〝5年、秋〟

<6>

 

 今年も始まってしまいました。わたしが懸念していた、あの世界一息苦しい季節。

 ……わたしにとって息苦しいだけですけどね。

 朝の会で配られた保護者向けのプリントを、じっと見つめます。

『……年度 音楽発表会のご案内』

 運動会も終わり、残る大きな行事は音楽発表会だけとなりました。校内は、すでに音楽発表会一色です。

 毎日のようにある音楽の授業。それに加えて、朝の時間やなにも予定のない学活のときなどには、クラスでの自主練習(という名の担任監督の練習)も行われます。

 声を持たないわたしが「邪魔者」になる季節です。

 もちろん、合唱だけじゃなくて合奏の練習もあり、そのときならわたしは邪魔者ではありません。しかし実は合奏はそこまで難しくないので、あまりたくさん練習時間を取らないのです。

 いや、練習が短い理由はそれだけじゃない。うちの小学校の音楽の先生は合唱の指導で有名な人だとも言われていて、合唱には並々ならぬ熱意を持っているせいもあります。

 つまり端的に言うと、指導がすごくすごく厳しい。一般の生徒にもとても高い理想を求めます。その理想をただの小学生が叶えるためには、練習時間をたくさん取るしかないのです。

 厳しいのは歌に対してだけじゃなくて、伴奏にも。去年のリハーサルのときなんか、ひとつ上の学年の伴奏者が大泣きするまで先生に怒鳴られていました。それも全校生徒の前で。

 無論、わたしの学年はあの夕灯さんなので、怒られていたことなんて今まで一度も見たことありませんが。

 今日だって夕灯さんは完璧でした。楽譜をもらってまだ1週間だったオーディションのときとは全然違い、緻密でムラがなく端正な伴奏。音楽の授業が終わったあと、にこやかな先生に話しかけられながら肩に手を置かれていました。わたしだったら考えられないことです。

 でも、ものすごく綺麗な伴奏なのに、あのときみたいな情景や風は感じられません。

 しかしその原因は、彼のピアノじゃないとわかっています。きっとわたしの心がけがれているせいです。

 様々な嫌な思い出のある音楽の授業、さらに今は合唱の練習です。ましてやあの先生もいる空間で、あれほどの星空が浮かぶことなんて相当難しい。

 きっと素晴らしい伴奏のはずなのに、それを感じることができないほどこの季節の心は荒んでいるんだろうな。

 そのことが残念でなりません。

「夏俐? どーしたの暗い顔して」

 姫花の言葉に「なんでもない」を表すためにわたしは笑顔で首を横に振りました。

 あれ、でも。

 あの夏、夕灯さんは言っていました。

 ――『だあ、誰もいない、と、ときしか、上手く……』

 クラスの全員、全体練習となれば学年のみんな、はたまたリハーサルや本番となれば全校生徒。言葉通りにいくと、その大勢がいる前では上手く弾けないということになるのでしょうか。

