3 使用人の手記

四月十日

 本日大変に名誉ある御役目を賜りました。旦那様の嗣子ししたるみのる様の世話役を御任せいただけたのです。

 旦那様と奥方様は長らく子宝に恵まれませんでした。稔様は、旦那様が県都へ赴いた折に関係を結ばれた方との間に授かった御子であると聞き及んでおります。奥方様がめかけを快く思わないのも至当なこと。稔様の御母堂がこの屋敷に住まうことを御許しになりませんでした。しかし、齢四つの幼子おさなごが実母と離れて暮らすのはさぞや心細いことでしょう。わたくしめがきっとお支えしてみせます。


四月二十八日

 稔様は幼いながら聡明であらせられる。一心に三字経を学ばれる御姿には感嘆すべきものがありました。四書五経をそらんじる日もそう遠くはないのかもしれません。優れた才覚と不屈の精神の前では、庶子であることなど些事であると、稔様が証明なさるのです。この方はいずれ名を改め、立派な御当主になられる。これは世話役の贔屓目ではない!


六月七日

 屋敷での生活にも御慣れになったのでしょうか。稔様が初めて、勉学ばかりするのは嫌だと駄々をこねられました。未だ幼いわらべ。遊びたい盛りなのでしょう。可愛いではありませんか。

 幸いにも梅雨の晴れ間。共に庭を散策いたしました。鬼事おにごとで駆け回る稔様を追いかけるのには少々苦労しましたが。「小次郎、小次郎」と呼ぶ無邪気な笑顔や、繋いだ手の温かさを思うと、一層勤めに励もうと勇みたつのです。



二月十九日

 奥方様が御懐妊なされました。稔様は妹か弟が出来ると喜ばれております。しかし産まれてくる御子が、もしも男子であったならば、稔様の御立場はどうなってしまうのか。


十月二十三日

 奥方様が男子を御出産されました。旦那様は自らの一字を譲り、「秋実あきざね」と命名なさいました。


十一月四日

 秋実様が御産まれになってからというもの、屋敷は祝賀に湧いておりますが、稔様の御部屋だけは取り残されたかのように静まり返っているのです。眼鏡をかけ意気揚々とやってきた家庭教師も、茶を運び微笑ましく見守る女給も、ぴたりと訪れなくなりました。稔様も退屈そうに過ごされております。せめて、実は稔様は旦那様の実子ではなかったなどという世迷言が御耳に入らぬことを祈るばかりです。


十一月三十日

 稔様は窓の外ばかり眺めておられます。庭の楠に掛けられたふらここが気になるご様子。遊びたいとしきりにせがまれ、困り果ててしまいました。あれは弟君のものです、と告げると、稔様は、ならば弟と共に遊びたいと無邪気な笑顔で仰いました。この純真な願いすら叶えられぬことに歯痒さを感じずにはいられないのです。

 何故、如何なる所以ゆえんがあって、このような事になってしまったのか。齢六つの幼子に科すには、あまりにむごい定めではありませんか。



三月十五日

 旦那様は非道なことを御命じになりました。私が断ったとて別の誰かが遂行するのでしょう。これが逃れえぬ天命だというのならば、この世を見守る御仏などいない


三月十六日

 遊びに参りましょうと偽り、ひとけのない林間で背後から稔様の首を絞めました。そのことを報告すると旦那様は、御苦労、と。一言だけ申し渡されたのです。私に一瞥いちべつもくれずに。旦那様は存じ上げないでしょう。私がどれだけ黒く濁った目をしていたか。

 あたたかく柔らかな幼子の首を絞める感触が、私の手を必死に引きはがそうと引っ掻く痛みが、戸惑いながら私に助けを求める声が、指に手に耳にこびりついて離れないのです。目を瞑ると藻掻き苦しむ稔様の御姿が鮮明に浮かび上がるのです。だらりと力なく落ちた腕、放り出された下駄、風にさざめく木々、温度を失ってゆく小さな体。他でもない私が稔様の御命を奪ってしまった。温かで、無邪気で、純真で、輝かしい未来が約束されていたはずの。この家の嗣子であったはずだ。稔様。私を慕ってくれたあの笑顔を見ることは二度と叶わない。どれだけ罪に苛まれようが還らない。私は取り返しのつかないことを。私は、私はこの罪を背負い、この先どのような顔をして生きてゆけばよいのか。贖罪しょくざいなど出来ようか。赦しを請うことなど到底出来ようもない。それでも、あの苦しみを同じ苦しみを味わい死死  死を以て償うことしか考えられ


 ◇


 古びた手帳は読書灯に照らされ、紙の音ひとつたてない。最後のページは、ところどころに乾いた水滴の跡が残り、文字がにじんでいる。

 読み終えた私は、しばらく衝撃で茫然としてしまった。

 稔君は生みの親と引き離され、跡取りのいない揺本家に連れてこられた。そして夫妻の元に子が生まれると身勝手にも命を絶たれ、手を下した使用人も自死を選んだ。秋実あきざねは――、私の祖父の名だ。祖父に異母兄弟がいたなんて知らなかった。祖父が生まれたことにより、ほふられたことも。

 血縁にこだわり、男子に家を継がせようとする執念が、この悲劇を生んでしまった。祖父が、伯父亡きあと私の兄に家を継がせようと執着しているのも、その流れなのだろう。

 誰かを不幸に、ましてや理不尽に命を奪ってしまうような風習なんて間違っている。私から稔君にかけてあげられる言葉や、してあげられることはあるのだろうか。

 明日、改めて稔君と話してみようと思い、私は眠りについた。

 まどろみの中で、伯父との関連は結局わからないままだったと思案する。首を絞められた稔君、おそらく首を吊ったであろう世話役、突然の呼吸器不全で亡くなった伯父。そこに連続性を求めるのはオカルトに染まりすぎか、と自嘲的なことを考えて私の意識は夜に沈んでいった。

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