第19話 出産 (依正不二)



「まだ産まれる気配はないって皆が言ってたじゃないか!」

「そうよ、昨日だってお腹を蹴っていたぐらいだもの!もうちょっと先だと思っていたの!」

「せっかちな赤ん坊だな!産まれる前ってもっと早くから痛みがあるものなんじゃないのか!」

「姉さまは我慢強い人だからっ」

「今は我慢しちゃダメだと思う!」

 ミナトとリテはアキヤと共に山を駆け下りる。

 そこからはもう、何もかもが怒涛だった。

 ミナトたちが集落に戻ったときにはすでに、カーユをはじめ村の女たちが手伝いに集まってきていた。ミナトは女たちにせっつかれながら、ユテルと一緒に汗だくになって広場で湯を沸かした。湯を運んでいく女たちの、盛りあがった腕の筋肉がたくましい。

 ミナトが最初の湯を家の中に運んだときには、トヨはあぐらをかいて肘かけにもたれていたが、梁から吊ってある縄にはまだ掴まっていなかった。ミナトに「ありがとうね」と微笑む顔はすでに十分苦しそうに見えたが、あの時はまだ余裕があったのだと、後で分かる。

 昼近くになると、はああ、ふうう、と半ば悲鳴まじりの息つぎが家から漏れ聞こえるようになった。

 獣じみたうめきは、やがて泣いているような声になり、絶叫に変わっていく。

 すぐ近くに雷が落ちたときでさえ平然としていたトヨなのだ。家の中から上がる声は、可哀そうとか痛そうなどという気持ちを通り越して、もはやミナトにとって恐怖だった。

 エナが家の中で「いきめ」と言ったり「いきむな」と言ったりしている。

「もう少しだ。赤ん坊も頑張ってるよ。こらっ、今は気絶するんじゃないっ」

 ―――出産って気絶するの!?

 ミナトは縮み上がる。ユテルはそわそわと足踏みしていた。

おんな子どもってのは、おさんの時に死ぬのがいちばん多いんだよ」

「今それを言っちゃだめ」

「あああ、頼むから無事に産まれてくれ」

 ユテルが手を擦り合わせて家に向かって拝む。集まった人びとも同じように手を合わせているのを見て、ミナトはいてもたってもいられず、同じように手を合わせて家に向かって頭を下げた。

 やがて、ほんぎゃあ、ほんぎゃあ、と家の中から赤ん坊の声が聞こえた。

 期待と不安で囁き合いながら待っていた人びとに、家の中から出てきたリテが、泣き笑いのような顔で言う。

「元気な女の子です。トヨ姉さまも、もう大丈夫だそうです」

 わっと歓声があがった。ミナトは力が抜けてしまって、へなへなとその場に座りこんだ。




 巻いたむしろ行李こうりにもたれて座るトヨは、髪が乱れ、くたびれてはいたが、大仕事を終えた後のすっきりとした顔をしていた。

「ミナトも抱いてやって」

 トヨに言われ、先に赤ん坊を抱いていたリテに赤ん坊を差し出されて、ミナトはあたふたと赤ん坊を受け取った。赤ん坊は泣き疲れたのか眠っているようだ。

 腕に抱いた赤ん坊は、あまりにも軽かった。

 身体中がふにゃふにゃとやわらかくて、指は驚くほど細く、ちょっとどこかに引っ掛けただけでも折れてしまいそうなほどだ。

「え、えっと、抱き方ってこれでいいの?あってる?」

「あってるわよ、大丈夫」

 リテが笑いながら、ミナトの腕の中で赤ん坊の頭の位置をずらす。

「すごい。小さい」

 ミナトは思わず呟いた。

 赤ん坊の口がむにゃむにゃと動いて、舌がのぞいている。掴むものを探すようにその手が宙をさまよう。

 その手に自分の指を握らせてみたい衝動にかられたが、支える腕を外すとそのまま赤ん坊を落としてしまいそうで、ちっとも身動きできなかった。

 赤ん坊が、ミナトの腕の中で確かに生きている。生きているというそれだけのことが、どうしようもなく眩しくて、尊い。

 なんだか泣きそうになってしまって、ミナトはぐっと唇を噛んだ。

 赤ん坊はうとうとしたまま、村長やカーユ、手伝いに来ていた人たち皆に、順番に抱かれていく。皆が、かわいくてたまらないという顔で、嬉しそうに赤ん坊をあやしている。

 なんだか小さすぎて同じ生き物だという実感が湧かないが、それでも、この姿が人間の出発点なのだ。そう思った時、突然、ミナトはその赤ん坊に自分の姿が重なって見えた。

 思えばミナト自身、今までにいったい何人の人たちから、こうして愛情を注がれてきたのだろう。どれほど多くの人から優しさをもらって生きてきたのだろう。きっと、忘れてしまった優しさや、気づけなかった優しさもたくさんあったはずだ。

 昨日獲った山鳩を思い出した。あの鳥が温めていた卵は、食べられることがなければそのまま成長し、殻を破って出てきていたのかもしれない。

 人だけではない。今日まで、いったいどれほど多くの命がミナトの身体を通り過ぎていったことか。

 自分一人の命がどれだけ多くの他の命に支えられているかを想像しようとすれば、その数の多さにめまいがする。その内のひとつの命をとってみても、その命を支える命がまた別に無数に存在するのだ。ミナトが今のミナトであるために必要だった命の数は、星の数よりも多いのではないか。きっと、どれが欠けても今のミナトにはならなかった。

 隅に座ってにこにこと皆を眺めていたホタは、皆に押し出されて、いちばん最後にトヨのとなりで赤ん坊を抱いた。アキヤとオハルがその両側から赤ん坊の頬をつついたり手を触ったりしている。

「大きくなるんだよお。病気はしちゃいかん。幸せに。幸せになあ」

 自分のひげで遊ばせながら、ホタは心底嬉しそうに赤ん坊をあやしていた。



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