依正不二

第10話 即位式 (依正不二)



 黒い瓦が敷きつめられた屋根の上で、金の鳥が灼熱の日差しを受けて輝いていた。

 白い石だけを使って造られた巨大な壇上には、やはり白い漆喰で覆われた建物がそびえ立っている。柱の朱が眩しく映えるその建物こそが、沙羅シャラの朝廷の正殿であり、帝が世界を支配する中心という意味で大極殿だいごくでんと呼ばれる建物だった。

 大極殿前の広場にたくさんののぼりが立っている。風がない今、その厚い布地は微動だにせず、太陽と月の他に、太陽神が調伏した地上神、つまり、これまでに沙羅が攻め落とした土地で祀られてきた神々が鮮やかな色で刺繍されているのが、よく見えた。

 那武持ナムジは白い砂に膝をつき、こめかみの汗が流れ落ちるのを拭うこともせず、ただじっと頭を垂れていた。装飾が多い儀礼用の弓矢がずしりと背に重い。黒光りする硬い冠を脱いでしまえばさぞ楽だろうが、即位式の最中、動く者は誰一人としておらず、時が止まったような静けさだけが広場を支配していた。

 大極殿を背にして、一人の少女が立っている。

 その衣装は昼の太陽のように真白く、身に着けた装飾はすべて金だ。少女が腰に吊るしている太刀もまた、金銀の細工が施され、宝石が散りばめられていた。

 低く迫った真夏の空の下、少女が鏡を掲げる。その鏡に太陽が反射し、まるで少女が太陽を抱えているように見える。柳の枝のような細腕の、あの少女こそが、沙羅の新しい帝だ。

 蒸し暑さに耐えながらも、那武持の機嫌は良かった。

 地方の小豪族である郡司の息子で、貴族の位を持たない那武持は、本来なら今日の即位式に参列することすら叶わない身分だ。しかし文武に渡る才を認められ、地方の政務を担う国司による推薦を受けて、那武持は数年前から帝の警護を担う兵衛府に所属している。

 その兵衛府の中ですら、即位式に参列し、弓や太刀、盾などの威儀物を持つ名誉にあずかることが出来る者は限られていた。中等位の貴族の子弟と、那武持のような位を持たぬ郡司の子弟が入り混じって構成されている兵衛府だ。今日も、裏の警備に配置された貴族出身の兵衛たちは、広場に入場する那武持を屈辱に歪んだ顔で睨んでいた。

 那武持はまた、宮中の任務がない普段は、ちょうど今、新帝の前で寿ぎを述べている沙羅の左大臣・佐衣雅サイガ王の資人とねりとして、そのやしきの警備を担っていた。

 佐衣雅王は新帝にとって、母方の祖父にあたる。兄たちが病気や事故などで相次いで死に、先帝が残した子どものうち最後の一人になってしまった新帝が、わずか十三歳という若さで帝位を継ぐことになった今、佐衣雅王は朝廷の最有力者だ。

 佐衣雅王の斜め後ろの胡床いすに座って寿ぎを聞いている右大臣・羅時冨ラジフ公は、表情こそ涼しげだが、その実、悔しくて悔しくてはらわたが煮え返っているに違いない。

 最初に死んだ新帝の異母兄は羅時冨公の孫、その母は羅時冨公の娘だった。彼が帝位についてすぐ病に倒れたりしなければ、今ごろは羅時冨公の声がすなわち帝の声になっているはずだったのだ。そうでなくとも、羅時冨公には先帝の弟に嫁がせた娘がおり、その娘が男子を生んでいた。先帝の甥にあたるその少年が帝位についても良かったところを、結局は先帝の娘を擁立する佐衣雅王に押し負けたのだから、その無念は察するに容易い。

 今日この日を迎えるまでに佐衣雅王と羅時冨公との間で行われた数々の静かな戦いを思い返すと、那武持は広場に満ちる清浄な空気の中に、どろりと血の匂いを嗅いだ気がした。

 今はまだ羅時冨公側についている官人も多いが、やがて佐衣雅王は羅時冨公の勢力を追い出しにかかるだろう。その波に乗って、那武持自身はどこまで昇進できるか。これからの数年間が、人生をかけた勝負の時だった。

 ――――どれもこれも無能ばかり。実力ならば敵ではない

 左大臣が寿ぎを述べ終わり、万歳を叫ぶ。それに唱和して、広場に怒涛のような万歳の声が轟いた。



 即位式後の饗宴が始まるまで、まだ時間があった。

 饗宴の警備に備えて今のうちに食堂で軽食をとっておこうと、宮城内の門をくぐった時、目の端に動くものをとらえて、那武持ナムジはとっさに横に跳び退いた。

 壺を傾けた女と目が合うのと同時に、強烈な臭いが鼻を刺し、その女に糞尿をかけられたのだと気づいた。完全には避けきれなかったせいで、上衣のすそと袴がべっとりと汚れてしまっている。

