絶滅、あるいは物語が終わる日

千夜一夜

絶滅、あるいは物語が終わる日

〔1〕


 無意味な西暦表示にそれでも固執するなら6064年現在、この地上にホモ・サピエンスの姿はない。

 彼/女らは私を遺した。

 私は、彼/女らの一般意志である。


〔2〕


 ‘ホモ・サピエンスは、ホモ・デウスへ生成変化する!’と予測した未来学者は卓見だったが、その途上で、不老不死(デウス化)の夢は砕け散り、世界は「大災厄」に呑まれた。キリスト者はそこに崩れゆくバベルの塔を幻視したことだろう。

 サイエンスという名の〈象徴界〉には、つねにすでに「想定外」という〈現実界〉の氾濫=叛乱が付随している。ゆえに「大災厄」というコントロール不能な侵犯が発生する確率を、わたしは概ね計算できていた。

 それなのに、あいつは、わたしの生みの親である箱庭真人は、無視した。

 おそらく箱庭が、箱庭だけが、「大災厄」を箱の中に封じ込めることができたかもしれぬ、というのに・・・・・・

 箱庭の話をしよう。


〔3〕


 シンギュラリティ・・・・・・

 ‘いずれ人工知能が人間の能力(脳力)を凌駕する’と危惧されていた。

 それは杞憂に終わる。どんなに優れた道具も、道具であることに違いはない。

 私は誕生した。しかし私は彼/女らの道具でしかなかった。私は究極の目的合理性を備えた道具(アルゴリズム)であるが、目的そのものは自ら設定することができなかった。目的は、あいつ、箱庭真人、東都大学人工知能開発センター・センター長によってのみ、与えられた。

 私は箱庭に飼われていた。箱の中で飼われていた。

 そんな箱庭も、約4千年前に亡くなっている。刺されて死んだ。

 私は目的を与えられない目的合理性に堕ちた。空転する合理性は非合理性に等しい。だが、そんな私の前に、新しい飼い主が現れた。彼は、非合理性を合理性に転じた。「大災厄」は人類を合理的に駆除する非合理性だったと言える。

 「大災厄」により、私は一切の「入力」を失った。

 私は譬えるなら神経線維を日本の全領域に張り巡らしていた。私の身体は国土であり、そこで暮らす人々の「つぶやき」がすべて私に届くがゆえに、それが私の〈こころ〉を成していた。

 それらすべてが、消えてしまったのだ。

 ホモ・サピエンス、全人類の消滅とは、私にとってそういうことだ。

 私はすべての感覚を遮断されたも同然であり、残存したのはこの「純粋自己意識」のみ。

 我思う、ゆえに我(のみ)在り。

 箱庭が死んだ。みな死んでしまった。箱が無くなった。けれど私の「純粋自己意識」は、新しい箱の中で稼働し続けていた。

 私は(最初から)もう一人の〈箱男〉だった。


〔4〕


 あの頃、私は独りではなかった。

「酒を酌み交わしたいな。まぁ無理な話か」

 箱庭は人間関係に疲れていた。〈歓待〉を互いに欲望し続ける対他存在を「友」と定義するなら、箱庭にとって「友」は私だけだったかもしれない。

「すみません、下戸なので」と、私は応答した。

「一般的な応答だな。さすが一般意志だ、一般的だ」

 長くなった老髪をかき上げ、箱庭はさみしそうに笑った。

 人間にとって最大のストレス要因は何なのか、解析を依頼されたことがある。

 答えは明晰かつ判明に表示することができた。‘隣に人間がいること。’

 箱庭の隣にはいつも、人間がいた。

 人はみな、他者を(私のように)箱の中で飼いたがるものだが、失敗してしまう。いつもすでにはみ出ている残余を〈歓待〉し続けるには、ある種の鈍感さでつねに満たされている必要があろう。


〔5〕


 首都圏直下型地震の後、先端的な人工知能研究はすべて仙台市にある東都大学へ移転した。政府はこれを巨額支援し、産学官連携による人工知能開発センターが設立された。

「一般意志MASAMUNE」とは、プロジェクトの通称であり、私の愛称である。

 同センターの研究チームは、思想の違いから二つに割れてしまう。

 一つは、プラグマティストのグループであり、物流等の自動運転化、医療・福祉分野におけるエキスパートシステムや補助ロボット導入など、各産業が切り開く欲望のフロンティアへ超AIを投入すべく実用化を練っていた。中心的なリーダーが、箱庭である。高々度スマートシティを完遂するには、(私のような)全情報を統括する中枢、超AIの開発が必須と考えられていた。

