第85話:閑話・屍山血河2

天文十六年(1548)4月20日:近江観音寺城:六角定頼視点


「大殿、若狭から朽木街道を通って長尾家の兵が近江に入っております」


「朝倉宗滴が、淡海乃海の右岸と左岸に分かれて兵を進めております」


「浅井家に属していた国人地侍の大半が、朝倉宗滴に味方しました」


「朝敵となった六角家を討伐するように綸旨が下されたという噂が、近江だけでなく近隣諸国に流れております」


 あっという間に追い込まれてしまった。

 味方にしようと思っていた者達からは、悉く断りの使者がきた。

 いや、それ以前に会う事もできずに使者が帰ってきた。


 まだ長尾家が朝倉家を滅ぼしてから三日しか経っていないとはいえ、これまでなら何を放ってでも集まった国人地侍が半数も集まらない。


 裏切った浅井の連中だけでなく、伊勢大和伊賀の国人地侍も集まらない。

 高島七頭も長尾勢が迫っていることを理由に集まらない。

 今集まっている国人地侍も、田植えが近いので領地に戻りたいと言い出している。


 朝倉宗滴に使者を送ったが、朝敵を討伐するだけと追い返された。

 良い訳すら許さず、六角家を滅ぼす気だ。


 朝敵の汚名を受けた状態で長尾家と戦えるのか?

 それとも、戦う事なく敗北を認めて武田晴信のように弱小国人に成り下がるのか?

 いや、今川義元のように近江を追放されるだろう。


 私にも六角家をここまで大きくしたという自負がある。

 堂々と戦えば、倍する敵でも討ち破る自信がある。

 戦いもせずに領地を失うなど耐えられない!


 だが、建前上とはいえ義賢に当主の座を譲ったばかりだ。

 私の一存で家の命運を決める訳には行かない。


 領内の国人地侍に離反の動きがあり、重臣達の動揺も激しい。

 朝倉宗滴に備えて新たな兵の動員をかけても、兵の集まりがとても悪い。

 足軽大将からは逃げ出した足軽がいると言う報告が上がっている。


 無理矢理集める事もできるが、万が一戦っている最中に逃げ出す者がいたら、裏崩れから友崩れが起きる。


 籠城したとしても、裏切る国人地侍がでるだろう。

 観音寺城は譜代衆が守る曲輪があってこその堅城だ。

 裏切者が長尾勢を曲輪に引き入れかねない状態では、籠城もできぬ。


「このままでは長尾家と戦えぬ!

