後日談第1話 この朝をいつもの光景に

「おはよう、良く眠れた?」


 マルガリータが屋敷に帰ってきた、次の朝。

 気合いの入ったアリーシアの仕事ぶりに感謝しながら、可愛く着飾ったマルガリータを、一階の食堂で出迎える。


 見慣れない光景だからだろう。

 マルガリータが驚いた様に目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをしているのを前に、苦笑が漏れる。


(これは、間違いなく俺のせいだな……)


 毎朝、マルガリータと朝の挨拶を交わしていたのは、ディアンではなくダリスだったはずだ。

 いつもと違う朝に驚くのも、無理はない。


「おはようございます、ディアン」


 ただの庭師だと疑われもしていなかった頃と同じように、白いシャツとズボンという、屋敷の主人としては簡易すぎる格好で迎え入れたのは、マルガリータがディアンの事を、王子だから好きになってくれたわけではないと知っているからだ。

 それに、いつも通りの格好をしていた方が、新しい生活が始まったばかりで戸惑うことも多いはずのマルガリータにとっては気が楽だろうという、配慮でもある。


 黒を纏う不吉の王子だと、マルガリータに明かすのが恐くて、ディアンは情けなくもずっと逃げていた。

 だからこの屋敷内で、ようやく何も隠し事なくマルガリータの前に立てる様になったのは、今日が初めてだ。

 これからは、一番にマルガリータに朝の挨拶をするのがディアンである様に、それこそがいつも通りの変わらない日常になる様に、努力していきたいと思っている。


 毎日、主人の不在を謝罪していただろうダリスが、後ろに控えて澄ました顔をしているのが新鮮らしく、マルガリータの視線がディアンを飛び越えて、後ろに注がれているのが多少気にはなる。

 だが今はこうして、マルガリータに何の秘密もない状態で、朝の挨拶が出来る日が来た事を、感謝すべきだろう。


(隠し事も偽りもない、ただのオブシディアンとして、愛しいマリーに再会出来たんだから)


「今日からは、俺も一緒に朝食を取ってもいいかな」

「もちろんです!」

「ありがとう。マリーは、今日も可愛いね」


 スッと差し出した手に、何の戸惑いもなく手が重ねられる。

 それが嬉しくて、そのまま甲にキスを落としたら、マルガリータがびくっと肩を跳ねさせた。


 以前から思っていたが、マルガリータは異性との接触に、あまり慣れていない様子である。

 元伯爵令嬢という事もあり、エスコートされる態度にぎこちなさはないけれど、それ以外の接触となると、途端に身体が固まってしまう。


 ずっと恋心を温め続けて、いっそ発酵寸前だったディアンと違って、マルガリータがディアンを気に留めてくれるようになったのは、恐らくつい最近の事だ。

 今まで恋人はいなかったと聞くし、こういった触れ合いには、慣れていないのかもしれない。


(誰の目にも届かない所に、いっそ閉じ込めてしまいたい)


 そう考えてしまう位には、想いを拗らせているディアンにとって、他人との触れ合いに慣れていない様子なのは、願ってもない事だ。

 けれど、ディアンとの触れ合いにまで驚かれると、少し傷付くのは我儘だろうか。

 これから慣れてくれるのを期待して、気長に続けて行くしかない。


「きょ、恐縮です」

「そんなに畏まらないで」


 僅かに開いた距離さえももどかしくて、わざと朝食の場面では必要のない、腰を抱く密着型のエスコートで席まで案内してから、その正面にディアンも腰掛ける。

 マルガリータと一緒に過ごす、朝の食卓。

 それだけで、何故だか空気が温かい。


 バルトとアルフが朝食を並べ、ディアンにはハンナが、マルガリータにはアリーシアが、丁寧に紅茶を淹れてくれる。

 メニューはいつも通り、マルガリータの好みに合わせるように言っておいた。

 ふわふわのパンと、野菜を煮込んだスープがメインで、軽めのおかずが申し訳程度に添えられている。


(思っていたより質素だが、これで良いのか?)