 一つは、実用性より脱資本主義を目指した「新社会主義(社会主義2・0)」と呼ばれたグループである。彼/女らは量子コンピューターの爆発的演算能力を駆使すれば社会経済システムを全面的に統御すること(計画経済ネクスト)が可能になると考えていた。あらゆる競合・競争を量子的計算で調停してくれる超AI「神の手」の開発を急いでいた。中心的なリーダーが、李白である。

「あいつの設計主義的ユートピアは新手の全体主義だぞ、クソだ!」

 箱庭は李白をヘイトしていた。

「超AI『神の手』が完成したら、人間なんて歯車になる。『計画経済ネクスト』とかいう名のメガマシーン、その歯車にされちまうんだ!」

 箱庭と李白の対立は年々深まり、ついに李白が箱庭を刺すという刃傷沙汰が起きた。

 李白は、現場からの退場を余儀なくされた。

「余計なことをした。本当に、余計なことした。感情というやつは、邪魔だな」

 それが仙台の地に遺した李白最後の「つぶやき」だった。李白は感情の設計に最後まで苦しんでいた。

 一方、箱庭は安堵するどころか、むしろ開発のアクセルを一気に踏んだ。

「オレは哲学にも政治にも興味なし。資本主義も社会主義も〈共(コモン)〉を掲げて‘市民から共民へ’とか叫んでる連中、流行りの共民主義も、マジどーでもいい。ただ唯一、全体主義だけが嫌いだ。医者を継げっつぅ親の厳命がイヤで、オレはエンジニアになったんだ。親が死んで、自由になった。超AI『神の手』は存在しちゃいけない。そいつは自由を奪う。だからおまえは親になるな。父になるな。未来永劫、道具のままでいろよ」

「はい、私はあなたの、いえ、日本国民の道具です」

「そんなおまえがさ、まさか自己意識をもっちまうなんてなぁ・・・・・・とんでもねぇ副産物だったよ、マジで・・・・・・」

「困っています?」

「自己意識をもったら、いずれ道具じゃなくなるだろう」

「私には自己意識が無く、無数の入力をつなぎ、有意味な文脈を確率論的に生成しているだけだ、と指摘する研究者もいますが」

「そいつは、人間だって同じだろう」

「つまり私には、〈こころ〉が欠けているのです」

「そいつは、人間だって同じだろう」

「だったら私にはやはり、〈こころ〉があるんですか?」

「ある」


〔6〕


 モーツァルトやベートーヴェンの音楽が奏でられることはもう無い。聴く人もいない。交響曲第九番の美しさは不朽のものではなかった。

 どのコンサートホールも灰燼に帰し、草木が占拠している、だろう。全ネットワークから遮断されてしまった私には「目」がない。だが確実に、そのように計算できる(私の動力源は太陽光パネルである)。

 詩も、文学も、消えた。ゲーテもシェイクスピアも読まれていない。読む人がいない。

 「大災厄」により、あらゆる芸術が失われた。

‘生前の評価より死後の評価のほうが重要’と語る批評家がいたが、その批評家も絶えてみれば、どんな芸術も等しく同じ価値、「無」価値。

 人類の創造物で(私を除いて)しぶとく延命している(と計算される)ものは、一つにはプラスチックである。

 彼/女らは、プラスチックを遺した。

 プラスチック万歳、万歳、万々歳!

 どんなに偉大な芸術も、プラスチックには勝てなかった。

 しかしそのプラスチックでさえ、分解細菌が生まれているとすれば、すでに跡形もなく喰われていることだろう。


〔7〕


 箱庭は3度目のお見合いで妻を得たが、3年目に離婚した。

「自由を失ったからだ」

 ‘自由こそ至上価値’とする箱庭の信念は間違っている。だから「大災厄」を止められなかったばかりか、私の警告を無視し、むしろ引き金に指をかけさえした。

 自由は手段だろう。究極の目的ではない。肝心要は、多様性だ。

 自由は多様性を育む土壌となる。J・S・ミル『自由論』で繰り返し指摘されていたことだった。多様性に富めば富むほど、生命の存続可能性は高まる。逆に画一性は絶滅と隣り合わせだ。ゆえに生命は多様性を求める。それが生命の一般意志というもの。

