第17話 感情を出してもいい優しい場所
「お邪魔します」
「おぅ。来たな、嬢ちゃん」
場所だけは聞いてはいたけれど、まだ一度も踏み入れた事がなかった料理人の聖域を覗き込みながら、声を掛ける。
どうやら使用人達の朝食も終わり、片付けを始めた所だったらしいバルトが、皿を洗いながら片手を上げ「来い来い」と手招きしてくれた。
他の使用人達は、既に各々の仕事へと向かったらしく、厨房にはバルト一人だけしか居ない。
誰にも見つからなかった事にほっと息をついて、招かれるままに厨房に入り、そのまま炊事場へ足を向ける。
「手伝います」
「いやいや、嬢ちゃんに片付けなんてさせらんねぇよ」
「大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる訳、ねぇでしょうよ……」
バルトの呆れた様な突っ込みは正解で、不正解だ。
確かに、マルガリータは皿の一枚さえも洗った事などない。
だが今のマルガリータには、仕事を終えた後に毎日寂しく一人でご飯を作って食べ、片付けていた真奈美の記憶が、色濃く残っている。
身体としては慣れてはいないが、日常的だった行動でもあるので、皿を割るようなヘマはしない。
戸惑うバルトの横に立ち、問答無用で洗い物の横に置かれていた食器用だと思われる綺麗なふきんを手にとって、洗い終わった食器を拭き始めた。
最初は驚いた顔をしていたバルトも、マルガリータの無駄に慣れた手つきに任せても平気だと悟ったのか、途中からは洗った先から直接手渡して来るという、完全な流れ作業へと移行していた。
頑なに客人扱いを止めてくれない、ダリスやアリーシアと違って、バルトのこういう柔軟さは有り難い。
ディアンも客人扱いはしないでいてくれるのだけれど、代わりに庇護しなければならない対象の様に扱われる事がある。
作業自体は危険だからと言って、水やり位しかさせてもらえていなかった。
実は一番過保護なのは、ディアンかもしれない。
この屋敷の中で、本当にマルガリータの好きな様に行動させてくれるのは、多分バルトだけである。
「いや、助かったわ。ご苦労さん」
「本当に慣れてたな」と笑いながら、バルトが厨房の隅に設置されたテーブルと椅子の方へ、マルガリータを誘導してくれる。
使用人達はどこで食事をしているのだろうと思っていたけれど、四人程が座る事の出来るこの場所で、順番に休憩を取っているのだろう事が窺えた。
一緒に洗い物をしていたはずなのに、いつの間にお湯を沸かしてくれていたのだろう。マルガリータが腰掛けると同時に、暖かい紅茶が差し出される。
ここで出てきたのはハーブティーではなく、良くある一般的な茶葉だった。
「ありがとうございます。いただきます」
「俺ら用のやつだから、味は期待すんなよ」
「入れ方も適当だしな」と、自分にもポットから注ぎながら、バルトはマルガリータの正面に腰掛ける。
頷きながら紅茶を口に運ぶと、ふんわりと優しい香りが鼻に抜けた。
「すごく、美味しい……!」
お世辞じゃなくて、本当にびっくりした。
アリーシアが入れてくれる時の様な丁寧さは何処にもなかったし、確かに茶葉のランク的には、貴族が好んで飲むものより下だとは思う。
最近出される物がハーブとブレンドされた物ばかりで、本来のマルガリータが良く飲んでいた紅茶の味に懐かしさを覚えたという事を抜きにしても、口当たりや飲みやすい温度に濃さ等、紅茶の美味しさを判定する材料的には完璧と言わざるを得ず、茶葉ランクの多少の低さなど、補って余りある味を出していた。
紅茶を入れる給仕は、基本的にアリーシアやハンナの様なメイド達の役目なのが普通なので、料理人であるバルトは紅茶の入れ方に関してある程度知ってはいるだろうけれど、専門外の分野であるはずだ。
