第10話 モナムを訪ねて①


 目が覚めると、窓の外の平原をダチョウが駆け抜けて行くのが見えた。

 一瞬、ここはどこだったっけと思う。隣でまだ眠りの世界にいる、このバスの中でたった一人の見知っている人を見て、ああ、と思った。

 思い出してみたところで、もちろん、ここがどこだか正確に説明できるわけではないのだけれど――、もし地図があったとして、その上で「今だいたいこの辺にいる」と示すことはできたとしても、地図の上でどう表されているかということは、この場所が持っているいろいろな要素の一つに過ぎない。ここにはどんな人が住んでいて、どんな習慣を持っていて、どんな暮らしをしているかなんて、地図をちらっと見ただけでわかるものではない。そのうえ、どんな植物が生えていて、どんな動物がいて、そんなことをすべて知ることなんて、とても無理だ。なんだか今は、それが物足りない。この数時間で、私は窓から見る景色がとても好きだということがわかった。

 向こうの世界にいたときには、長距離バスに乗ったことはなかった。バスに乗ったとしても、せいぜい家の近くにあるバス停から駅までくらいだった。やたらと信号で止まっていたし、目に入ってくるのは、同じような道路や家がだらだらと続く街並みばかりだった。走っても走っても平原で、人の住む気配が感じられない、こういった豪快な景色とは程遠いものだった。同じバスなのに、大違いだ。

 流れていく景色を見ていると、本当は停留所のないところで途中下車したほうが面白いことがあるんじゃないかと思えてくる。

 バスに乗っていると、なんだかわくわくしてくる。山の上にいたときもそれはそれで楽しくはあったけど、楽しさが全然違った。

 やがてサリリも目を覚ました。あくびをすると、「この辺にはダチョウがいるんだよ」と言った。

「知ってるよ、さっき見たから」

「えー、起こしてくれたらよかったのに」

「だって、すぐにどこかへ行っちゃったんだもん」

 あのときダチョウは、たしかにこっちを見ていた。ただバスを見ていたのか、それともバスの中に見知らぬ国から来た子がいることに気づいて、あれ? と思ったのかはわからなかったけど。

 私たちがあの山を去ったのは、明け方のことだった。暗いうちに出ないといけないと言われたので、昨日はろくに寝れなかった。夜中に起こされて、もっと寝ていたいのにと思いながらいやいや出てきたものの、夜明け前の空の、星の多さに驚いて、すっかり目が覚めた。

 眠さも不機嫌さも、星空を見た瞬間に吹き飛んでしまう、それまでも、見えなかっただけで実はそんな景色の元にいたということが信じられなくて、騙されていたのかと思うような、そんな空だった。山の上もだいぶ暗かったけど、私が寝るころは霧でも出る時間帯だったのか、そこまで星は見えていなかった。それでも、そんな夜空しか知らなかった私はそれで満足していた。

 サリリはどんどん先へ行ってしまったので、星をじっくり見ているひまはあまりなくて、転んだり遅れたりしない程度に、上を見て歩いたり立ち止まったりして、できる限り星を見ようと頑張った。

 私たちの住処は、山のてっぺんが少しだけ平らになっているところにある。端まで歩いていって、一段低いところに降りると、そこから下はいっきにストンと急な斜面になっている。

 あまりに斜面が急なので、人が歩くところではないと思っていたら、そこにははしごがかかっていて、数メートル降りると少し緩やかになっていた。サリリはちょっと歩くと、二メートルほどの大きな石の前で止まった。その石に、そっと手を当てると、私を見てにっこりした。

「有泉さんも、ここに手を置いて」

 右手を出すと、「反対のほう」と言われたので、左手を当てる。旅人の石がうっすら光っているのが、服の上からでもわかる。

 サリリは私の手の上に、自分の手を重ねる。ひんやりした手だなあと思っていると、いつの間にかすーっと体が石に入りつつあることに気づく。えっ? と思ったときには、すでにバスターミナルにいた。思わずサリリの顔を見たら、サリリはただ、静かに微笑んでいた。

 まだ夢の中にいるのかもと思ってしまうけど、でもそれをどうやって確かめたらいいのかわからない。

「最初に出たときはこんな方法は知らなかったから、外へ行くのはすごく大変だったんだけど、今は便利なもんだよね」

 サリリは笑った。

 周りには人がたくさんいるけど、みんな私たちが突然現れたことに疑問を感じてはいないようだ。私たちがここにいることなんて、気にも留めていないようだ。

 ここに来てからそれなりにときが経っているのに、少年以外の人を見るのは初めてだった。あの人も、そしてサリリも地味な身なりをしているので、こっちではみんなそうなのかと思っていたけど、少なくとも視界に入る範囲の人たちは、比較的華やかな服を着ている。女の人は、スカートをはいていたり、髪が長い人が多い。帽子を被っている人もけっこういる。

 サリリは公衆電話を探して、電話をかけた。話はすぐにすんで、「今日行って大丈夫だって」と言った。

「あ、出発しちゃう。ついてきて」

 走るサリリの後を追い、バスに滑り込んだ。

 そのバスには八時間もの間乗り続けた。乗り換えのために二時間休憩した後、また次のバスに乗る。目的地に着くのは何時ごろなのかわからないけど、サリリの旅の話を存分に聞けると思うと、学校の図書室で掃除をしていたときのことを思い出す。つい、いつまでも目的地に着かないままでいてほしいと思ってしまう。

「僕が外に出て初めて思ったのは、僕はあの場所をすごく出たかったんだっていうことだったんだよね」

 ずっとあの場所にいたら、私も同じことを思うのだろう。

「あそこが嫌いだったわけじゃないよ。それなりに広いし、景色もいいし、家もちょうどいい大きさで、居心地はすごくよかった。樹に本の読み方を習ってからは、本棚にある本は一通り全部読んで、そのあとも何度も何度も読み返した。でも、それだけじゃ足りなかった。だからといって外に出ることができるとも思わなかった。僕は、あそこで生きる以外の生き方があるってことを、あのころは知らなかったんだよね。

僕が山の上から出て行ったときに、さっきの彼が乗っていた馬を貸してくれたって話は、たしか向こうにいたときにしたよね? 

 山を出るのも馬に乗るのも初めてで、僕は馬に乗りながら、こんなに、体の内側からというか、心の底からというか、そういう深いところからわくわくしてるのって、生まれて初めてだって思ったんだ。もちろん怖くもあったとは思うけど……、うん、確かに初めのうちはどちらかというと怖かったかな。これからどうなっちゃうんだろうって思って、でも楽しくて、こんなに気楽でいいんだろうかって心配もあったけど、でも時間が経つにつれてその状況に慣れてきたら、そんなに怖くもないってことがわかってきた。そうしたら、今僕はお腹の奥から叫びだしたいくらい、楽しいんだって思ったんだ」

 サリリはちょっと黙って、外の景色を見た。

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