 いや、わたしはなにを考えている。今の彼の伴奏が上手くないのなら、一体なにが上手いピアノと言えるのでしょう。

 でも、彼の『上手く弾けた』ときのピアノは、あの星空や風が……。

 ううん、だからそれは、わたしの心のせいだって。

 きっとそう。

 ああ、図々しいけれど、またあの風の匂いを感じてみたいな。

 ……わたしの心を綺麗にしないといけないのなら、無理か。

 だって夕灯さんの伴奏は、わたしの心が最も濁るあの合唱の時間にしか聴くことができないのですから。

 お願いすれば弾いてくれるのかもしれないけど、そのために話しかけるのもなんだかだし、そもそもピアノが使えないと。

「夏俐、そろそろ廊下に並ばなきゃ。体育館行くよ」

 そうだった、もうすぐ合奏と合唱の学年練習です。今はそれを控えた10分の休み時間。

 嫌だなぁ。

「夏俐、大丈夫、あたしがついてる」

 励ましてくれる姫花に向かって、わたしは小さなほほえみを浮かべます。

 秋らしい涼しい風が抜ける廊下。わたしたち3組が行かないと奥に教室がある4組が出られないので、早く出発しなければいけません。

 後々邪魔になるので、個人持ちであるリコーダーや鍵盤ハーモニカが必要な人以外はなにも持たずに行きます。楽譜は基本全部覚えます。

 その中で、ひとりだけ黒い画用紙に貼った楽譜を持っているのは夕灯さんです。あれはきっと『星空の歌』の伴奏譜。

 ……大丈夫、きっと大丈夫、たった45分だけ我慢すればいい。

 いや、違う。我慢するだなんて考えはおこがましい。歌えもしないのに練習に参加させていただいて、ステージに立たせていただくんだ。わたしなんかのことを、邪険に追っ払わないでいてくれているんだ。邪魔者がそこにいることを許容してもらっているんだ。

 そう、そう思っておけばきっと、苦しくなんてない。

 わたしは大丈夫。

 そう言い聞かせながら挑んだのだけれど、あの先生の顔と声で、わたしはやっぱり一気に暗くなってしまいました。

 背が低いせいで、わたしが立っているのは5列あるうちのいちばん前。それも、合奏からの場所移動の関係で、ど真ん中とまではいきませんが中央近くが立ち位置になっています。

「みなさん、もっと口を大きく開けて歌いなさい。ほら何度も言っているでしょう。縦に4本分の指が入るくらい、ですよ」

 縦に4本は結構きつくないか。まあでも、それくらい徹底するからあの美しい合唱が生まれるのでしょう。

 わたしの学校の合唱は、先生が厳しいだけあってそれはとても素晴らしいものです。毎年、涙を流す保護者が多くいます。

 練習すればしただけ上達するものというのは楽しい。だから、順位をつけたりはしなくても、児童は合唱に本気になることができます。まあ、順位をつけないのは単純に、つけてしまえば必ず6年生しか勝てないとわかりきっているからでしょうけど。

 最前列から、ピアノの置かれているステージの端のほうを盗み見ます。しかし、横の人との間に指4本分も入らないくらいぎゅうぎゅうに合唱隊は並んでいるので、夕灯さんどころかピアノの黒い身体すらも見えませんでした。

 『星空の歌』の前奏が始まりました。みんなが、指揮台でなめらかに動く音楽の先生を見つめます。

 指が1本も入らないくらいの口で小さくため息をつきました。隣の子も逆隣の子も、他のクラスの子で面識はありません。わたしのこと、さぼって口パクしていると思っていてもおかしくはない。

 合唱中、わたしは口だけは動かします。さすがになにもせず突っ立っているのは気が引けるからです。

 2番に入る前に、先生は手を振って歌と伴奏を止めました。少し考えるような仕草をしたのち、声を張って指導を始めます。

「もっとひとりひとりが歌詞の意味も考えてみなさい。それから、始めにも言ったけれど口ね、口。もっと大きく。大きく開けないとせっかくのあなたたちの美声も聴こえません。でも……」

 すっ、と、わたしを射抜くなにかを感じました。

「金魚のように無駄にパクパクするのもみっともないからね」

 ……視線。

 できるだけあの顔を見ないようにしていたので、すぐに気がつきませんでした。焦点を合わせていた先生の胸元のネックレスから目線を外して、彼女の顔を見ます。

 冷たい。

 けれど、指導中の今なら悪気があるんじゃないと思う。先生は『先生』だから、正しいことを言っているはず。

 そうか、わたしが最前列で悪目立ちして、みんなの邪魔になっていたのでしょう。

 先生は授業の中で、音楽は音だけれど見た目も大切だと言っていました。

 みっともなくて邪魔になっていたなら仕方ありません。周りに迷惑をかけないよう、修正しなければ。

 彼女はまだわたしを見ていたので、謝罪するように少しだけ頭を下げます。周囲の子に気づかれない程度に、少しだけ。

 そうすると、先生の視線がわたしから外されたのを感じました。

 この先生は、大勢の前でわたしを名指しで指導したりはしません。だから、みんなは全体に向けた注意だとしか思わない。それはお互いにとってとても都合の良いことです。

「歌うどころか喋ったことのないあなたに、正しい口の開け方なんてわからないでしょう?」

「………………………………」

 ……いま、

 今、なんて言った?