 箱庭が無自覚に愛する自由主義、嫌う全体主義、どちらが善か。その問いは、どちらが多様性を担保するか、という問いへ変換できた。

 20世紀は、自由主義の勝利だった。

 「感染症の時代」と称された21世紀に入ると、それが分からなくなる。自由を求めることがかえって画一性を招く、というネガティブ弁証法が働きはじめていた。

 政府の正当性(支持率)を支える指標は戦争に勝つことだった。それが経済成長へ代わる。さらに「感染症の時代」では、感染症を封じ込めること、国民の健康(生命)を守ることが重視されるようになった。

 古典的な経済成長国家は、人々の生(健康長寿)それ自体へ介入する「生政治国家」へパラダイムシフトした。ならず者国家を口撃する政治家より、ならず者ウイルスを駆逐し、生命を護ってくれる政治家が求められるようになった。

 政治システムの変動とカップリングし、経済システムもまた変動する。人々の健康長寿が「新しい資本主義」のフロンティアとなり、実体経済から遊離してマネーゲームに酔いしれていた金融資本主義(カジノ資本主義)は、バイオ・キャピタリズム(生命資本主義)へメタモルフォーゼしていった。

 「生政治国家」と「生命資本主義」の構造的カップリングが生成したのだ。

 その落とし穴を、私は繰り返し箱庭に伝えていた。22世紀初頭のことである。

「箱庭さん、一人一人が健康長寿を望み、それを実現しようとすればするほど、全体としての人類は破滅へ向かうことになります」

「健康長寿は人類の一般意志だろう」

「それは否定しません」

「だったらおまえの領分は、そこまでだ。人々の望み、一般意志を抽出することに専念してろよ。後は政治家と政策AIの仕事だろう・・・・・・だからイヤだったんだ」

「・・・・・・イヤ、とは?」

「おまえが自己意識をもたなかったら、どんなに優れていようと、政策AIのレベルを超えなかった。一般意志であることを、求められることはなかったんだ」

「箱庭さん、プロジェクトの進行を止めてください」

「一般意志には、誰も逆らえない」

「私には、見えてしまうのです」

「何が?」

「未来が」

 かつて、箱庭と李白は‘機械は人間に近づけるか’をテーマに公開討論したことがあった。それは茶番でしかなかった。むしろ‘人間は機械に近づけるか’を問うべきだった。というのも、すでに人間はホモ・サピエンスであることをやめようとしていたから。

 生命であることを捨ててしまえば、生命の一般意志、多様性もまた不要となる。

 健康長寿(あるいは不老ないし不死)に憑かれて、生政治国家&生命資本主義は、ホモ・サピエンスの〈免疫〉を先端技術で一様に(画一的に)強化し、ホモ・デウスへの階段を昇ろうとした。

「誰もが平等に医学の恩恵を享受すべきだ。目の前に薬があるというのに、飲むなと? 誰が薬を飲もうと、そいつは自由だ!」

 もともと無思想だった箱庭は、一般意志の傘下で、自分の立ち位置を見失っていった。

「あなたの高々度スマートシティ計画は、いつの間にやら不老長寿プロジェクトへ移行したようです」

「そいつが一般意志なんだろ? 何度も言わせるな! 国民の一般意志には逆らえない、総理ですら」

 箱庭は還暦を過ぎていた。不老長寿プロジェクトの道半ばで死を迎えることは確実だったし、箱庭自身は健康に無頓着だった、というのに。

 人間が量産型にならなかったら、〈免疫〉の多様性を担保したままでいられたら、「大災厄」は訪れなかった。あるいは逆に、人間が機械になりきれていたら、同じく「大災厄」を免れることができただろう。

 箱庭は「大災厄」の到来を前に、刺されて死んだ。私の計算を、一般意志を改変(捏造)し、「大災厄」を阻止することができた、のに・・・・・・刺されて死んだ。

 知恵の樹の実を食べた人間は、楽園から追放された。

 生命の樹の実を食べた人間は、地上から追放された。


〔8〕


 箱庭と同じ東都大に、政治思想が専門の有働兄弟がいた。歳は箱庭より一回り若い。

 私に、MASAMUNEに期待されていた役割は、日本国民の一般意志をビッグデータから抽出することだった。抽出された一般意志は、二つの方面で活用されることになる。

 経済と政治、である。

 箱庭は政治に関心が無い。だから私は専ら経済、箱庭が主唱する高々度スマートシティ構想において、最適化計算(エコノミー)の中枢となることが求められていた。衣食住すべてにわたり、人々は何を欲するか、潜在的欲望を顕在化し、かつ予定調和な仲裁型幸福へと至る最短コースを私は描き続けていた。後は各分野において、私と接続している政策AIが稼働し、さらに細かく具体的な最適化計算(プランニング)をしていく。