本当に、この屋敷に勤めている使用人達のポテンシャルの高さは、一体何なのだろう。
「嬢ちゃんは、何でも美味そうに顔に出してくれるから、作りがいがあるな」
貴族のマナーとして、一般的に食事やティータイムの際に、大きく表情を変える事は、良しとされない。
というより、普段から腹の探り合いばかりの貴族社会だから、心情を顔に出してしまえば不利になる事も多く、基本的に作り笑顔ばかりなのである。
好みでない食事が出た時には、手を付けずにいれば次からは料理人達や給仕が察する。
客人に出す機会の多いお菓子等に関しては、直接感想を伝える事もあるが、どちらにしても表情はあくまでなんとも思っていない風に装う事が、良しとされていた。
マルガリータも、今までずっとそうして、周りに好き嫌いを悟らない様に過ごして来たはずだけれど、この屋敷に来てからは何故か、今まで出来てきたそれが酷く難しい。
食事が本当に美味しいというのもあるけれど、その他の場面においても笑ったり戸惑ったり、感情がそのまま表情に出てしまっている。
平々凡々な一般市民で、表情を隠す訓練などした事もない真奈美の記憶が戻った事が、大きいのかもしれない。
もちろん社会人として働いていく為には、多少の作り笑いや理不尽に腹を立ててもぐっと我慢する場面は、幾度となくあった。
けれど、日常においての美味しい食事や、気を許せる友人達との普段の会話においてまで、表情をコントロールするなんて技は、身につけていなかったのだ。
奴隷という立場になり、緊張のピークだった瞬間に真奈美の記憶が戻って黒仮面の男に買われた、あの日以降。
張り詰めていた感情を解してくれたのは、間違いなくこの屋敷の使用人達なのだし、気を抜くなと言われる方が難しい。
「ごめんなさい」
「いやいや、褒めてんの。嬢ちゃんは、そのままでいてくれ」
今の立場は貴族ではなくとも、もっと気を引き締めなければならなかったのかもしれないと反省して謝ると、バルトは違うと手を横に振った。
「でも、はしたなかった……ですよね」
「料理人としては、美味いのか不味いのかわかんねぇ作り笑顔で口に入れられるより、嬢ちゃんみたいに全力で素直に表現してくれる方が、よっぽど嬉しいさ」
バルトは会ったその日から、マルガリータの貴族らしからぬ行いを友好的に受け止め、更に褒めてくれる。
ここでは「世間の常識なんて気にするな」と暗に言ってくれているようで、マルガリータはどう切り出そうかと思案していた願いを、するりと口に出していた。
「明日、ディアンにハーブ苗の仕入れに連れて行って貰える事になったので、何かお礼をしたいと思っているんです」
「そりゃあいい。俺にそれを言ってくるって事は、何か作って欲しいもんでもあるのか?」
「クッキーを作りたいと思っているので、厨房を貸して頂きたくて」
「ん? クッキーを「作って欲しい」んじゃなくて?」
「はい。自分で作りますので、場所と……出来れば材料を分けていただけたらと……私、今お金を持っていないので」
そう。何か作って持って行きたいと思いついたはいいが、マルガリータは自分の立場を自覚しているようでいてすっかり忘れていた。
自由に使えるお金を、一銭も持っていなかったのだ。
例え持っていたとしても、屋敷から出て買いに行ける権利はない。
バルトには厨房という料理人の聖域を貸してもらうだけではなく、備蓄してある材料さえも分けて貰わなければならなかったのだ。
しかも、奴隷に給金が出るなど聞いた事もないので、分けて貰ったその材料費を返す当てもない。
どう考えても、マルガリータに都合の良すぎるお願いだった。
「嬢ちゃん、料理が出来んのか?」
言葉にした後で気付いた事実に、断られても仕方ないとしょんぼりしていたけれど、返ってきたのは驚きと、そして少しの期待が混じった声。