 いや、いや、違う。だって、今の先生はわたしのことをまったく見ていなかった。伝えたいことは相手の目を見て伝えるものだ、と言っていたのは先生のはずなのに。

 空耳……かな。

 一応、周囲を少しだけ見渡してみます。でも、引きつった顔をした子や、気まずそうにする子、なんのことかわからず不思議そうに首をかしげる子、そんな子は誰もいませんでした。

 ……うん、空耳だ。ただのわたしの被害妄想だ。

 大丈夫。ちょっと疲れていただけでしょう。

 『星空の歌』の間奏が始まります。しっかり指揮を見つめて、わたしは邪魔をしないことだけ意識します。



「ねぇ、なんで学校で合唱なんてすんのかなー?」

 給食中、4人班の中で唐突に声を上げたのは、わたしの右隣に座る女の子です。班を解体していつも通り座れば、わたしのひとつ前にあたる席。その子が言ったことに、わたしの正面の、つまり普段は隣の夕灯さんが不思議そうに顔を上げます。

 そういえば、昨日席替えをしました。うちのクラスは毎回、先生が事前にくじを引いて作った座席順になります。最初の席替えでは色々ありましたが、今は一応円満に行われています。児童にくじを引かせないのは、時間短縮のためと、視力や聴力に問題がある人、あと授業妨害をする人などの席を調整するためだそうです。結局くじであることに変わりはないので、正面切って文句を言う人は今のところいません。

 大体1、2ヶ月毎に行われる席替え。ですが奇妙なことに、わたしは夕灯さんとずっと隣なんです。

 でもわたしたちは目も耳も良いから、先生はくじで決める児童のはず。わたしたちのくじ運は不思議です。

 まあ、まったく関わったことのない他の人と隣になるくらいなら、ずっとだろうと夕灯さんのほうがよっぽど良い。

 今の班のメンバーがわたしはとても好きです。隣は夕灯さん、ひとつ前はさっきの女の子、たしかレナさんという子です。姫花とよく話すし、わたしなんかにあいさつをしてくれる人だから名前を覚えていました。そして、彼女の隣はクラスでいちばん頭が良くて誰とでも仲の良い男の子。

 そんなメンバーなので、給食中はいつもわたしと夕灯さん以外のふたりだけが喋っています。

「なんでって、なんで?」

「歌がどうしても苦手な人だっているじゃない」

「それなら、運動会も同じじゃないかな」

「運動会は、リレーとかは選抜だったりするでしょ。なんで合唱は全員強制参加なのかなぁって思って」

「ふーん」

 レナさんがコッペパンをはむっと食べると、頭の良い男の子が牛乳を置いて言いました。

「苦手な人がいるから、合唱なんじゃないの?」

「んぇ?」

「ひとりじゃ歌えなくても、100人もいればそんなに怖くないからさ」

「んー、ん〜……」

 パンを飲みこんだ彼女は、「そういうもんか」とつぶやきました。

「ぼくは結構合唱が楽しいと思ってるけど、もしかしてレナさんは歌苦手なの?」

「いやむしろ好きだけどさ。合唱がなくなれば、嫌な思いする人が減るんじゃないかなーって思っただけ」

「そう。よく思うけど本当に正義感強いよね」

「別に」

 ポークビーンズをすくって口に入れると、いつもの酸っぱいトマトの味がしました。

 ふたりの会話を文字通り黙って聞いていたわたしたち。夕灯さんがどうかは知らないけど、わたしは彼女の言葉について考えていました。

 合唱がなくなれば、嫌な思いする人が減る。それは、正解であり間違いです。

 仕方ないとはいえ、わたしは合唱の時間に少なからず嫌な思いをしている。でも、夕灯さんは、合唱のときに伴奏をして役に立っている。きっと彼はピアノが好き。それなら、伴奏をすることに喜びを感じているはずです。

