第5話 ナイトメア再び

 0時に夢で姫と待ち合わせだ。

 なんとも不思議な事になったものだ。

 時間を決めて二人で会うとか、まるでデートではないか。夢の中だけどな。まあでも、浮かれている場合ではない。


 とりあえず遅れないように、早々に寝る準備を済ませる。昨日散らかしてしまった部屋を片付けるのに手間取ったが、0時までに終える事ができた。

 しかし、いざ寝ようと思っても、すぐに寝付けるものではない。部屋の電気を消し、ベッドに入り、ゴロゴロする。ふと時計を見ると、直に0時になりそうだった。


 そろそろ寝よう。そう思うのに、寝ようとすればするほどに目が覚めてくる。時間通りに寝るというのが意外に難しい事に、初めて気付かされた。

 なかなか寝付けないときは、呼吸をゆっくりにしたら眠りやすいという話を聞いたことがあるので、努めて呼吸に時間をかける。五秒かけて吸い込み、五秒そのまま息を止めて、五秒かけて吐き出す。数回これを繰り返した。しかし効果は無く、無為に時間だけが過ぎていった。

 天井をぼんやりと見つめる。暗がりとはいえ、薄っすらと天井の模様が見える。この家は木造建築で、天井も木で出来ている。その木目をぼんやりと眺めていた。

 

「30分、遅刻よ」


 冷たい声音が耳元で囁かれる。声の主は、姫だった。


「お、おおぅ。いつの間に寝ていたんだ俺」


 眠った事で、夢の中で起こされるというなんとも訳がわからない事態だ。昨日の事が無ければ、さぞ混乱していた事だろう。

 周りを見回すと、予想通り、見慣れない自分の部屋だった。よく見ると昨日の部屋には似ているが少しまた家具の配置が異なっていた。昨日の事を覚えていたので、今回は騙される事はなかった。夢は自分の記憶で構成されているという話を聞くが、実際のところかなり細部はいい加減なものだ。


「まだナイトメアは現れてないか?」

「そうね。だから、まだね。でもすぐ来ると思うよ。気をつけて」


 姫の眼は、じっと周囲を警戒している。普段俺に見せているような、今にもいたずらしようとしている愉しげな眼とは違った、真剣な尖った眼だった。彼女の周りの空気がピンっと張り詰めていて、少しの変化も見逃さないといった意思を、彼女の全身から感じる。その震える空気が伝わって来て、俺の肌もピリピリしてくる。


 俺も、ぼうっとしている訳にはいかない。昨日と同様に、右手に木刀を出現させて戦う準備を整えた。やってみると意外を直ぐに出来るものだ。


 すると家具の隙間から、カサカサと音を立て、壁伝いにアーモンドの一回りでかいぐらいの大きさの虫が無数に這い出てきた。その虫は見たことのないものだった。六本足で、頭は明るい黄土色、黒い眼が無数にあり、身体も黒かった。見るからに生理的にぞわっとする。全身が粟立ち、反射的に眼を背ける。足元にも気配を感じて下を見ると、床にも無数に這い回っていた。全身が気持ち悪さで痒くなり、首元を掻く。手に違和感があり、掻いた手を見ると、潰れた虫が悶えていた。


「ふぁああああ!」


 悲鳴を上げて尻餅をつく。床についた手を虫が這い上ってくる。半狂乱になりながらそれを振り払う。


「隼人くん! 落ち着いて。これは幻覚よ。心を持って行かれないで。気をしっかり!」


 姫の声が聞こえているものの、そうそう簡単にこの生理的な嫌悪感を払拭できるものではない。見ないようにしてもカサカサいう音が、神経を削ってくる。


「焼き払うから、もうしばらく耐えて! Te tnedneccus mae ingi」


姫が呪文も唱えると、部屋中が青白い炎で包まれた。虫たちが燃え上がり、または散り散りに逃げ去り、あっという間にすべて視界から消えていった。俺自身も全身がその炎に包まれたが、熱くなく、そして不思議な事に無事だった。ただ、俺の身体に取り憑いていた虫は綺麗サッパリ消え去っていた。

 とはいえ、先程味わった生理的な嫌悪感は身体に残ったままで、脳裏に映像が思い出されては、身体が震えた。


「安心するのはまだよ。これから本体が出てくるわ。注意して」


 これで終わったと思っていた気持ちを見透かしたかのように、まだ続きが来ると姫は警告してきた。すると警告通り、部屋が異様な空気に覆われていった。壁という壁、そして天井、床までもが真っ黒なヘドロのようなものに覆われ始めていった。天井からはそれらが滴り落ちてくる。部屋中から、耐え難い腐敗臭がした。


「ぅえ、これはきっついぞ」


 吐くのを堪えながら踏ん張る。


「まったくね。


 姫はまたよくわからない事を言った。


「ここで仕留めるから、隼人くんは何とか踏ん張ってね。お願いよ」


 これは幻覚だ。つまりこの匂いは幻臭だ。姫が何とかするまで、俺の役目は正気を保っておく事だ。

 だが早くして欲しい。この酷い匂いと、そして周囲が真っ暗になって何も見えない状態になっている為、自分がどの方向を向いているか、立っているのかさえ怪しい。このままでは、耐えられなくなるのは時間の問題だった。