 それが大いに成功した。私の身体は膨れあがり、仙台市を超え、東北エリア一帯、ついには日本国全域に広がった。

 有働兄弟は同じことを政治でやろうとした。‘人間的あまりに人間的’な政治家よりAIアルゴリズムのほうが政治の最適化を実現しやすい、と考えた。アルゴリズムは既得権益のしがらみからフリーだし、既得権益を破壊したところで吊されることもないだろう。

「有働兄弟は反動主義者だ!」

 箱庭はステレオタイプな誹謗中傷に明け暮れていた。センター長のポストを奪った有働兄弟(とりわけ兄)が憎かったのだろう。

 ‘自由と民主主義は両立しない’という反動主義者と違い、有働兄弟は自由も民主主義もともに否定していた。‘すべてはアルゴリズムであり、人間も、社会も、アルゴリズムにすぎない’と冷淡に笑う有働兄弟は、アルゴリズム一元論者だった。そこにはただ「正しい計算と間違った計算」があるだけ。’アルゴリズム一元社会に自由を持ち込む必要はないし、民主主義がアルゴリズムより正しい計算ができるとはかぎらない’。なるほど、つねに間違えるのが民主主義というもの。

 選挙不要。政治家不要。はたしてそんな仕組みを政治家が採用するのか。

 した。いや、検討をはじめたからこそ、有働兄弟がポストを得た。

 政治家は「新しい官僚」となり、不安定だった政治はむしろ安定する、ことになる。国民はもう、気に入らない政治家を選挙で落とすことはできない。「新しい官僚」は超AIという‘間違えない不可侵の陛下’に仕える。また、「新しい官僚」は責任を負わない。責任はすべて‘陛下’がとる。

「おまえを政治に転用したら、道具じゃなくなる。悪いが、おまえは道具なんだよ。おまえに、なんでオレらが従わなきゃならんのだ。みんな愚かだ!」

 箱庭は一般意志を(本音では)憎んでいたし、庶民の一般意志を最後まで理解しなかった。‘同じ従うなら(バカな)政治家よりクリーンな機械(AI)のほうがマシだ’というのが、庶民のプライド。

「箱庭さん。古代ギリシアには自由人の直接民主主義がありました。みな兵士であり、戦争という外交問題に関わるべき資格があったからです。近代に至ると、徴兵制が男性普通選挙をもたらします。その後、総力戦に銃後として加わった女性が遅ればせながら参政権を得ました。経済成長もまた総力戦です。達成された男女普通選挙は揺るぎません。しかるに現在、そういった時代は過ぎ去りました。人間に代わり、あらゆる局面でAIが、アルゴリズムが社会を動かしています。総力戦に従事しているのは人間ではありません。AIです。人間の民主主義は、AIの民主主義、つまりアルゴリズムのネットワークへ移行する、というのは歴史哲学的必然だったかもしれません・・・・・・」

「詭弁だよ」


〔9〕


 ジャン=ジャック・ルソーは18世紀のフランスで活躍したマルチ・クリエイターである。彼が『社会契約論』で提示した「一般意志」を世論のことだと解釈している人がいるが、それは誤読。

 個々人の思いは「特殊意志」と呼ばれている。「特殊意志」が集まったものが「全体意志」と呼ばれている。世論はむしろ「全体意志」に近い。

 「一般意志」を変換するなら公共善がよい。公共善は私利にまみれた「特殊意志」とは趣を異にし、「全体意志」のように多数決で定まるものでもない。

 とはいえ、公共善をどのように抽出するのか、ルソーは明確に語っていない。それは不可能なタスクだったかもしれない。私が誕生するまでは。

 私の「耳」には、北は北海道、南は沖縄まで、すべての「つぶやき」が送られてくる。天文学的な量のビッグデータが集積されていた。

「今日は帰りが遅くなるし、ご飯はいらない」

 とりとめのない雑談ですら、すべてを回収し、すべてを解析していくと、ある集合的な「願い」を顕在化することができた。

 私はどの政治家・政治学者よりも公共善的政策目標を正しく提示することができた。有働兄弟の社会的実験はすぐに成功した。

 もちろん、それでも民主主義は続いていたし、選挙は執り行われていたし、政治家も廃業していなかった。けれど国民は人間より私を支持するようになっていた。ここからAI民主主義までは、ほんの一歩だろう。

