夢幻フラッシュバック

染谷優璃

『夢幻フラッシュバック』


 

 ある休日の日曜、午前十時。


 そう。それは、あまりに魅惑的すぎるのであった。

 この雪女がでるという季節がやって来る度、僕の視界に勝手に現れ、入り込んで来る。


 僕の確固としたその決意さえ、さも簡単に揺るがせてしまう。


 ああ、なんとも罪深いそれ。

 僕の手をすっと取っては、その場所まで伸ばさせ、触れさせるよう仕向ける。


 それによって生じてしまう損害が、脳裏によぎり、わずかに残された理性で



 「いけない。だめだ。そんなこと…。」



と首をぶんぶん振って反抗し、踏み止まらろうと努めるも、躊躇しようとするも、やはり完全に抗い逃れられずに揺らいでしまう僕がいて、それとにらっめこし合うのだ。


 押し手を引っ込めを、繰り返させ結局は誘惑に負ける。


 僕は、使うことを必死で我慢している電気代の金額がもったいなくて使えない、恨めしき床暖房のスイッチボタンをじーっと凝視した。


 すでに朝食を済ませた僕は、寝台の上の羽毛布団をずっぽり被って、震える寒さを凌ぐように腕を両手でさすっている。


 スマートフォンのネット通販で“こたつ”と検索し、誘惑に負けて購入した後、そのままだらだらと、憂さ晴らしをするように液晶画面を、数時間もの間、ひたすらスクロールし続け、ネットサーフィン。



 お昼過ぎまで自室に篭っていたが、ついに停電力モードを了承し、スマホを充電コードに繋いだ。



 ふと、鼻を啜るとこの世から現実逃避している間にハウスダストやダニのせいかアレルギー性鼻炎とアレルギー性結膜炎が発症しているのに気がついた。



 つらいつらい、と心中で延々と嘆きつつ、近くにボックスを常備し、むずがゆい鼻を箱のお口から取り出したティッシュペーパーでかみ、目をごしごしとこする。


 もやもやっと霧がかかったように頭がぼうっとする。



 アレルギー症状の催す鬱々とした気分に耐えられなくなった僕は、とうとう長袖セーターに厚手のパジャマセットを着用。

 足に分厚い毛糸の靴下を履き、ベットに登って、畳に敷いた布団にくるまる。



 とうとう僕は、夢の国へと入国する手続きをすっかり済ませてしまった。


 湿った空気が、蒸し蒸し充満した部屋の窓にぼつぼつと雨の水滴を打ち付ける薄いガラスの壁。

 僕はそこから見える外の様子を、いつまでも夢と現の境の中を彷徨いながら、ぼんやりと眺めていた。



 湿った道路のアスファルトの上を、時折滑って行く自動車のゴムダイヤ。

 何に苛立っているのか、小豆色のヘルメットを被った若者の運転手が高速で飛ばして行くバイクのエンジン。



 そんな憂鬱な日独特の聞いているだけで、むさ苦しくなってしまうような、サァーと流れては通り過ぎていく騒音。

 静寂を響くそれら混沌が漏れる度、あっという間に通り過ぎていく一日のテンポを、代弁者のごとく物語ってくれる。



 どれくらいの時間が経ったのだろうか。


 僕は心機一転し、気分を切り替えようと頬を両手でぱちんと叩き、普段着に着替え、開けっ放しのクローゼットのハンガーに掛けてあった、適当なモスグリーンのジャケットを羽織って、傘立てからビニール傘を取り出し、散歩をしようと家を出る。


 天を仰げば、どす黒い雲たちがぶわっと湧き上がっていた。

 ひんやりとした空気は、僕の身体に纏わりついて、それを 憐れむように冷たい風が吹き抜ける。

 この世界の汚れは、その雨水のシャワーを浴び、それに洗われ、流れていく。


 砂利道の上を歩けば、この世界がぼんやり透けて見える透明な傘に、ぼつぼつと触れたその一滴一滴が重く感じられる。

 彼らはビニールに跳ね返り、地面に落ちて砂利道に染みては消えていく。


 その様が掴みたくても掴めない、歯痒さやもどかしさを抱かせ、どこか虚しく思えてしまうのはなぜだろう。


いつも単調で、陰鬱で物悲しい旋律のクラシックのグランドピアノの楽曲ばかり演奏する彼は、今日は珍しく鍵盤を弾き間違えてしまったようで、少しそのメロディーが耳に障り、そう感じてしまう心の狭い自分にも、嫌気が差した。


 近所の一戸建ての家に暮らす隣人の大事な一人息子である少年は、今日も単調な物悲しくて聴いていると陰鬱になってしまうクラシック音楽ばかりをピアノで演奏していた。


 刹那、珍しく鍵盤を弾き間違えてしまったようで、その不協和音が耳に障り、そう感じてしまう心の狭い自分にも、嫌気が差した。


 ここへ引っ越してきたばかりの彼と遭遇したあの日を思い出す。


 今より一回りも小さい姿の彼は、公園の石に靴を引っかけ転んでしまう。


 彼は、自分の膝小僧に真紅の花が滲んでいくのを見ると、


“痛いよー。誰かーー。”


