第一章 被災 1.異変発生 --当日--

 涼しい。というか少し寒い。

 外は初夏だというのに、鍾乳洞内部はヒンヤリしている。かすかに空気の流れは感じるが、風の音もしないし鳥の声も聞こえない。静かでとても涼しい。


 別に来たくて自分から来たわけじゃない。派遣元から派遣先に要請があったらしい。職場の上司に有給休暇を消化しろと強制された。そう言われれば、去年は年末年始と夏休み以外は1回も休まなかった。チームに相談すると『明日なら特にイベントがないから良いんじゃないか』と言われたので、急遽、今日有休を取得することにした。

 やりたいことがあったわけじゃない。昨日、どうやって暇を潰そうかとあれこれ考えていたら、最近バイクに乗っていないことに気がついた。せっかく買ったバイクだ。天気も良さそうだと言うか、相当暑いらしい。涼しいところに行ってみようとネットを検索したら、山梨県のこの鍾乳洞がヒットしたってわけだ。


 仕事はつまらない。ITエンジニアと言えば聞こえは良いが、システムのお守りだ。ちゃんと動いているかどうか毎日チェックする。時々利用部門から問い合わせやらクレームやらが来るので対応する。別に俺が悪いわけでもないのに怒られることが日常的にある。トラブルが派生すると、解決するまで無限に残業になる。

 動かないと怒られるのに、動いても褒められない。褒められるとしたら開発チームの方だ。運用チームは、偉い人が年頭の訓示とかで「よくやってる」と形式的に褒めるだけ。理不尽な職場だ。


 そもそも正社員じゃない。派遣社員だ。三流大学の情報系学部を卒業し、一旦は小さいながらもSIer<エスアイヤー>と呼ばれるシステム開発を請け負う業者に就職することができた。ところが、新入社員研修が終わってそろそろ現場に配属されるな、という頃に、『業績が悪化しているのでリストラして社員を半減します』と言われてクビだ。小さい会社で労働組合がなかったから、何の抵抗もできなかった。第二新卒と名乗れればまだ再就職もできただろうが、2ヶ月しか在職していなければ実務経験はゼロで就職浪人と変わらない。再就職先なんて見つからなかった。

 おまけに失業保険の加入期間もわずか2ヶ月だから、会社都合退職だろうが保険金の支払いなんてない。給料1ヶ月分に少々色を付けてくれた退職金しかもらえなかった。

 それからは職安に行ったり、就職支援サービスに登録したり、バイトしたり。不毛な日々が続いた。少しでも就職に有利になるように、夜遅くまで勉強してIT系の資格をいくつか取った。それなりに努力を続けていたんだ。

 【未経験可】で拾ってくれたのが登録型の人材派遣会社だった。ITの世界にも、人なら誰でもいい、なんていう仕事があるものだ。そういう仕事にいくつかありついてなんとか食いつないで経験を積んだ。大切なことは『コレコレの仕事を○ヶ月担当しました』っていう実績だ。多少大げさに言っても大丈夫だが、無いものを有るというような嘘はすぐにバレるからダメなんだ。

 少しでも条件が良い仕事に移れるように。残業少なめで仕事をしながら、毎日勉強した。資格は多い方が良いんだ。


 努力が実ったのか、職務経歴と言えるものがある程度できた成果か、30歳を目前に、ようやく大手企業の仕事に派遣された。それまで安かった時給もようやく業界平均に到達した。そのときは正直嬉しかった。

 仕事の内容は業務システムの運用だった。相模原にある大手企業の支社で、本社との間のデータのやりとりをするシステムがちゃんと動いているかどうか確認して、トラブルがあれば対応する仕事だ。自宅の多摩ニュータウンから京王線1本ですぐ行ける。下り方向だから電車も空いてるし、橋本駅から職場までは無料送迎バスがあるから通勤も楽だ。就労条件は悪くない。

 だけど、いくら俺が頑張っても派遣先の会社が儲かるわけじゃない。金を稼いでいる部門の仕事が滞りなく進むようにサポートする仕事だ。つまり裏方だ。だからかな? 理不尽に怒られることが多い。

 残業は少なめだが、希にトラブルが発生すると解消するまで帰れない。定期的に夜勤や休日出勤がある。でも、派遣業者も派遣先企業もちゃんとしたところだ。定時以外に働いた分もちゃんと給料くれるし、それどころか時給が割り増しになる。ボーナスのない派遣社員だけれども、割増賃金のおかげで2年も継続するとちょっと余裕ができた。