 疑問に思って顔を上げると、「いただきます」という声と共に、マルガリータが幸せそうな顔で朝食を口に運んでいたので、大丈夫らしい。

 ディアンは食事にあまり拘りがないので、マルガリータが美味しそうに食事が出来ているのならばそれで良かった。


 それに、バルトの腕は確かである。

 質素に思えても、簡単なものだからこそ、味付け等に拘っている所もあるのだろう。


「今日は、私に合わせて下さったみたいですけれど……。ディアンはいつも、どんな朝食を取っているのですか?」

「いつもは厨房で、適当にバルトが作っている使用人達用の朝食を、横から摘まむ事が多いかな。ちゃんと皿に盛り付けられた食事は、久しぶりだ」

「……は?」

「生きて行く為の栄養素さえ取れれば、食事なんて何でもいいと思っていたけれど、マリーと一緒に食べると、とても美味しく感じられていいね」


 普段の様子をありのまま答えると、マルガリータが「ちょっと意味がわからない」と、本気で訴えて来ている目をしている。

 そして何故か助けを求めるように、マルガリータは給仕を終えて壁際に立っていたバルトに、そっと視線を移した。


 ディアンもマルガリータの視線を追いかけてバルトを見ると、肩をすくめて大きく頷いている。

 ディアンの言葉を全面肯定しての行動だが、「やれやれ」とでも言い出しそうな顔をしているのは、何故だろう。


「待って、ディアン。いえ、確かに一人で食べるよりも誰かと一緒にする食事の方が美味しく感じるのは、確かにわかるのだけど……。朝食が美味しいのは、バルトさんが日々腕を磨いて、心を込めて作ってくれているからです。ディアンはこの素晴らしさを、ちゃんと理解していますか?」

「マリー、なんだか顔が恐いよ? どうしたんだ?」

「嬢ちゃん、よくぞ言ってくれた! 是非とも、もっと言ってやってくれ。旦那様は食えれば何でも良いと思っているから、凝った料理の一つも作らせてくれねぇし、盛り付けの必要性も理解してねぇ。嬢ちゃんみたいに美味そうに食ってる所なんて、見たこともない。張り合いがないって言う、レベルじゃないんだ」

「本当に?」

「本当でございますよ。旦那様はこの屋敷に移られてから、この食堂でお食事をなさった事など、無いに等しい」


 バルトの言葉を受けて、信じられないという瞳をしたマルガリータに向かって、淡々と言葉を付け加えたのはダリスだ。

 心なしか、使用人達全員の表情が冷たい。


 むしろ、食事の用意や後片付け等の必要もないし、少人数で忙しい使用人達の手を煩わせなくて良いと思っていたのだが、責められている雰囲気がひしひしと伝わってくる辺り、どうやらディアンの認識は間違っていたようだ。


「なんて勿体ない!」

「マ、マリー?」

「確かに生命維持に必要なのは、栄養素だけなのかもしれません。置かれた環境的には、何でも良いから口に入れていかなければならない方々だって、この世界には沢山居るでしょう。それは、私自身が経験したことでもありますから、知っています」

「すまない、助けるのが……」

「ですが! 幸いなことに、ディアンはそういう環境ではないのですから、食事はもっと楽しむべきです。これからはディアンに、バルトさんの作る料理の素晴らしさを、教えて差し上げますね!」


 奴隷に堕とされた時の、食事経験を言っているのがわかって、自分の力のなさを苦々しく思いながら謝罪を乗せようとした言葉は、向かう相手であるマルガリータ自身によって、今の問題はそこではないのだとでも言う様に遮られた。

 一気に言葉を重ねられて微笑まれたら、もうディアンには頷くしか選択肢がない。


「あ、あぁ……わかっ、た」

「バルトさん、ご協力頂けますか?」

「よしきた! 嬢ちゃんが協力してくれるのなら、百人力だ。すぐにでも、旦那様を唸らせてやる」

「あ、でも食料が無駄になるようなやり方は、駄目ですよ。食材に頼らなくても、バルトさんの腕なら問題ないんですから、適量でお願いしますね」

「もちろんわかってるさ。期待には全力で応えてやるから、楽しみにしてろ」


 熱く視線を交わし合って、今後の食事のあり方について議論を始める二人だが、当の本人であるディアンは置いてけぼりだ。


「マリーとバルトは、随分仲が良いのだな……」

「マルガリータ様は、伯爵家で育ったとは思えない程に、良い意味で貴族らしい思考をお持ちではありません。我々使用人とかなり近い視点にいらっしゃるので、驚きも多いですが……そのお考え自体は、間違ってはおられないと存じます。バルトとは特に気が合いそうな思考を、お持ちではありますね」