 嫌な思いをする人は、ひとりは確実に減ります。でも楽しさを感じている人も減り、逆に嫌な思いをする人も出てくる。

 ……そんなこと考えたって、彼女に伝えることはできないか。

「夏俐ちゃん、大丈夫? あと5分しかないよ」

 はっ、しまった。完全に手が止まっていました。

 自分のお皿を見ます。まだたくさん残っている。やばい。

 夕灯さんは、とっくに食べ終えて足を軽くぶらぶらさせていました。

「どしたの、体調悪い?」

 彼女に表情で「大丈夫」を伝えて、急いでパンを口に詰め込みます。

 給食を残しても怒られるけど、時間に遅れても怒られる。だから猛スピードで食べて、ギリギリで食べ終えたわたしは急いで片付けに向かいました。

 早食いすぎてお腹が痛い。でも仕方がないです。わたしがぼーっとしていたのが悪いから。

 昼休み。図書室から帰ったあとはずっと姫花と一緒にいます。もしさっきの空耳が現実の音だったら姫花は今頃怒り狂っているでしょうが、そんなことはなくいつも通りごきげんです。やっぱり、空耳で間違いないのでしょう。

「あぁ〜、そういえば明日、大学病院行きなんだよねー。めんどくさいー!」

 大学病院。耳の経過観察です。

 ああ、明日だったなーという顔でメモにこう書きます。

〝どんまい〟

「何時間も待たせるくせに診察一瞬で終わるしさぁ。耳の調子が悪いっていったって、あたしは生活しててなんの不便も感じてないのに!」

〝ひどくなる前にみてもらったほうがいい〟

「まあそうなんだけどさぁ……学校遅刻すんのやだよ〜夏俐ぃ!」

〝じゅぎょうのことは教えてあげるから〟

「いやーん天使! 夏俐って頭良いし超頼りになるわ〜」

〝算数はひめかのほうが良いじゃん〟

「そうだっけー?」

 そうです。わたしが良いのは謎に国語と理科だけ。その他はまっぴらです。

〝何時間目くらいに学校これるの?〟

「うーん、わかんない。下手したら給食までに行けないかもしれないけど……あ、音楽の学年練習は6時間目だったよね?」

 こくりとうなずくと、姫花は「よかったー!」と笑顔になりました。

「さすがに6時間目までには行けると思う! 危ない危ない、アコーディオンの他の子に迷惑かけるところだった」

 音楽の時間に姫花がいるなら安心です。怖くても、同じ空間に姫花がいるだけで安心感が違います。

「もう、きれいさっぱり治りましたよーもう二度と病院来ないで良いよー、とかになればいいのにっ」

 それはわたしも同感です。

 わたしは、ひとつ願いが叶うなら、自分の声よりも姫花の耳の完治を望むかもしれません。

 姫花のためももちろんあるけど、いちばんはやっぱりわたしの欲。耳の診察や治療で、姫花はしばしば学校を休んだり遅刻や早退をしたりします。その間、わたしはすごく寂しいし心細いのです。

 小学1年生のとき、姫花は手術で数ヶ月間学校を休みました。

 あのときの心に穴が空いたような感覚はよく覚えています。昼休みに姫花のクラスの前を通りかかって、中をちらっと覗いたとき。邪魔だからでしょうか、姫花の席のいすが机の上に上げられていました。

 1年生にとっては難しいので、あの重たいいすは掃除のときでも上げません。だからあれは掃除のせいでもないし、やったのは絶対に大人せんせい。きっと授業中も昼休みも放課後もずっとあのまんまだったのでしょう。

 あの、あのときの言葉にできない怖さと虚しさを、わたしは二度と経験したくないのです。

 翌日。

 姫花が言っていた通り給食には間に合わなかったけれど、昼休み中になんともない顔で登校してきたのでほっとしました。

 学年練習もなにごともなく無事に終わりました。わたしは先生からの指導を踏まえて、口をほとんど動かしませんでした。それでもなにも言われなかったので、これが正解ということで良いのでしょう。

 今年は、わたしの心がいつになく落ち着いていました。

 きっとこれを成長と言うのでしょう。去年までの焦りや、どうにかして邪魔にならないようにしなきゃ、なんでわたしは役立たずなんだ、という思いがとても薄いです。

 あ、もしかしたら、夕灯さんのことをちゃんと知って、落ち着いたのかもしれません。

 彼を前にすれば、伴奏なんて諦めるしかないですから。

 この学年の合唱という世界において、夕灯さんはいわば太陽です。

 そんな太陽を知る前は、わたしも努力でその座につけるかもしれない、いや、どうにかしてその座につかなければいけないと思っていました。その役目を負わなければわたしはただの邪魔者。こんな合唱の列に混ざっていて良い人間じゃない。その思いからくるいたたまれなさが、わたしを焦らせていたのでしょう。

