もう、逃げられない

いももち

もう、逃げられない

 その姿を見た瞬間、ミリーナは思い出した。

 自分がかつて魔王の娘であったことを。そして、父諸共勇者に殺されてしまったことを。



 この国では珍しい真っ黒な髪に、金と銀のオッドアイ。人形みたいに整い過ぎた美貌には薄い笑みが常に貼り付いており、女性的な魅力を兼ね備えた鍛え上げられた肉体は芸術品のよう。

 彼女の名前はリンデル。公爵家のご令嬢である。王子様よりも王子様然とした姿は、貴族令嬢たちからキャーキャー言われほど。



 前の時もそうだったけれど、ついつい見惚れてしまう程の麗しき男装の麗人である。

 ミリーナも何も思い出さなければ呑気に見惚れられていただろう。

 しかし、今は見惚れてなんていられない。そんなことをしてうっかり見つかりでもしたら、大変まずいことになる。



 かつて己を殺した勇者と全く同じ姿を見つめながら、ミリーナはガタガタと震えた。



(勇者じゃん!? 勇者いるじゃん!?)



 おかしい。人間は魔族と違ってそんなに長命ではないはずだし、そもそも勇者は公爵令嬢ではなくただの平民だったはず。

 もしかして勇者は人間の寿命すら超越しやがるやべえ生き物なのだろうか。いやいや、そんなはずはない。勇者だって人間だ。長くても百年前後しか生きられない。

 じゃあ他人の空似……なわけがない。生存本能が全力で「逃げて!! 超逃げて!!」と叫ぶレベルの、あの圧倒的なまでの強者のオーラはかつて父とミリーナを殺した勇者のものだ。



 では、もしかして魔族から人間に生まれ変わってしまったミリーナと同じように、リンデルも死んで生まれ変わってしまったということだろうか。

 前の時と全く同じ姿、同じ力を持って。そんなことってある?? あっちゃったから奴がいる。



(やだやだもう何で勇者いるの!? 人間に生まれ変わっちゃったのはいいけど、何で勇者いるのほんとなんで!?)



 ミリーナにとって勇者の存在はトラウマだった。

 殺されたからというのもあるけれど、殺される前になんだかすっごく怖いことをされたような、そんな気がするのだ。



 逃げなければと、ミリーナは半泣きになりながら女子寮へと向かう。



 今のミリーナは子爵令嬢で、王国の魔法学園に通っている。

 学園は広い。だから今の今まで勇者とすれ違うことはなく、その存在に気がつかなかった。

 でも今気がついてしまった。気がついたからには逃げ一択。だってあっちも記憶持ってる可能性あるし。

 また殺されてしまうのは嫌だった。



 あと前の記憶を思い出して、ミリーナの今の家族がたいへんクソなことも理解できてしまったから、余計逃げなければと強く思う。



 だって学園卒業したら、あのクソ両親はミリーナを金目当てに肥え太ったやべえ性癖持ちの変態伯爵に身売り、もとい嫁がせる気なのだ。

 それが当然というか、その道以外自分には無いんだと諦めていたというか、諦めさせられていた記憶思い出す前の自分に涙が出そう。いや既に泣いている。



 かつての父とどっこいどっこいのクソさ。あの父は変態に嫁がせることはしなかったけれど、毎日暴言暴力を振るってきたクソである。

 一体何度死ぬような目に遭ったか分からない。父の配下たちは死にかけるミリーナを見てはせせら笑い、時には魔法の練習台にまでしてくる始末。

 唯一味方してくれた乳母がいなければ早々に死んでたし、これが真っ当な扱いじゃねえことも理解できず仕方ないことだと諦め、酷い死に方をする羽目になっただろう。



 この世はマジでクソだと、ミリーナは死んだ目になった。

 生まれ変わる前もその後も、家庭環境が終わってる。しかも勇者までいる。

 世界は完全にミリーナのことを見放していた。



 クソッタレな世界に恨み言を吐きつつ、寮の自室で逃げるための支度をする。

 キャリーケースに着替えと、頑張って貯めていたお金の入った皮袋を突っ込み、ワンピースに着替えて部屋を出ようとドアを開ければ、何故かそこににっこり笑顔のリンデルがいた。



「顔を見るなり逃げ出すなんてひどいなぁ」

「ひぅ」



 なんで、どうして。

 ぐるぐると疑問が頭を駆け巡る。



 なんでここにいるの。どうして顔を見てなかったはずなのにこっちに気がついたの。



 はくはくと動く口はなんの音も出せなくて、バクバクと煩くなる心臓は命の危機を訴えてくる。



 聞かなくたって分かる。分かってしまう。

 彼女にも、前の記憶があるのだと。そして、前とは全く違う容姿なのにミリーナが何者であるのか気がついてるのだと。



「……な、なん、で……」

「あの時言っただろう? 死んでも君を忘れないって。また君を見つけ出してみせるって。まさか、覚えてない? だとしたらすっごく悲しいんだけど……まあいいや」



 腰に腕を回され、優しく抱き締められる。



「可愛い可愛い僕のお姫様。また前みたいにたくさんたくさん愛してあげる。たくさんたくさん可愛がってあげる」



 ドロリと甘い優しい声が、恍惚に染まる瞳が、とてつもなく恐ろしい。



 カタカタと体が震え足から力が抜けて座り込みそうになったけれど、鍛えられた腕がしっかりと支えられ、顎を掴まれ無理矢理上を向かされる。

 どこか仄暗い金と銀の瞳に、情けない顔をした自分の姿が映っているのが見えた。



「だから、逃げるな」



 低く冷たい言葉の後に、唇を塞がれた。



(『また』、逃げられなかった……)



 侵入してきた舌に口の中を好き勝手に蹂躙されながら、ぼんやりとそんなことを思った。

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