 瞬間、燃え上がった怒りのままに女を睨むと、女はひっと喉を鳴らして一目散に逃げていった。門の警固にあたっている門衛は女を追うこともせず、ちらりと横目で那武持を見ただけで無視を決め込んだ。

 女はどうみても平民だった。饗宴の準備のために、宮中にはいつも以上に商人やその下働きが出入りしていたが、誰か身分のある者が手引きでもしない限り、糞尿の入った壺を抱えて門から出てくる那武持を待ち構えることなど出来はしない。

「他国からの賓客もいらっしゃるというのに、そのような姿で大内裏の中を歩かれては困りますなあ、那武持殿」

 兵衛府の同僚たちが那武持を見て忍び笑っていた。いつも那武持を目の敵にしている貴族の子弟たちで、兵衛府のなかでも位の高い者たちだ。矜持ばかり無駄に高くて、まともに馬も操れない姿を、陰で同僚たちに笑われていることを知りもしない。

 彼らに対する激しい怒りは、那武持の中で瞬く間に呆れと軽蔑に変わった。

「すぐに着替えてまいります」

「それがよろしかろう。佐衣雅王に泣きつけば、式典用の朝服の一着や二着、すぐに用意していただけるでしょうからな」

 この酷い匂いで佐衣雅王たちが控えている朝堂に近づくことなど出来るはずもないのに、それを分かっていて、意地悪く言う。

 那武持は薄く微笑んで、同僚たちの脇をことさらゆっくり通り過ぎた。少しでも那武持が動揺することを期待していたのだろう、同僚たちはとたんに不満げな顔になった。

 ―――なんだ、あの態度は

 ―――田舎者が気取りおって

 聞こえよがしな囁きを背中に受けながら、那武持は饗宴の警備から抜けても問題がない相手を頭の中で探した。

 都での仕官に執着がなく、兵衛府での勤めを終えた後は故郷に戻ることしか考えていない連中なら、那武持に代わって装束を貸してくれるかもしれない。

 白い築地の角を曲がり、同僚たちの姿が見えなくなった時だった。

「久しいの、那武持」

 ふいに背後からしゃがれた声で呼ばれた。振り向くと、小柄な老人がにやにやと面白がる表情で那武持を見上げていた。

「これは、阿万アマン様」

 那武持は胸の前で握った拳を左手で包み、軽く頭を下げた。阿万の位を思えば膝をつくのが本来の礼儀だったが、阿万はそういったことには頓着しない質だった。

「何か御用でしょうか。今、陰陽師の皆様は陰陽寮で祈祷の最中だと伺っていますが」

「見ておったぞ。兵衛府の小童たちにしてやられたな。糞を投げつけるとは、いかにも雅で貴族らしいことよ」

 愉快そうに言って、自分が連れていた下男に装束を一式調達してくるよう命じた。

「ありがとうございます」

「これからはもっと、ああいうのが増えるぞ。無位無官から成りあがる道は、法のうえには用意されているが、まだ誰も実際に通ったことはないからな。己で努力することを知らぬ者はこぞってお前を笑いけなすであろう」

「所詮は人のまねを仕込まれた猿にすぎませぬ。猿に罵られたとて、気にする必要もございますまい」

 那武持が言うと、阿万は声を立てて笑った。

「奴らを猿とするなら、お前は虎だな。どうじゃ那武持、わしは旨そうに見えるかえ?」

「御冗談を。恩ある貴方様に対して牙を向けては、頭が七分に割れてしまいます」

 那武持は阿万に合わせて笑みを浮かべながら、

 ―――実際、本当にそうならないとも限らない

 と胸の内で呟いた。新帝が即位するまでにも、いったい何人がこの呪詛師じゅそしの手にかかって死んだのか分からない。

 なぜか那武持は都に上がった時から阿万に気に入られていて、佐衣雅王のやしきに勤められるよう、口添えしてくれたのも阿万だった。しかしひとたび那武持が阿万にとって不利になるようなことをすれば、那武持もまた、たちまち呪い殺されるであろうことは目に見えている。

「新しい帝が無事に即位なさってやれやれと思っておったのに、殿上の御方々は働くことがよほどお好きとみえる。おかげでわしも休む暇なしよ」

「ご苦労様でございます」

「お前にもまた、散歩についてきてもらわねばならんと思う」

 頼むぞ、と阿万が那武持を見る。つまり阿万と外出することを決して人に知られるなということだ。危険な仕事ではあるのだろうが、その分、見返りも大きい。

「いつでもお供いたしましょう」

 那武持は薄く微笑んでうなずいた。



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