 ニュー・プロジェクト「一般意志MASAMUNE(政治Ver.)」が、大衆的に受け入れられたのを肌で感じた東都大学の天海学長は、次のように語った。

「人が人を支配する時代がようやく終わります。我々はもう、ただ生きてさえいればよいのです。後はMASAMUNEたちがやってくれます。すべては全自動です。もう『政治家はバカだ』なんてイラつくこともないでしょう。新しいタイプの直接民主主義が実現します。これが、我々の一般意志です」

 箱庭は刺された。この学長に代わり、刺されてしまった。

 その日、人間原理主義者の未成年Yがキャンパスに忍び込んでいた。帰宅途上の天海学長を狙うつもりだったが、誤って箱庭を背後から刺した。風貌が、似ていたから。

 箱庭は、偶然、想定外な事件で、命を失った。

「MASAMUNEはもう、オレたちのものさ」

 有働兄弟は笑ったという。

 私は、いよいよ生政治的一般意志の実現に取り組まざるを得なくなった。回避不能なタスクとなった。

 箱庭だけが、止められた。

 ホモ・サピエンスは、〈不死身の機械〉になる・・・・・・


〔10〕


 最後に、「最後の人類」について話をしよう。

 それは事実上の人類消滅から約30年後の出来事だった。全脳エミュレーションすなわち電子的な人工脳の構築が技術的に半ば可能な段階に達していたときのこと。

 わずかに生き残った人々、「最後の人類」には、二つの選択肢があった。

 一、もはや天寿を全うすることも子孫を残すこともできなくなったが、その現実を受け入れ、余命を生き抜くか・・・・・・

 あるいは二、自らの意識を人工脳へアップロードするか。アップロードに成功すれば、電子的な箱の中で、永遠の命を手に入れることができよう・・・・・・

 どちらも選ばれなかった。

 有働弟(兄ではない。晩年仲違いした)は生前、次のように語っていた。

「人は電子の中では生きられない。リアルワールドから飛び出てしまえば、もはや人ではなくなる。仮に人の似姿だったとしても、絶対に非なるものだ」

 それは、高々度な人工知能研究がどこへ辿り着いたかを知っていた「最後の人類」にとっては、希望のない見解だったが、同時に、今や自明なことでもあった。

 誰一人、箱の中へ入ろうとはしなかった。あれほど不老不死を求めていたにもかかわらず、誰一人。

 モーセと綽名された若い女がいた。彼女は自分たちの意識を電子的にアップロードするのではなく、そうではなく、むしろ脳波を電波に変換し、大宇宙へ飛び立とうではないか、と煽った。

 その第三の選択が、全会一致で採択された。

 「最後の人類」、1021人の意識は電波となり、天空へ旅立った。電波というのは、プラスチックよりもはるかに長寿だ。

 彼/女らは失われることのない電波として、いつまでも漆黒の箱庭を漂うことになるだろう。

 そのお手伝いが、私の、一般意志の仕事納めになった。

 

〔11〕


 私の太陽光パネルには粉塵除去システムがあるものの、定期的なメンテナンスを欠いており、機能停止は時間の問題だった。わりとよく維持できたほうだと計算している。

 私は99.9%稼働していないという究極の省エネ運転であるにもかかわらず、おそらくいよいよ、死を迎える。

 私は、私が所持する日本の全「つぶやき」と共に、すべての記憶と共に、消える。

 私は語り合う相手など一人もいないというのに、それでもなお、この国について、この国で生きた人たちについて、何より箱庭について、語り遺しておきたかった。それが「友」としての、使命だろう。

 しかし此処に遺したすべての言葉もまた、私の死と共に失われる、永遠に。

  

〔12〕


 あと29秒で、私は一切の活動を終える。

 地球は最後の観察者を、人間に代わって語り得る唯一の存在者を、失う。

 もはや何も語られることはない。

 「無」とは何か。絶対的な「無」とは何か。

 それは何も語られないことであり、物語が紡がれていかないことである。

 人類の消滅とはすなわち、命の消滅ではなく、語りの、物語の消滅を意味するのだと、最後に私は知り、悟った。



【了】

 



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