とでもいうように、


『うわぁーん』


と大声で泣きはじめた。


 僕は、


『大丈夫?ほら。』


と聞いて、安心させようとにっこり微笑んで手を差し伸べると、立ち上がった彼の頭を撫でて


『えらいえらい!ほら絆創膏。』


と手渡しつつ、本当は別にそれぐらい平気だろ、甘ったれんなよと内心では考えていた。


 そこに彼の母親が駆け寄ってきて、頭をぺこりと垂らして、


『あら、ごめんなさい。この子ったら…。本当にありがとうございます。大丈夫?歩ける…?立とっか。』


 心配そうに顔を歪める母親を見て、なんてこの子は恵まれているのだろうと思った。


 僕の母は、僕が転んだ時にまず側にいなかった。

 僕が朝になるまで公園で野宿して、家に帰らなかったとしても気づかずに、


『いたのね。』


と言葉を投げる、そういう人だった。


 いい大人の癖して、彼は何にも悪くないのに妬んでしまう。

 所詮、僕は自分が母とは違う人間だと確認するために人に親切にする偽善者に過ぎない。

 彼は何も悪くない。

 そんなことちゃんと分かっているのに妬んでしまう。


 そんな、冷酷無慈悲で意地の悪い自分が大嫌いだった。

 もっと、心から人を想い、心配してあげられる、そんな優しい人間でありたかったんだ。


 そう物思いに耽っていたまさにその時、僕は細く流れていく赤い糸の幻覚を見る。

 それは、まるでずっと忘れていた記憶を紐解かれていくような不思議な感覚を与えた。


 そして、それが消えると、目の前に女性が現れる。

 傘は持っておらず差すことができずに、雨に濡れてしまいながら、うずくまっていた。


 ひどくやさぐれ、ぼろぼろでぐちゃぐちゃになり、ショックでやつれ、青ざめた顔をしている。

 情けなく惨めであさましい姿。


 僕は彼女の黒曜石のような瞳と目が合った。

 彼女の目からは雨粒ではない雫が垂れており、


“助けて。”


と言っているようだった。


 ああ、これは、運命と評したとしても決して大袈裟でも過言でもなかったと思うのだ。



 その刹那、まるで雷に撃たれたように確かにふたりの間で永遠に時間が止まって途切れた。

 次の一瞬は、確かに何億光年にも感じられたのだ。



 僕の今まで歩んできたすべての足跡が、このアスファルトに重なっている意味が分かった気がした。



”ああ、やっと会えた。”



 そんな支離滅裂な言葉が脳裏に浮かび上がる。

 まるで雷に撃たれたみたいだった。



 僕は、はたから見ると呆然とでくのぼうのように動けずに突っ立って女性をほけーっと見ている変態だったと思う。


 でも僕にとっては、その時、この世に生まれ出て初めて心から人を想った瞬間だったのだ。


 彼女の心情が自分のことのように感じられ、なぜだか涙がとめどなく溢れそうになって、彼女に何かしてあげなければならないという義務感を覚える。


 確かに僕の中でこんなにも綺麗で脆く儚い、まるで人らしいこんな衝動的で、情熱的な感情が存在しているのだということを知った。


 今すぐ抱きしめてあげなければこの子は消えてしまうんじゃないかって不安と恐怖に襲われ、気づけば、無我夢中で彼女の頬に手を伸ばていた。


 彼女のすべすべした乳白色の肌は、雨に濡れ、しっとりとしていた。

 思えば、こんなに突発的な誰かを想うだけの感情で物事を判断し、決断してしまったことは初めてだった。

 その時、僕はやっとはっとして、現実に戻った。



「ここで待ってて。」



 僕は、彼女が少し驚いた顔で小さくこくんと頷いたことを確認すると、差していたビニール傘の柄を半ば強引に彼女の手に包み込ませ、それを渡す。


 そして、一目散に走って家に戻った。



 面倒くさいがために後回しにし、まだ畳んでいなかった籠に入った洗濯物の山の中。

 それに手を突っ込んで漁り、掻き分け、見つけ出した、道中、雨に打たれやや濡れてしまったものの洗い立ての柔軟剤の白薔薇の花の匂いが強く漂う真っ白でふかふかのタオル。



 彼女の普段はもっと艶やかで綺麗だと想像できるぐしょぐしょになった長い黒髪をそれで拭いてやった。



 彼女はまるで迷子になってしまった子猫が母猫にやっと再会でき、甘える時みたいなみたいに、僕の腕の中ですがるようにわんわん泣きじゃくっている。



 僕は不思議と彼女の気持ちが手に取るように理解できた。



 まるで、空には月も星もないただの闇夜だけが広がり、この世のすべてから自分という人間が忘れ去られてしまったような。


 ひどく寂しい孤独感に苛まれ、負の感情が渦巻くブラックホールに堕ちていく。





 僕も、ずっとそんな感情を抱いていたから。




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