1章 名前
第11話
「妹の名前、ですか」
例によって呼び出された、いつもの長老の天幕で。俺は長老たる自分の保護者の婆様に言われて首を傾げる。
基本的にこの集落の人間は家族以外に自分の名を教えることもないし、他人のいる場所で家族の名を呼ぶこともない。
例外は目の前にいる長老の婆様か。確か命名に立ち会うから全員の名前を知ってるし、覚えてる、らしい。
死んだ人の名は適切な場面であれば呼んでいいが、むしろそれだからこそ、それこそ葬式でもなければ、他家の人間の名前を問うことはしないのだが。
ちなみにうっかり聞いちゃったから知ってる名前、はないでもない。それは口に出さなければ大丈夫ってことになってる。
羊追いんちの爺ちゃんとか、結構大声で放牧場で名前呼んで子供や孫に怒られてるからなぁ。
って、あれ……?
「そういえば、聞いた覚えが……ない……?」
言われてみれば、この集落の慣習に従っていたから別段困りはしなかったが、両親に妹の名前を教えてもらった覚えがない。
いや、待てよ?確か……俺が名前を貰ったのって……
「お主も知らんとな?もともとこの集落で生まれたわけでもないし、ここでも家族の間では年下は普通に名前で呼ぶものじゃぞ?」
婆様の呆れた声で思考からいったん引き戻される。
って、そうだったのか?
基本、朝夕の食事は婆様の姪のおばさんのところで貰うんだけど、そこでおばさんが誰かを名前で呼んでるのなんて、……ああ、そうだ、あるわけがない。
俺がいる時点で『他人のいる場所』なのだから、子供たちを名前で呼ぶなんてできないだろう。
俺や妹がいること自体ちょいちょい忘れてる羊追いの爺ちゃんと一緒にしちゃだめだな?
ってことは、俺より小さい子に窮屈な思いさせちゃってたのかな。全然気が付いてなかったよ、悪いことしちゃったかな。
いやでも今の問題はそこじゃあなくて。
ああ、そうだ、なんだかずっと昔のことみたいですっかり忘れていたが、多分原因はあれだ。
「いや、それがだな婆様。俺らの生まれた村だと、五つになるまでちゃんとした名前を付けないことになっていたんだよ。それまでは神様の子供だからって」
「ほう。儂らは名は一歳の誕生祝いに贈るものと決まっておるが、五つとは随分と遅いのじゃな。
いや、もう少し遅い風習の土地もあると昔誰ぞに聞いたのう。それで……あ」
どうやら、婆様も気が付いたらしい。
妹はここにきて、五歳になる直前に、集落で流行った熱病で両親と死別してしまった。
両親はこの集落のしきたりは積極的に守ろうとしていたけど、自分たちのそれは口に出すことすらあまりなかった。
だから、それぞれの住民の慣習の隙間に落ち込んだように、妹の名前のことは誰にも気付かれないまま、ここまできてしまったのだ。
俺がちゃんと気が付いてやらなきゃいけなかったんだろうか。でもなあ……
「あの時は……とにかく流行り病で集落中がどたばたしていたし、俺も妹も軽いとはいえ罹っちゃいましたし……」
昔からこの集落や、近く(といっても徒歩だと一日では着かない場所だ)で時々流行る病は、子供にはあまり強く現れず、そのくせ大人が罹ると一気に重症になり、そのまま……ということがそこそこあるもので。
その時の流行では、村の半分以上の人が熱を出し、うちの親以外にも、羊追いの家の、今の俺よりちょっと年上くらいだったきょうだいがふたり亡くなっている。
一度罹ると、次からは数日間、だるくなる程度の熱が出るだけなのだそうだが、他所から来た我が家の人間と、たまたまその前の流行りの時に集落の外の親戚のところにいて罹っていなかったそのきょうだいたちだけが、命にかかわる熱にまで悪化して、結局やられてしまったのだ。
本当なら、親父は傷縫いと骨接ぎが専門とはいえ、一応腕のいい医者だったそうだから、そういった病には警戒してしかるべきだったんだろう。でも、病人の相談や看病や治療を優先して、病が感染ってそのまま死んでしまった。
別件で大怪我して命を落としかけてた人がいたから、しょうがないのだけど。
そういや去年もちょっとだけ流行ったな。悪化する人がいなくてすぐ収まったけど。あれから、子供が二人増えただけだものな、この集落。
「そうであったな……いやはや、儂もうかつであったわ。
さっきも言うたが、儂等は生まれて一年目に命名の儀式をすることになっておる。
ここ数年でも二度あったが、家族の者と長老たる儂以外に儀式を見せることはない故、お主も妹も気付けんかったよなあ。
となれば、せめて成人までには名を付けてやらんとな。真名を付けるのは血を分けた身内と決まっておる。お主が考えてやるがいい」
なんと?いや、まあ、実際他の人にやってもらうもんじゃないのは判っているが!
―◇―◆―◇―◆―◇―
物事には、何をするにせよ、よき日取りというものがある。
と主張する婆様に、せわしないことではあるが、日取りとしても予定としてもちょうど良い日だから明日にしようといわれて、あっはい、とつい返事をしてしまったのがついさっき。
流石に考える時間が必要だろう、と、午後の仕事はとりあえず免除されたので、集落を歩きながら考える。
しかし困ったな、なんとしよう。
女の子につける名前なんて知らないぞ?!