 そんなわけでバイクを買った。『車やバイクは維持費がかかる上に、事故を起こしたら大変だ。リスクが大きいから買うもんじゃない』なんて友人は言う。でも、職場のおっさんやおばさんがツーリングの話をしているのを聞いていていると、妙にうらやましくなったんだ。それでバイクを買ったんだ。

 確かに乗らなくても毎年税金や保険が掛かるけど、250ccなら車検がないしガソリン代も大型車よりずっと少ないから、懐具合と相談しながら時々乗ることにしたんだ。もちろん中古車だ。

 格好いいウェアなんて買えないから、古着屋でそれっぽいのを買った。安全性を考えてヘルメットだけは新品にしたけど。

 バイクの免許は学生のときに取っておいた。親戚のおじさんが資格マニアで、よく解らない資格をたくさん持っていた。


「資格のあるなしで仕事の範囲が変わることもある。人との会話の種にもなる。お前も取れるときに取っておけ」


 そう言われて、そんなものかと思い、取れる資格は取っておいた。普通自動車運転免許、普通自動二輪、情報処理技術者、アマチュア無線。

 今の派遣業者に入る前の一時期、ちょっとだけ土建業をやったときに『小型車両系建設機械の運転の業務に係る特別教育』ってやつも受けた。小型の重機なら運転できる。実務やる前にITの仕事に戻ったけど。


 思えば人生ずっと貧乏だ。親父がどんな人かよく知らない。両親は早くに離婚して俺は母さんに育てられた。物心ついたときには今の団地に母さんと2人で住んでいた。母さんは安い賃金で働きづめだった。奨学金がもらえたので大学には行けたが、ようやく就職して母さんに楽をさせられると思ったら、すぐにリストラされてしまった。母さんもショックを受けていたな。その後、癌になってあっさり死んでしまった。金がなくて病院に行くのが遅れたのが致命的だったな。

 兄弟もいないし、親父とも連絡を取っていない。って言うか、母さんから何も聞いていない。連絡先も知らない。生きてるのか死んでるのかも解らない。後見人が必要なときは伯父さんが名前を貸してくれるから問題ないが。

 その伯父さんも九州に住んでいるのでたまに電話やメールをするだけだ。

 今まで彼女が全くいなかったわけではないが、貧乏が俺の心も貧しくさせるのだろうか。長くは続かないんだよな。すぐにフラれる。


 ほとんど孤独のようなものだ。そんな俺がようやく有給休暇でツーリングを楽しめるようになったんだな。




 薄暗くライトアップされた地底湖でそんなことを五月雨式に思い出していたら体が冷えてきた。そろそろ地上に戻ろう。

 受付で借りた薄暗い懐中電灯をつけて順路の表示に従って歩いて行く。所々かがんだり、服が岩肌にこすれたり、受付で借りた土建用ヘルメットを岩にぶつけたりしながら外に出た。

 鍾乳洞の出入り口から10mほと離れたところに小さな掘っ立て小屋がある。それが受付だ。30分ぐらい前、ここでおばちゃんに入場料を払ってヘルメットと懐中電灯を借りたんだ。


「ちょっと暗かったよ。電池交換しておいてよ」


 って言いたかったのに、おばちゃん寝てる。

 カウンターに懐中電灯とヘルメットを置いた。ちょっと振動と音がしたのでおばちゃん起きるかな、と思ったけど起きない。ま、いっか。そのまま寝かせてあげてバイクに戻った。


 バイクの上にリュックを置きっぱなしにしていたが、やっぱり誰にも荒らされていない。貴重品は身につけているし、この辺りの治安は悪くないだろうし、そもそも人が少ないからな。

 リュックを背負ってヘルメットをかぶり、グラブをつけてバイクにまたがる。そのまま足でバックしてバイクの向きを道路側に向けてエンジンをかける。

 音でおばちゃん起きたかな、と思って振り返ってみたけどまだ寝てるよ。大丈夫かな? 風邪引かなきゃ良いけど。


 山の中だからな。ちょっと道が湿っている。古い落ち葉が車に踏み固められたところもある。スリップに気をつけてゆっくり発進して麓に向かう。

 昼飯も食ったし、風景でも楽しみながらのんびり帰ることにしよう。


 10分ぐらい走っただろうか、左が沢で右が山肌という細い道をのんびり走っていた。右コーナーはブラインドになっていて先が見えない。そこで車のクラクションが聞こえた。警笛鳴らせの標識に合わせた短いものじゃなく、鳴らしっぱなしのようだ。

 右ゴーナーを曲がりきると少し先に左コーナーが見える。よく見るとそのコーナーに軽トラが止まってる。クラクションはその軽トラが鳴らしているらしい。速度を落として近づくと、おじいさんがハンドルに突っ伏しているのがわかった。どうやら軽トラは駐車しているのではなく、山肌にぶつかって止まっているようだ。