 毎年必ず安定した伴奏を弾く彼。

 必ずある。存在しないなんてありえない。だからと言って派手になったり邪魔をしたりはしない。ただ、そこにいる。そこにいて世界の全てを支えている。

 そうだ、わたしが伴奏者である夕灯さんに対して嫉妬心などを一滴も抱いていないのは、彼が太陽だからなのか。

 眩しくても、暑くても、太陽に向かって「いなくなれ」とは思いません。思ったとてそれが叶う相手ではありません。

 わたしは諦めるしかない。わたしは、ただの風ですから。

 とりとめもなく吹く風。匂いもない。安定しないし、足元を据えることができない。だからなんの役に立つのかもまるでわからない。いるだけでたまに草花を逆立てる、木々の葉を散らす、邪魔な風。かといって、はるか宇宙の太陽にはなんの影響もない。

 合唱をするみんなと先生は木々や草花です。音楽は関係ないけど、姫花だったら桜かな。

 そんな想像をしながら、透明なくせにたまに草木の邪魔をする風に嫌気が差しました。

 せめて、夕灯さんのピアノに吹く風みたいに綺麗な匂いがすればいいのに。

 でも、それも無駄です。そよごうが突風になろうが風は風。少しでも邪魔にならないように振る舞うのが最適でしょう。

 本番さえ終われば、今年の合唱も終わり。1年間はなにもない。今までの4年間もずっとそうだった。

 だから大丈夫。

 ……なんだか、今年はいつもより楽に終わるような気がしてきました。



 心配する姫花の視線を浴びながら、今日もわたしは体育館ステージの最前列に立っています。背が低いから仕方ない。歌わないのに真ん中にいるのも仕方ない。

 いよいよ本番が来週に迫っています。練習も大詰めの今、ぴりついた雰囲気の中どうにか息をするしかありません。

 でもやっぱり、去年までに比べたら気持ちが楽かも。きっと、成長と諦めのおかげです。

 それでもさらに楽をしたいわたしは、先生の顔から目をそらします。顔ごと他の方向を向けば悪目立ちしてしまうので、あくまで視線だけ。

 夕灯さんのピアノからは、あの夏のような夜空は広がりません。

 歌声の渦の中でぼーっとしていたら、不意に先生が手を止め、ピアノも歌も止まりました。

「次は、合奏と合唱の両方を通しでやってみます」

 本番通りの練習です。そう声をかけられて、みんなが静かに定位置に移動します。聞こえるのは靴下と床の擦れる音だけ。誰もなにも喋らないのは、先生を怒らせるとめんどくさいから。

 いつも通りのがちゃがちゃとした合奏。わたしは鉄琴の担当です。合奏を終えたら、バチをさっと片付ける。そして、黙ってすばやく合唱の形に整列。もう何十回もやったので慣れています。