 暗闇の中から、昨日見たイノシシの唸り声が聞こえる。こちらの隙を伺って飛びかかってくるつもりなのだろう。どこに潜んでいるのかはわからない。なので、いつでも応戦出来るように、木刀を構え直した。

 ふっと、身体の脇を空気が流れる。その方向に、反射的に木刀でスイングする。掠った感覚があったと同時に、イノシシが吠えた。


「姫!」

「私は大丈夫よ。気にしないで。次、出てきたら仕留めるから、静かにして」


 お、おぅ。恐らく姫は、イノシシのちょっとした動きに注意を払っているのだ。飛び出してくる瞬間を狙い撃ちにするつもりなのだろう。

 邪魔してはいけない。そう、邪魔してはいけないが、姫が撃ち漏らしたとき、対応出来るように、俺も耳を済まして、微かな音も聞き漏らさないようにしなければ。


 すると足元の暗闇で何かが触れた。「せいっ」っと木刀を床に突き付ける。それが見事にイノシシに刺さったようで、木刀から逃れようと必死に藻掻いていた。


「Elleped sarbenet」


 姫が俺の足元に光の塊を放つ。光の塊を顔に受けたイノシシは首が吹き飛んで、その動きを止めた。

 暗闇が徐々に晴れていき、元の部屋に戻っていく。それに連れて、イノシシの身体も徐々に霧散していった。姫は、転がったイノシシの首をしゃがんで確認していた。


 しばらくして、姫が立ち上がったときには、イノシシの首は散り散りになって消えてしまった。姫が何を見たのかはわからなかったし、姫は何も言わなかった。


 彼女は、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情はどんな感情であっただろうか? 少し悲しげで、寂しげで、何かを諦めたような、そんな顔だった。


「隼人くん。今までありがとう。此処からは私独りでやるから」


 姫が、そっと呟く。

 

「え? なんで? どういう事だ?」

「もう、隼人くんが巻き込まれる事はないよ。だから、大丈夫」


 そう言うや否や、姫の姿は消えた。

 おい、どういう事だよ。それを教えてくれるんじゃなかったのかよ? その為に夢で会ったんじゃないのかよ。なんだよ。まったく。


 独り夢の中に取り残された。自分の夢の中だから取り残されるという言い方は合っていない。元々姫は外から入ってきたんだ。本来は此処に居なかった。だから今のこの状態は、元に戻った正常な状態なんだ。ただの自分の部屋として構成された場所に、俺が独り居るだけの夢の中。何ともつまらない夢だと思った。



 次の日、学校では異常な事態が発生していた。

 いや、異常といっても教室が崩壊しているとか、机がバラバラになっているとかそういう異常さではない。ただ単に、欠席者が3名居るという事だ。でもその欠席者が問題だった。欠席しているのは、鷹野希里、羽島亜紀、そして佐奈川由美の3名だった。


 そして彼女たちの欠席を聞いて、姫が直ぐに教室を飛び出したのだ。

 姫は今日もギリギリの時間に登校して来ていたので話すタイミングがなかった。そして話す前に、彼女は飛び出して行ってしまったのだ。この姫の行動が、昨日の件との関連を思わせた。姫はもう関わるなというような事を言ったが、このまま俺の知らないところで何かが起きて、何かが勝手に終わるのは納得いかなかった。だからなのだ、こうして俺が姫の後を追って教室を飛び出して走っているのは。


 学校の正門には、教員たちが見張りに立っている。それを知ってか、姫は正門を避け、駐輪場の奥の壁を登りフェンスを越えようとしていた。運動があまり得意ではないのか、登るのにたいそうもたついている。お陰で姫に追いつく事が出来た。

 もたつく姫の尻を下から押し上げてやった。


「きゃああああ」


 普段の姫とは全然違う、可愛らしい悲鳴を上げて、彼女はフェンスの反対側へ転げ落ちて行った。


「大丈夫かあ?」

「大丈夫かあ? じゃないぃぃっ! お前! お前! お前は何をしやがってたあ?!」


 これまた珍しい姫の狼狽えた姿だ。うん、新鮮だ。


「そんな事より、一体何処へ行くつもりなんだ?」

「あんたには関係ない。昨日、そう言ったでしょ。これはわたしの仕事だって」


 初めてあんたと呼ばれた気がする。ずっと隼人くんだったのに。


「そんなふうに言われた覚えはないなあ。姫はいつも言葉が足りないんだよ」

「うるさいわね、放っといて!」


 怒りを全身で現しながら、フェンスの向こう側へ進んで行く。そこは竹林になっていた。

 姫を見失うまいと、急いでフェンスを乗り越えて、彼女を追いかけた。


「付いてこないでよ」


 今まで執拗に絡んでいたのが嘘のように、姫は俺を拒絶し始めた。

 その事に少しショックを受けている自分を自覚した。

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