Side→R 5話
ーーお兄ちゃん、大好き。
本物の気持ちを抱いて、ロゼッタという別人になりきった日向は、柊にじゃれついた。
ある日は笑顔を向けた。ある日は明るく話しかけて相談に乗った。ある日は腕にコアラのように絡みついた。
大きな掌に頭を撫でられるのが好きだ。
腕に抱きついてすりすりすると安心する。
優しく好意を向けてくれる柊を見て、日向の胸にも好意が咲いた。ーー柊さんは魅力的。
ーーわたしと同じ似た者同士で、でも悪い嘘つきじゃないもん。
ーーわたしも今は優しい嘘つきになれてるかな。
目の前の大好きな
柊が女として見て好意を抱いていることを、本能的に感じ取ってからは、スキンシップを加速させた。
兄妹関係なんてどうでもいい。
優しくて甘酸っぱい恋愛は心の傷を癒すだろう。
恋愛は別れも付き物だが、相手に離れる意思がないから上手く行くだろう。
柊が悩んでいたことが分かっていたから、日向は躊躇いなく舵を切った。
ーーわたしは柊さんを裏切らない。
救いたくてたまらない絶対的な味方だ。
『ロゼッタ』と呼ばれるたびに、元気になれた。
優しく接してくれる彼が好きだ。
日向の中に、兄妹愛以外の感情が入り込む。
ーーこのまま恋愛したら幸せになれるかな。
ーー両思いになれるかな?
自分の中に咲いた感情が本当に恋情かも確かめないまま、日々は過ぎた。
ある日の夜に、グレイの部屋に向かった。
定期的に父のように慕う彼に会いたくなる時がある。
急に不安になって心がぐちゃぐちゃになるから、また温かな魔法をかけて欲しい。
今までグレイに会えばそれが叶っていた。
だから今日も安心したかったのだがーー。
ドアをノックしようとして、先客がいることに気づいた。
小さく話し声がする。
ーーグレイさんと、……お兄ちゃんだ。
ーーお兄ちゃんが、グレイさんに相談してる……?
立ち聞きはあまり良くないが、兄の声色があまりにも暗かったから、日向は聴覚に全神経を集中させた。
途切れ途切れに聞こえてくる単語を繋ぎ合わせる状態だったが、話の内容はなんとなく理解出来た。
ーーお兄ちゃんの記憶が、戻り始めてる……。
ーーだめ、そんなの……。逃げられなくなっちゃう!
ふるふると頭を振りながらも脳は会話に全集中している。
兄自身も記憶を取り戻したい訳ではないようだ。
記憶を失くしても、眠らせているものがとてつもなく悪いものだという予感はあるのだろう。
それが正解であることを知っている娘は、踵を返しながら、良い案はないものかと考える。
部屋に戻って糖分を補給して脳をフル回転。
「………あ。」
思いついたものは、思いつきで実行するにはリスクが高いものだった。
けれど躊躇ってはいられない。
◆
ある日の真夜中。
いつもなら夢遊病のように起きて庭に向かうが、今日は頭が冴えていた。
不思議な気持ちだ。覚悟を決めればこんなにも落ち着いた気持ちになれる。
日向は身を起こし、鏡の前でロゼッタの顔と格好を確認した。
いつも真夜中に庭に行く素振りで、足取りで部屋を抜け出すと、ゆっくりと歩いた。
柊はあまり寝れていないと言っていた。
寝れない夜は部屋の外に出たくなる。
ーー分かるよ、お兄ちゃん。わたしもそうだから。
日向は心を癒した庭園で過ごすことが多い。
うろうろと歩き回っていくとやがて落ち着いていくのだ。
落ち着かないときはグレイが精神安定剤を投与してくれる。
ーー多分お兄ちゃんもグレイさんに何か処方されてるだろうな。
こうして彼は日々の安定を作り、母が見守っているのだろう。
柊を守る嘘の箱庭は、記憶を取り戻せばきっと変わってしまう。
だから、阻止しなければならない。
リビングに入ると、兄が座り込んでいた。
奥に見えるものは沸騰したヤカン。紅茶でも淹れようとしていたのだろう。
とても気分が悪そうだ。
「……柊さん、大丈夫?」
「………ロゼッタ!?」
驚いたような表情を目の当たりにする。
時折真夜中の庭園での姿を目撃されていると言う事に、日向は気づいていた。
ーーはーん、今は意識がしっかりしているからだね。
ーー妹は、女は、護るためなら強くなれるんだよ。
相談に乗る姿勢を示すと、話してくれた。
日向でなく、ロゼッタとしてでも秀一の力になれていることを誇りに思う。
改めて柊の口から聞くと、事実がのしっと重くのしかかった。
ーーこれは危機的状況だ……。
ーーだめだよ、思い出すなんて。この平和が壊れちゃう。
思い出さない方がいいと言うと、グレイを繋げて褒めてくれた。
それがとても嬉しいのだ。
柊は自分も辛いのに、自分の事を心配してくれるのだ。
体調は確かに辛くなってきたが、嬉しさが身を包んでいた。
大きくふらついて見せたロゼッタを見て、柊はとても心配してくれる。
手を貸してもらい部屋に運んでもらいながらも、日向は幸せだった。
◆
部屋に入ってベッドに横になると、落ち着きが少し戻った。
安心する。
此処が自分のテリトリーであることも、傍に兄がいることも。
また手を取り合って共に暮らせることも嬉しいのだ。
だからこそ、自分が血の繋がった妹だと知られてはならないのだ。
家族に再会すれば、きっと記憶の糸が解けてしまうだろう。
家族に頼れているか、と。
辛くないかと問われれば素直に答える。
グレイに出会えたから、此処に来れたから。
新しい自分になれたから救われているのだと。
ーーだから、柊さんも救われていいのだ。
ーーお願いだから、幸せになってほしい。
ーー辛い現実なんて、一生目を背けていていいから。
ーーおにいちゃん……。
「………忘れたいよ。思い出したくない」
やっぱり柊は現実から目を背け、幸せに浸っていたいのだ。
自分と同じく、その道を選択したのだ。
その答えを聞いて、安心しかけた娘は、次に続く言葉でどん底に突き落とされる。
「だけど、多分それじゃいけないんだと思う」
「どうして……?」
忘れたいなら忘れていていいじゃないか。
だって苦しくてたまらないから、全てを捨てて忘れたんでしょう。
「心の中でずっと警鐘が鳴ってるんだ。このままじゃいけないって、思い出せって」
その反応は脊髄反射。
日向は兄の右腕を強く引いて、抱きしめると唇を近づけた。
ーー貴方を苦しめる現実なんていらない。
柊が自分を好きだと言うなら。
逃げ続けたいというなら、この方法が最善のはずだ。
「わたしが、忘れさせてあげるよ。苦しみから解放させてあげる」
理性も常識も全てかなぐり捨てれば、平穏を継続できる。
そう決断した娘は強い。
柊に告白され、恋情を向けられた。
日向は、ロゼッタは、胸の中が沸騰しそうなほど嬉しかった。
自分の中にあるこの感情は恋なのだと半ば無理やり結論付けると、柊を煽った。
結果、柊はロゼッタを抱いた。
日向は気が付かなかった。
自分の中にある逃避思考を、自分こそ救われたいことを兄に見抜かれている事を。
見抜いた上で、望みに従い疵の舐め合いを選択した柊と情熱に溺れる。
こうすれば望みが全て叶う。
この幸せな日々を持続できる。
そう強く信じた彼女は、柊が全てを思い出したことに気づけない。
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