「旦那様がもたもたしているから、バルトに先を越されるのですわ」


 面白くなさそうな顔が、出てしまっていたのだろう。

 ディアンの呟きは、傍に居たダリス・ハンナ夫妻の耳に入ったらしい。

 だが二人はディアンを慰めるどころか、呆れた声で追い打ちを掛けてくる。


「でもでも、マルガリータ様は、旦那様と庭園で話している時が、一番楽しそうでしたよ!」

「それに、旦那様のブレンドされたお茶を、いつも嬉しそうに飲んでらっしゃいました!」


 しょんぼりと落ち込んでいくディアンを見かねて、年若いアルフとアリーシアまでもがそっと近寄って来て、慰めてくれる。

 だが、ディアンはマルガリータと年の近いこの二人こそ、気安く仲の良い確固たる関係を築いているのを、知っていた。


「……ありがとう」


 慰めてくれている年下の二人に嫉妬するのは、流石に大人げない。

 というか、心が狭すぎると自分でもわかってはいるからこそ礼を声に乗せたものの、表情が全く付いてきていない自覚はある。


「我々に嫉妬していないで、今後はマルガリータ様と一緒の時間を、もっと過ごされるべきですね」

「そうする」


 ダリスを始めこの屋敷の使用人達は、あまり主人の為に何でもすることが至上という態度では決してないので、落ち込んでいても簡単には甘やかしてくれない。

 それはディアン自身が望んだことでもあったし、だからこそ絶対的に味方でいてくれるのを知っている。

 だから、問題はない。ないのだけれど、わざわざとどめを刺す必要も、ないのではなかろうか。


 生まれてからずっと、敵に囲まれて過ごしてきたディアンにとって、この屋敷の使用人達は味方でいてくれる唯一であり、信頼できる仲間でもあると思っていた。

 だから彼らの言葉に嘘はない事も、厳しくてもディアンのた為を想ってのものだと言う事も、勿論わかっている。


 わかってはいるのだが、自分のせいだとわかっているからこそ傷付く、という事もあるのだ。

 だが結局、使用人達の言葉は正しい。

 「食事のあり方は改めろ」と暗に苦言を呈してくれるダリスの真意が、ディアンの為を思っての事だろう事もわかるので、ここは素直に頷く事しか出来なかった。


 隠し事をしているのが後ろめたくて、助けられなかった自分が不甲斐なくて、この屋敷の主人オブシディアンとして、マルガリータと会う事を避けてきたのは、確かに自分自身で下した「逃げ」という判断だった。

 何の説明もなく、自分の置かれている状況もわからず、知らない場所に連れて来られた状態のマルガリータに寄り添ってくれたのは、使用人達だ。

 どう考えても、現時点で分が悪いのはディアンの方である。


 いくら幼い頃一緒に過ごした時間があるとは言え、それはほんの数年の事だ。

 あの頃はまだ、王宮が囚われの場所だったから頻繁に脱出することは難しく、実際にはそう頻繁に会えていたとは言い難い。

 しかも、まだ幼かったマルガリータからすれば、ディアンと過ごす時間など一瞬の出来事にしか、感じられていなかっただろう。


 幼い頃に、「友人」だったディアンの事は覚えてくれていたようだったし、あの頃から共通の話題だったハーブを、今もマルガリータが忘れず好きでいてくれた事は、繋がりを感じて嬉しく思う。

 けれどやはり、ディアンとマルガリータの間には、想いに大きな差があるような気もしていた。


 ディアンが、本当の意味で正しくオーゼンハイム家の事情を理解して、怖がらずにマルガリータへ素直に自分の気持ちを全て伝えていれば、離れる事も婚約の申し出を断られる事もなく、婚約者としてずっと傍に居られたのかもしれない。