 手前にバイクを停めて軽トラに駆け寄った。エンジンは止まっている。


「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」


 ヘルメットのシールドを開けて呼びかけても返事がない。扉を開けておじいさんの体を少しずらして、とりあえずクラクションを止めた。イグニッションをオフにして、おじいさんの体越しに腕を伸ばしてなんとかサイドブレーキをかけた。

 おじいさんは呼吸しているが呼びかけに応じない。出血はない。脳卒中で事故ったか? 事故った衝撃でくも膜下出血でも起こしたか? とにかくまずい状況だ。


「おい、スマホ! 119番に通報して」

『はい、119番に電話をかけます』


 ヘルメットにはヘッドセットが装着してある。Bluetooth でハンドルに装着したスマホにつながっているから音声で操作が可能だ。

 それにしても呼び出し音が長い。早く出てくれ…… なぜ出ない?


「おい、スマホ! 電話切って」

『はい、電話を切ります』

「おい、スマホ! 110番に通報して」

『はい、110番に電話をかけます』


 あきらめて110番にかけてみる…… こっちも同じだ。


「くそ、携帯電話網のトラブルか!? おい、スマホ! 電話切って現在地をマークして」

『はい、電話を切って地図アプリに現在地をマークします』


 ネット自体は問題ないようだ。地図アプリで現在地をマークした。


「おじいさん、助けを呼んでくるから頑張ってね!」


 聞こえているかどうか解らないが、一声かけてバイクに駆け戻った。

 助けを呼べる場所を目指して急いだ。と言ってもそんなに運転がうまいわけじゃない。慣れない山道でおっかなびっくり、気持ちばかり焦る。

 どれだけ走っただろうか。1軒の農家があった。道路から農家の玄関先に続く側道に入ると砂利道だった。ハンドルを取られて転けそうになったので、そこにバイクを停めてヘルメットを脱ぎ、農家に向かって走った。

 母屋の入り口手前に犬小屋があった。犬が寝ている。番犬に向かない奴だ。


「すみません。誰かいませんか? 交通事故です。助けてください!」


 玄関先で叫んでも返事がない。縁側に回って開いているサッシから家の奥に向かって呼びかけた。だがやっぱり返事がない。外で農作業でもしているのかもしれない。

 少し離れたところにも建屋がある。走って行ってみると、そこは動物の小屋だった。

 ニワトリが寝ている。10羽ぐらい全部。普通にうずくまってる奴もいるが、横向きに転がってる奴もいる。死んでるのか?

 ヤギも寝ていてた。伏せているのではなく横向きに。おなかが動いているから息はしているようだ。死んではいない。

 さらに牛まで寝ていた。

 何かとんでもないことが起こっている。そういえば昔、テロで毒ガスが撒かれた事件があったよな。イヤなことが脳裏を横切った。

 急いで母屋に戻った。玄関を開けてみると廊下に小さなテーブル形の電話台があって、その上に固定電話で見えた。叫びながら勝手に上がり込んだ。


「すみません。緊急事態です。電話借ります!」


 ダイヤル式だ! ちょっと驚いたが、急いで119番に通報する。ダイヤルの戻りが遅くてイライラする。

 やっぱり通じない。110番も。くそ! 携帯電話網じゃなくて、固定電話網のトラブルか!?

 受話器を置いて母屋の中を見回すと、キッチンに人が倒れていた。


「大丈夫ですか?」


 慌てて駆け寄って手に触れると暖かい。顔を近づけると呼吸をしているのが解る。この人も脳卒中なのか。麓に降りるしかないな。

 急いでバイクに戻ってヘルメットを被ろうとしたときに気がついた。鳥の声が聞こえない。

 午前中、何カ所か散策したりしたが、小鳥の声が喧しいほどだったはずだ。

 空を見上げる。来るときはどこに行ってもトンビが旋回しているような気がしたが、今は何も飛んでいない。カラスもいない。小鳥もいない。

 やっぱり、何かとんでもないことが起こっている。とにかく麓の街まで降りよう。


「おい、スマホ! この場所マークして」

『はい、地図アプリに現在地をマークします』

「おい、スマホ! 近くの警察署までナビして」

『はい、最寄りの警察署までナビゲーションします。しばらく道なりです』


 それにしても、この音声操作のキーワードはなんでこんなに間抜けなんだ? 緊張感のかけらもないぞ。

 いやいや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。運転に集中しなきゃ。

 急いでいるのにコーナーが怖くてスピードが上がらない。やたらと時間が過ぎていく。

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