いやほらだって、この集落誰も名前で人を呼ばないし。死んだ人の名前は憶えている家族がいる間は基本つけないそうだし。
名前を知る機会自体がないんだよなあ。俺は読み書きは習い始めた頃に教えてくれてた親が死んじゃったから、きちんと習い終わってなくてあんま読めないし。いや、集落で文字を読める人半分もいないけどさ。
羊追いは親羊全部と、犬たちに。そして馬見役は馬たちにそれぞれ名前を付けているとはいうけど、そっちは二~三音の簡単なものだ。
で、短いことの理由を聞いたら、人の名前みたいに考えてたら終わらねえ、って言ってたから、あれは人の名前とは違うもののはず。
いかん。今更自覚したけど、女の子どころか、人につけていい名前の知識が全くないや俺。
流石に前に住んでいた所の人の名前まではもう記憶にない。今の半分くらいの年だったしなぁ。
俺が親に貰った名前は『ケスレル』だけど、意味とか知らんし。ってそういや俺の名前も婆様に教えてないな?まあそれはいいや、問題があったら婆様から聞いてくるだろうし。
少なくともここでは、名前はほかの人に知られちゃいけないことだから、相談役に頼ってってわけにもいかないしなあ……
あ。でもあの兄さんのところなら本がいっぱいあるから、それをダシにして何かいい案を貰えないかな。
俺はろくに読めないから手間はかけさせちゃうけど。
本というのは今はほとんど作られていない貴重なもので、大半は羊や山羊の革を薄くして切りそろえた物に文字を書いて綴じ付けたり、巻いたりしたものだ。
相談役曰く、英知と愉快が詰まっている宝物なんだそうだが、文字がほとんど読めない俺や、集落の他の人には、たまに綺麗な絵が描いてある重たい塊でしかない。
いやまあ、実際相談役が他所からくる詐欺師とか、胡散臭い商人から集落を守れるのは書物の知識もあってこそ、らしいんで、そこはみんな評価してるんだけど。
っつか相談役、巻いてあるほうの書物は自分で写し書いたらしいんだよな。知識への執念ってやつだって自慢してた。
とにかく、些細なことから、割と大ごとまで、いろんなことを頼まれて、ときには自分のことで聞きに行くから、婆様以外で一番よく話をするのが実はこの相談役だったりする。
「おう、行きて戻りし坊主よぅ……って、うちに来るとは、まさかまたお告げか?」
考えてたら、ちょうど相談役が己の天幕から顔を出したところだった。っていうか。
「いや、今日は別件。そうそうお告げなんて乱発されるもんじゃないんじゃないの?で、その行きて戻りしってなに……?」
言わんとすることは判るし、理由もまあ判らんでもないんだが、まさか、それが俺の呼び名になっちゃうの?ちょっと嫌だぞ。長い。
「試しに呼んでみたが、やっぱり長すぎるよなあ!もうちょっといいの考えてやるわ。祖霊様の意思を遂行しきったお主に”何でも屋”なんて呼び名付けたら怒られそうだし。
……で、今日はお告げでないならなんだ?」
なんだ、本人も長いって自覚あったのか。って仕事柄以外の皆の呼び名、もしかして相談役がつけてるの??仕事多いな??
そんで、お告げの件がなかったら、俺何でも屋になる予定だったの?
……いや、後者はちょっと自覚はあるな。何が自分に向いてるか良く判らないから、集落にある仕事を片っ端から手伝ってたもんな、俺。
結局、どれも平均的にできる新人程度、と言われはしたけど、自分の仕事としてはピンとこなかったんだけどさ。
相談役の予想外の仕事の存在と、回避された呼び名の件にちょっと面喰いつつ、用事を告げようとして……はて、どう伝えたらいいのか。と考える。
そういえば、そもそも、どこまで話していいものなんだろう、この話。
名前自体が隠されるべきものなら、名前がついてない状態ってのも隠さないとまずいよな、多分……
「あー、うん、ちょっと……なんていうか……俺、全然ものを知らないなあと思って……」
しょうがないから、あえて歯切れの悪い物言いをする。別に間違ってはいないさ、ものっていうか、名前に使える言葉がどんなのか知らないって話なんだけども。
いやまあ、それ以外のことも大して知りはしないが。
名前に使っていけない言葉なんてあったのに知りませんでしたはちょっとまずいと思うんだ。
いや、そもそも名前に意味は込めていいものなのか?命名の儀式とかするなら込めたほうがいいのかなあ。
ほら、もうこんなところから判らない。
親がいないって、こんなところにも影響があるもんなんだ……これまで、そこまで考えたことがなくて、いや、考えないようにしていて、気付かなかった。
「軽く言ってる割にツラが深刻そうだな。ちょっと話くらいは聞いてやるから、中に入れ。茶は出んがな」
自分で思っていたより暗い表情にでもなっていたらしい。
相談役が雑な普段の口調でそう言いながらも、割と真顔で心配そうに招き入れてくれたので、そのまま天幕に邪魔することにした。
―――
新章スタートです。
(´・ω・)やっと主人公の名前が出たぞ!(待ちたまえ
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