろう。小さい頃から絵本や昔話を通じて、人の言葉を操りながら人を喰らう、見るも悍ましい半人半獣の怪物だとして教えられているからだ。
彼らは生まれながらに魔力というものを有しているようで、それを用いて超常的な現象を引き起こすこと、すなわち魔術が使えるのだとか。
歴史家によれば、サディロスが初めて現れたのは何百年も前のことらしい。人間が繁栄する中に突如として現れた彼らは、魔術によって民草を蹂躙し、次々と捕食していった。
だが、サディロスは決して不死身でも無敵でもなかった。人間よりは丈夫だが、それでも剣や槍、弓矢といった武器を受け続ければ、いずれは死ぬ。
人間が唯一、優位性を持っていたのは数だ。サディロスの繁殖能力はとても低いようで、更には個人主義的な傾向も見られた。
その為、サディロスが現れれば大挙して押し寄せ、多くの犠牲を出しながらも一体ずつ殺していった。
それはサディロス側へと確かに被害を与えていたものの、人間側への被害もまた甚大だった。
やがて、人間とサディロスはこのままでは互いに滅んでしまうと悟り、両種族の間で不可侵条約が結ばれた。
紅い光によって引かれた境界線は、サディロスの魔術によるものだ。それによって人間が住まう領域──人間界と、サディロスが住まう領域──魔界が分かたれ、相手方の領域に侵入することは許されていない。
もしそれを破ったことが露見すれば、自種族の中で厳しく罰せられる。また、自ら相手の領域に入ってしまった者の処遇は関知しない。もし人間が魔界に入れば、まず命が助かることはないとされている。
不可侵条約が結ばれてから長い年月が過ぎた。それ以来、人間とサディロスの衝突は一切起きておらず、平穏な日々の中で文明は着実に発展を続けてきた。
都会では様々な技術が誕生しており、民草は豊かな暮らしを享受している。残念ながらまだマリィの住まうような山奥の村までは波及せずにいるが、時間の問題だろう。
今やサディロスは半ば伝説的な存在と化している。旧来は恐怖の象徴であったが、それは体験の消失と技術の進歩と共に薄れつつあるのだった。
マリィは人間界と魔界の境界線が引かれている場所に来てしまっていた。
一刻も早く引き返さなければならない。不可侵条約があるからといって、襲われない保証はどこにもないのだから。少なくとも、村ではこの場所に近づくことさえ許されていない。
けれど、マリィは初めて見るサディロスから目を離せなかった。端的に言えば、見惚れてしまっていた。恐ろしい存在だと分かっていても、その姿を美しいと感じることは止められなかった。
「っ……」
サディロスがこちらを向き、目が合った。底なし沼のような闇を湛えた眸。途端、背筋に冷たいものが走るのを感じた。全身が戦慄き、今すぐこの場から逃げろと悲鳴を上げている。
しかし、サディロスは一瞥しただけだった。境界線を踏み越えて迫ってくる様子はない。
即座に襲い掛かってくるかと思っていたので、安堵する。それと同時に疑問を持った。
サディロスは見境なしに人を襲い、喰らう怪物だと思っている。これまでそう教えられてきたから。
だけど、目の前にいる彼からその様子は見られない。条約があるから? それとも、騙して近づかせようとしている? あるいは本当は……こちらの認識が間違っているんじゃないか。
そんな風に考え出すと、マリィは居ても立ってもいられなくなり、思わず歩を進めた。花を踏んで痛めてしまわないように気を付けながらサディロスに近づいていき、紅い光の前で足を止めると、意を決して口を開いた。
「ね、ねぇっ」
「……何だ、人間」
返ってきたのは、鈴が鳴るようでありながら、大地が震えて響くような、不思議な声。
見るからに鬱陶しそうにしていたが、そこには確かな知性が感じられた。
言葉が通じる。対話できる。それならきっと、分かり合える。
村の人々と穏やかな日々を生きてきたマリィは純真にそう信じていた。
「あなたは、ここで何をしているの?」
「別に。ただ、景色を眺めているだけだ」
マリィは彼の視線を追った。可憐な花畑、若葉が萌える木々、険しくそそり立つ山々、と広がっている。とても見晴らしの良い景色だ、と素直に思えた。
「この景色が、あなたにも美しく見えるの?」
「そうだな。ここから見る自然は美しい」
マリィは彼の返答に驚いた。
サディロスも人間と同じように、好ましい景色を見て美しいと思えるのだ。
それは、心を通わせ合えるという証ではないだろうか。
「わたし、サディロスってもっと怖い存在だと思ってた……」
「君の想像は間違っちゃいない。サディロスは基本的に残忍で、獰猛なものだよ」
彼はそう言ったが、その声音には苦渋が滲んで感じられた。
「でもあなたは、違う?」
「……僕はあまり好きじゃないな。こういう場所で穏やかに過ごしている方が良い」
ずっとサディロスは恐ろしい存在で、人間にとって敵なのだと思っていた。
けれど、本当はそうではないのかもしれない。
人間に色々な人がいるように、サディロスにも色々な人がいて、自分達が知るものはほんの一面に過ぎないのだ。
それなら、マリィがしたいと思えることは一つだった。
「あなた、お名前は?」
沈黙。問いを重ねはせず、じっと返事を待った。
もしかすれば、サディロスに名前はないのかもしれない。
そんな風に思ったところで、彼はボソリと呟いた。
「……アルム」
「アルム……アルムね! わたしはマリィ、よろしくねっ」
マリィは花が咲いたような笑顔を見せる。彼が名前を教えてくれたことが嬉しかった。
と、そこで日が落ち始めていることに気が付く。
「あっ、そろそろ戻らないと怒られちゃう」
マリィは来た道を戻ろうとするが、途中で振り返って、言う。
「またねっ」
アルムは戸惑った様子でそっぽを向いたが、悪い気はしなかった。
今はまだ村の人には言えないけれど、いつか紹介できればと思う。大切な友達として。
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