 整列が終わると、普段の練習通り先生の指揮が始まってピアノが入ります。曲はもちろんあの『星空の歌』。でもやっぱり、風は吹かない。

 歌が始まり、わたしは置物になります。

 通し練習なら、さらに何も考えなくていい。

 今年になりようやく諦めることを覚えて、気が楽になりました。結局声は出ないくせに、みっともなく金魚みたいに口をぱくぱくする必要はない。ただ、立っていればいい。

 1番が終わる。ピアノ間奏が始まる。それを淡々と眺めているような気持ちでいました。

 やはり今までのような焦りがないです。諦めって肝心なのかもしれま、……せん。

「……………………!」

 指揮、が、止まりました。

 少し遅れてピアノが止まり、それに気づいた歌がようやく止まります。

 ステージに並ぶ5年生たちに、さわさわとどよめきが広がりました。

「え、なんで」

「あれ? 通しじゃないの?」

 その中心で、わたしはひとり青ざめていました。

 先生の、見たものを石にしてしまうような恐ろしい視線が、まっすぐわたしを貫いていました。

 ……どうして。

 指揮台から降りた音楽の先生が、1歩、2歩、前に出ます。姫花のような煌めきや、夕灯さんのような光は微塵もない、暗く無情な瞳が、わたしを凍りつかせました。

 わたし……今日は、何にもしてない。

 なんにも、みんなの前で睨まれるようなこと、してない。

「林田さん」

 先生は乱暴に、わたしの名前を言い放ちました。

「そんなんなら出ていってちょうだい。要らないし、邪魔だから」

 突然のことに目を見開いて固まったわたしに、先生は責め立てるように続けます。

「あなたずっと突っ立ってるだけじゃない! こんなにも他のみんなは頑張っているのに」

「口を開いたと思えばデタラメだし、注意すれば口すら動かさなくなるし」

「そんなあなたがいるせいでみんなのやる気も削がれてしまうんですよ!」

「声のこととかあるのはわかるけど、自分にもできることがあるかとか、いつか聞きに来ると思ってず――っと待っていたけど」

「伴奏をやる気もないみたいだし」

「今日まで待っても何も行動しないじゃない」

 え、え、ちょっと、ちょっと待って。

 わたしは、わたしは……。

「あのね、聞いてるの? 今あなたは学年全員の時間をひとりで無駄にしているのですよ!」

 降り掛かったその言葉に、わたしは信じられない思いで先生を見つめます。

 わたしは……。

 邪魔にならなくていいなら、なりたくないの。

 聞きにくることができないの。声が出ないの。

 どうせ書いたってあなたは見てくれないの。

 伴奏できるならしたいに決まってるの。

 わたしだって、できるなら、できるなら。

 みんなと一緒に、歌いたいの。

 急に……急に、なんなの?

「ほら、早く出ていってください」

 ……それなら最初から。

「泣いたってしょうがないでしょう!」

 ……最初から、ここに、立つつもりはないのに。

 でも、でも、ここにわたしの立ち場所をつくったのは先生でしょう。

「その涙になんの意味があるんですか。そんなだから――」

 先生が言ったのはそこまでだった、と、思います。よくわからないのは、はっきり聞こえなかったし、聞くつもりもなかったからです。

 わたしは突然真っ暗のなかに突き落とされて、そこで動けなくなっていました。

 ああもう、このふらつく足で構わないから走って逃げだしたい。本当は。

 でも「出ていけ」と言われて本当に出ていく小学生なんていません。みんなもわたしも、わかっています。大人とは、そんなものなのです。

 だからもしみんなだったら、今取るべき最善の行動は誠心誠意謝ることです。でも、わたしは、それを文字にしかできない。

 聞かなくても聞こえる声とは違う、見ないと見えない文字は、きっとあなたは見てくれないでしょう?

 じゃあ、もう――。

「………………!」

 ――いまさら、気づいた。

 いま、今のぽかんとした先生の視線の先は、わたしじゃない。

 先生は、丸くした目でピアノを見ていました。

 どこかで聴いた歌が、ピアノから流れ出しています。それがすぐ何の歌かわからないくらい、わたしの頭は動かなくなっていました。

 徐々に、わかります。

 深い紺の空。

 無数の星粒、そして、風。

 夜空の匂いをたっぷりと運ぶ風。

 レモン色をした大きなひかり。

 そうだ、ピアノの音、夕灯さんの『星空の歌』。

 さっき止められたところの続きです。4小節の間奏を終えて2番に入ると、おそるおそる探るように、みんなが歌いだしました。

 先生の指示もなく歌声が生まれたのは、きっと彼のピアノのおかげです。ただの伴奏じゃない、本物の夕灯さんのピアノ。風の匂いを運ぶような音に歌を煽られて、草花は歌うしかなかった。

 最初は数人。でも声の束が集まって、次第にいつもの合唱へと進化します。

 その様子を、いえ、正確にはピアノだけを、先生はあっけにとられて見つめていました。

 ピアノから、あの夏のような夜空がくっきり広がっていました。

 きっと、この場にいるみんなにも見えている。

 先生は立ったまま固まっていて、まるで金縛りにあったようです。

 ……先生はこの景色、見たことがなかったのか。

 ――そうだ。

 今しかない。

 わたしは、一度服の袖で目元を拭うと、もう何も迷わずに、体育館の出口へ駆け出しました。

 誰も、止めようとはしませんでした。

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