「え、えぇ。簡単な物だけですが」
ずいっとテーブル越しに距離を詰められて、若干押され気味になりながらも頷くと、何故か嬉々として両手を掴まれた。
アリーシアやハンナも、よく感極まった様にマルガリータに触れて来る事があるが、バルトもそのタイプだったらしい。
ちなみにダリスやアルフは、流石に「弁えていますから」と言わんばかりの顔で行動には出ないが、表情に感情がわかりやすく全部出ている。
ここの使用人達は、そういう所が皆、似ているのかもしれない。
皆が皆、ここではそうやって過ごして良いのだと態度で示してくれるから、表情を殺す訓練を積んできたはずのマルガリータも、つい感情を出してしまうのだ。
「すげぇな、嬢ちゃん。マジで色々予想外だわ」
「お菓子作りをする女性は、少なくはないと思いますけど……?」
「貴族に仕えるメイドや、金に多少余裕のある平民ならな。嬢ちゃんは、お貴族様だろ?」
今は貴族として扱って貰う立場ではないのだと、何度言っても全く響かない言葉をまた言ってしまいそうになる。
けれど、バルトの聞きたい事はそう言う意味ではないのはわかるので、言葉をぐっと飲み込んだ。
「ダメでしょうか?」
「ダメな訳ねぇさ。そういうお願いが出るって事は、ほとんどをメイドや料理人に任せて、簡単なとこだけ触って作った気になってるお嬢様方とは、違うって事だろ」
バルトの言い分は辛辣だったが、確かに貴族の令嬢が「作る」料理とは、そういうものだ。
材料を用意するのも、分量を量るのも、剥いたり切ったりする作業も、果ては火の扱いだけでなく盛り付けまで使用人が行う。
では本人は何をするのかと言えば、ボウルに入れられた全ての処理が終わった具材を、数回混ぜ合わせる程度のものだ。
ぶっちゃけ、料理人からすればその手伝いはいらない。なくても平気というか、流れを中断しなければいけないからむしろ邪魔、というものばかり。
手を汚すのを嫌う令嬢も多いので、材料を直に少しでも触った事があるなんてのも、稀だろう。
基本的に、令嬢の言う「作った」とは「あれを作りたいわ」と呟いて厨房に足を踏み入れる事、と言っても間違いではない。
マルガリータの事を貴族令嬢と信じて疑わないバルトが、材料と場所だけを提供して欲しいという願いに驚くのは、当然と言えば当然だった。
(いやまぁ、確かにマルガリータとしての私は、その常識の方に限りなく近い令嬢だけれども)
しかもこの歳になるまで婚約者の居なかったマルガリータは、特に誰かに料理を作ってあげたいという思考にさえ、辿り着いた事がなかった。
万が一辿り着いていたとしても、優秀な料理人達に囲まれていたが故に、希望を伝えて依頼するという、一般的な貴族のご令嬢パターンを踏んでいたはずだ。
自ら作りたいと思ったのは、間違いなく真奈美の思考だった。
ちゃんと貴族の常識や、以前の自分ならこうするとわかっていながらも、今できる事は自分でやりたいと感じる。
我ながら、結構上手く両方の記憶と、同居しているなと思う。
「それはつまり……提供して頂けるという事でしょうか?」
「おうよ。ここは自由に使って貰って構わねぇし、必要な材料は揃えてやる。もちろん嬢ちゃんから金は取らねぇから、安心しな」
「ありがとうございます!」
「贈り物なんて、嬢ちゃんの何かしたいってその気持ちだけで充分だろうに。何で金の心配までしてるのかは、良くわかんねぇけど」
そう続けて笑うバルトへ、マルガリータは勢いよく頭を下げた。
そして頭を上げた先で、驚きに目を見開いた後に爆笑したバルトの姿に、マルガリータは大きく首を傾げる事になる。
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