 まずは朝敵ではない証を立てて国人地侍の離反を防ぐ。

 長尾家が言い立てた、青蓮院宮尊鎮法親王を帝に擁立しようとしていない証を立てて、朝倉宗滴の脚を止める」


「叡山を攻めると申されるのですか?」


「他に朝敵の疑いを払拭する方法があるか?」


「……一番の方法と思われます」


 後藤高豊が苦渋の表情で賛成してくれた。


「大殿が断じてやられると申されるのでしたら、先陣を務めさせていただきます」


 蒲生定秀も賛成してくれた。


「もはや一刻の猶予もない、叡山と関係する場所は全て焼きはらう、急ぎ出陣の用意をせよ」


「「「「「はっ!」」」」」


 私は観音寺城に集まっている兵だけを率いて出陣した。

 長年叡山に苦しめられている園城寺に使者を送り、一緒に攻めようと誘った。

 長尾家と繋がる園城寺を味方にしようとしたが、駄目だった。


『朝敵の疑いのある者の味方はできない』と言われたと、蒲生定秀が苦々しそうな表情で報告してきた。 


 長尾家と同盟する前の園城寺なら、このような態度は取れなかった。

 叡山の襲撃を恐れる園城寺は、私の支援を欲していた。

 それが今では、このような無礼を言われても我慢しなければいけない。


 内心の怒りを押し殺して坂本を焼き討ちした。

 一万の軍勢で坂本を焼き、日吉大社に逃げ込んだ者を追って大社も焼いた。


 青蓮院宮尊鎮法親王を叡山から追い払い、新帝に擁立しようとしていたという疑いを晴らした。


 青蓮院宮尊鎮法親王を弑逆する事もちらりと頭に浮かんだが、殺したら殺したで言い掛かりをつけられると分かっていたので、内裏の方に追い払うだけにした。


 青蓮院宮尊鎮法親王だけでなく、皇室と五摂家に所縁のある方々全員を内裏の方に追い払ってから、叡山を焼き払った。


 僧兵はもちろん、焼き討ちを邪魔する者は全て殺した

 叡山の建物を全て焼きはらい、何一つ残さない徹底した焼き討ちを行った。

 焼け跡には、女子供の焼死体が数多くあった。


 男子禁制の叡山に女子供が数多くいるのはおかしな話だ。

 坂本に下りて酒色にふけるだけでなく、女人禁制の修業の場である叡山に女子供を住まわせていたのだ。


 ここまでやってから、もう一度朝倉宗滴に使者を送った。


「朝敵ではない証明をした、それでも攻め込むと言うなら大義名分を明らかにせよ」


 平井定武にそう言わせたが、何の意味もなかった。


「朝敵かどうかを決めるのは私でも殿でもない。

 帝と朝廷が決められる事、言いたい事があれば帝と朝廷に申されよ」


 平井定武は朝倉宗滴にそう言われて戻ってきた。

 急ぎ帝と朝廷に使者を送った。

 同時に近江の国人地侍の引き締めを行った。


 私が叡山を焼き討ちした事で朝敵を理由に寝返る事を防いだ。

 裏切ったら長尾家と決戦する前に攻め滅ぼすという、無言の圧力をかけた。


 叡山と日吉大社から奪った寺領を、焼き討ちに加わった国人地侍に残らず与えた。

 利を与えるだけでなく、国人地侍から取っている人質を一カ所に集めて、何時でも殺せるようにもした。


「大殿、朝倉宗滴殿から高島を通過したいと言う使者が参っております。

 僧の衣を着て民を惑わす邪教を滅ぼしたいのだそうです」


 高島七頭の棟梁を務める佐々木越中が観音寺城に来て言う。

 朝倉宗滴と佐々木越中の身勝手な言い方に腹が立つが、自分も立場が強い時には同じように身勝手な言い分を通していた。


「長尾家は、堅田の一向一揆を滅ぼしさえすれば越前に戻るのだな?!」


 怒りを抑えきれずに少々厳しい言い方になった。

 同じ部屋にいる息子も六宿老も怒りを抑えきれない表情をしている。

 臣従している振りをして、陰で長尾家に通じている佐々木越中が許せないのだ。


「それは、私には分かりません。

 私は六角家に仕える者として、朝倉宗滴殿の使者と会っただけでございます。

 大切な事は、朝倉宗滴殿に直接お聞きください。

 私は急ぎ高島に戻り長尾軍を防ぎます」


 口では私に従うと言いながら、実際には既に裏切っている。

 三雲定持を通した甲賀衆の報告でも、高島七頭の裏切りは明らかだ。


 だが、彼らが生き残るために長尾家に寝返るは当然だと分かっている。

 高島郡には五万の長尾勢が集結して鉄壁の陣を築いている。

 僅か二日で信じられない堅固な陣を築いている。


 更に安曇川の上流、朽木領に二万の長尾勢が集まっている。

 その数は日に日に増えていて、このまま放置していると三万四万に増えるのは明らかで、領民を根こそぎ集めても三千兵に届かない高島七頭には勝ち目がない。


 私が後詰すれば、高島七頭の態度も変わるかもしれない。

 だが、私が高島に兵を進めたら、朝倉宗滴が坂田郡から攻め込んでくる。

 或いは、実相院の長尾勢が山科から攻め込んでくる。


 今の私には、坂田郡、高島郡、山科郡の三カ所に兵を分ける事ができない。

 無理をすれば三万を集められた私が、今では一万を集めるのが精一杯なのだ。


 それに、一度坂田や山科に国人地侍を戻したら、二度と観音寺城に戻ってこない国人地侍がいると、甲賀衆から知らされている。

 家を守るために、人質を見殺しにする覚悟をした国人地侍が数多くいるのだ。


 長尾晴龍は国人地侍の調略が巧みだ。

 これまでは降伏臣従した者を必ず奴隷に落としていた。

 武功を立てる機会は与えるが、一度は奴隷に落としていた。


 それが、最近は最低限の本貫地を認めるようになった。

 越前でも北近江でも、降伏を申し込んだ国人地侍の本貫地を認めた。


 この状況では、我が家に仕える国人地侍が裏切るのは当然だ。

 勝つためなら、家を守るためなら、どのよう屈辱にも耐えるのが武士だ。


 不利も屈辱も受ける事なく、実力次第で立身出世と武名が得られるのだ、国人地侍が寝返らない訳がない。


 国人地侍が長尾晴龍を信じるのは、朝倉宗滴が活躍しているからだ。

 朝倉家では兵権を預けられていたが、実子が跡を継ぐ事もできず、領地も与えられない不遇な立場だったのに、今では実質守護代で十万兵を率いている。


 実子はが長尾晴龍の側近に取立てられ、重臣の座が約束されている。

 宗滴自身は、応仁の乱の総大将と同じように十万もの兵を率いている。

 いや、雑多な守護の連合ではなく、長尾家だけの兵を十万も率いている!


 自分の力に自信がある国人地侍なら、同じ様に成れると夢見て当然だ。

 朝倉宗滴が率いる十万兵の中には、武家に青瓢箪と馬鹿にされる公家侍がいて、一万兵を率いる侍大将に成っている。


 千兵を率いる足軽大将の中には、元奴隷までいる。

 それを知る北近江の国人地侍が、雪崩を打つように降伏臣従した後だ。

 我が家に臣従していた国人地侍の多くも長尾家に寝返るだろう。


 僅かな希望は、浅井家に対する忠義に殉じて死ぬ覚悟をした国人地侍が、小谷城に集まるか自分の城に籠っている事だ。


 我が家にも忠義に殉じてくれる国人地侍がいるはずだ。

 今ならまだ間に合う、朝倉宗滴を野戦で討ち破れば、流れを変えられる。

 勝ち続けて、奪った領地をばらまき続ければ、国人地侍の裏切りを防げる!


 朝倉宗滴は長尾家の基本戦術を踏襲している。

 籠城する城には付け城を築き、討って出られないようにした。

 追手門や搦手、全ての門の前に空堀と土塁を造って兵糧攻めにした。


 小谷城の周囲には、朝倉宗滴の直率軍が五万兵もいて、四万は自由に動かせる。

 高島七党に対しては、石田川を水濠代わりに使う陣を築く遊撃軍が五万もいる。

 京の実相院と大雲寺には一万兵がいて、何時山科を越えるか分からない。


 朽木領にも二万の兵がいて、遊撃軍に加わる事も京の軍に加わる事もできる。

 或いは独自の戦いを仕掛けてくるかもしれない。


 もし領内を好き勝手に焼き討ちされたら、私の威信は地に落ちてしまう。

 少しでも勝てる可能性が高い相手に野戦を仕掛ける!


「帝と朝廷に忠誠を尽くす私に、朝敵の汚名を着せた者を許す訳にはいかない!

 長尾勢を叩いて君側の奸を取り除き、帝の誤解を解く、我に続け!」

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