 ディアンの置かれている立場から考えると、マルガリータにとってはあまり望ましい相手ではなかったかもしれない。


 けれど、そんな事を思わせる隙もなく愛せば良い事だと今ならわかるし、そうして行きたいと決心出来たからこそ、今回告白に至ったのだ。

 だがもし、あの頃のディアンにその覚悟があったなら。


 マルガリータが学園でされた理不尽な仕打ちも、奴隷に堕とされるというあり得ない事態も、ディアンを庇って生死を彷徨うような傷を負う事も。

 全部がなかったのかもしれないと思うと、自己嫌悪はすぐに襲ってくる。


「ディアン、聞いていますか?」

「え、あ……あぁ。聞いている」

「本当に?」

「すまない……何だっただろうか」


 過去の過ちに囚われて、ぐるぐると「たられば」を考え始めてしまう。

 マルガリータの呼びかける声で我に返ったが、その間に進んでいたらしい話は、耳をすり抜けていた。


 誤魔化すように頷いてみたものの、マルガリータにはすぐバレてしまったようで、じっと真っ直ぐに見つめてくる視線に耐えかねて、素直に謝る。

 マルガリータは怒ることなく、むしろ心配そうな表情で、言葉を重ねてくれた。


「これからは、朝食だけではなく昼も夜も、私と一緒に食事をして下さいませんか? お忙しいのはわかっていますが、厨房にある物で済ませてしまうのではなく、バルトさんの作る料理を、ここで座って食べましょう」

「それが君の望みなら、喜んで」

「はい。必ずですよ」

「もちろんだ」


 これから先、マルガリータの望むことは全部叶えてあげるつもりではいる。

 けれどこの提案は、ディアンにとっても願ってもない誘いである事に違いなく、断る理由はどこにもなかった。

 大きく頷くと、マルガリータが嬉しそうに笑うから、ディアンも笑顔になる。


 昔からマルガリータの笑った顔を見るだけで、ディアンの荒んだ心は浄化される気がしていた。

 それだけ、マルガリータの表情一つには、大きな力がある。


「マリー。今日この後の時間を、俺が貰ってもいい?」

「もちろんです。それがディアンの、望みなら」


 ディアンと全く同じ台詞を、マリーが声に乗せる。

 ぽかんとしていると、マルガリータはくすくすと可笑しそうに笑っていた。


 そしてようやく、マルガリータが「甘やかし過ぎです」と暗に告げているのと同時に、「それならこっちも甘やかしますよ」と宣言されていることに気付いた。

 マルガリータを甘やかすのが、ディアンの幸せでもあるのだから、そんな事を気にしなくても良いのに、マルガリータはディアンと同じだけの、いやそれ以上の優しさを返そうとしてくれる。


(敵わないな……)


 幼い頃からずっと、マルガリータは黒の呪いによって闇に犯されたディアンに、光をくれる天使だ。


「まだ、外へ連れ出してあげられる準備は出来ていないんだが……良い天気だし、この後庭園でデートしないか?」


 あの日を、やり直させて欲しい。楽しい記憶に、書き換えてしまいたい。

 ディアンのその思惑はしっかり伝わったようで、マルガリータは笑顔を崩す事なく、頷いてくれた。


「嬉しいです。それなら少しだけ、時間が欲しいのですが……」

「ゆっくり準備してくれて構わない。せっかくだから、今日の昼食は庭園で……というのはどうかな?」

「素敵です。楽しみにしていますね」


 嬉しそうなマルガリータの返事に、使用人達へ向いていた嫉妬心はあっけなく霧散していく。我ながら単純だ。

 屋敷の主人であるオブシディアンとして、マルガリータと共に過ごす時間を作ることは出来なかった。

 けれどそのおかげで、マルガリータがディアンを庭師だと勘違いしてくれたからこそ、毎日会えていたのも事実なのである。


 その時見せてくれていた表情は、使用人達へ向けられる信頼のそれと、同じだったかもしれない。

 けれど、今ディアンに見せてくれているのは、それとは全く違う親愛によるものだと、マルガリータはわかりやすく示してくれていた。


(ちゃんとマルガリータは、俺を「特別」にしてくれている)


「俺も楽しみだ」


 食事も終わっていたので、立ち上がってマルガリータの傍へ行き、額にキスを落とす。

 吃驚したように目を見開いたマルガリータに、「ゆっくりしておいで」と目を細めて声を掛け、ディアンはダリスを伴って執務室へと足を向けた。

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