目の前に現れた男は俺を前世からの恋人だと言った

朏猫(ミカヅキネコ)

第1話 踊り子のタマヨリ

 弦楽器の音がいくつも重なり、打楽器が盛り上げるように律動を刻む。笛は高らかに響き渡って、俺の体は曲と一体になったように軽やかに宙を舞った。


(腕をもっと伸ばして……足は高く上げて……鳥のように軽やかに……!)


 最後に歌声にも聞こえる弦楽器の音が響き、俺の体はぴたりと止まる。心臓はとんでもなくバクバクしっぱなしだが、そんなことを感じさせないように笑顔を浮かべ、手先足先までピンと美しく伸ばした。

 ほんの少しの間、その場が静寂に包まれる。俺はこの静寂が好きだ。最後にこの無音が存在することで俺と観客が余韻の中で重なり合う。そうして次の瞬間、客たちは体の中に溜まった感情を爆発させる。


 ウワアアァァァァァ!


 野外舞台に集まった大勢の客たちが一斉に歓声を上げた。俺はこの歓声を浴びるのが何よりも好きだった。体の奥から震えるほど気持ちがいいし、何ならちょっとイッているときに近いかもしれない。


「タマヨリ最高~!」

「さすがタマヨリ!」

「タマヨリ~!」


 あちこちから掛けられる声援に手を振りながら舞台袖に引っ込み、そのまま楽屋へと戻る。衣装の下が汗でグッショリなのも気持ちいい、なんて思いながら上着を脱いでいると、踊り子仲間のツグマが声をかけてきた。


「タマ、今日も絶好調だな~」

「おうよ」

「でもって、今夜はオオハギのご当主様のご指名だってよ」

「了解」


 オオハギはこの街一番の金持ちガニーユ一族だ。ご当主様は俺たち踊り子の太い客で、俺にとっては夜のご贔屓様でもある。


「つーか、おまえ背中にまで付いてるけど大丈夫なん?」

「ん? 何が?」

「お盛んだった証だよ」


 ツグマの言葉に鏡で背中を見ると、肩に一カ所、腰に二カ所鬱血痕があった。そういえば二日前の金持ちガニーユはやたらと噛みつく人だったなぁ、なんてことを思い出す。


「大丈夫じゃねぇ?」

「いやいや、オオハギのご当主様のところに行くんだろ?」

「あの人はこんな小さいことは気にしないから問題ねぇよ」

「たしかにそうかもしれないけどさぁ」


 ツグマは微妙な顔をしているが、あの人は本当にこういったことを気にするような人じゃない。そもそも金持ちガニーユは大勢の恋人を作る人たちで、オオハギのご当主様にとっては俺も大勢の恋人の中の一人でしかなかった。

 オオハギのご当主様は五十代半ばという年齢で、前髪に少しだけ白髪が交じっているのが渋くてかっこいいオジサマだ。別れた奥様との間に子どもが三人いるが、そんなことを感じさせないくらい若々しく、俺を毎回トロットロにしてくれる。


「それにしても、タマなら中年相手じゃなくても選り取り見取りなのにな。それに女性からのご指名も結構あるんだろ?」

「あー……、俺、女は駄目なんだよなぁ」

「なんだよ。昔何かあったとか?」

「そういうわけじゃねぇけどさ」


 別にこっぴどく振られたとか粗チン呼ばわりされたとか、そんな過去は一切ない。ただ、物心ついたときから俺の下半身は男にしか反応しなかったってだけだ。


「まぁ、それも変な夢を見てきたからかもしんねぇけど……」

「タマ?」

「いや、何でもねぇよ。とにかく、俺はオジサマしか趣味じゃないってこと」

「俺は別にいいけどさ。一番人気のおまえが中年専門でいてくれれば、他は漏れなく俺たちのところに来るからな」

「っていうか、おまえほとんど女としかシねぇじゃん」

「俺は可愛い女の子が好きなの!」

「おっ? もしや今夜もご指名とか?」

「あったり~。今夜は話題沸騰のレィナちゃんだぜ?」

「おー。……って、レィナ嬢って婚約の噂がなかったっけ?」


 レィナ嬢はシキセンという、これまた金持ちガニーユ一族のご令嬢だ。性格はちょっとキツイものの美人だからそれなりに人気がある。昔から顔のいい男たちを何人も侍らせていたが、最近どこぞの金持ちガニーユ息子と婚約するという噂が流れていた。


金持ちガニーユにとって婚姻と恋愛は別だからな。でなけりゃ、俺たち踊り子が毎晩のように指名されるなんてこともないだろ? それに、婚約前はおとなしくするって慣習を気にしない金持ちガニーユだって結構いるぜ?」

「そういやそうだな」


 アハハと笑うツグマを横目で見ながら裸になり、薄荷水を垂らした水で汗を拭い取る。鏡で見ると茶色の髪が汗でところどころ固まっているが、どうせこれから汗をかくんだしかまわないだろう。それでも一応と手櫛で軽く整えてから、茶色の目の周りに施した舞台用の化粧を綺麗に拭った。そうしてさっぱりしたところで、楽屋に常備してある私服の中からそれなりのものを選んで袖を通す。

 ツグマに「じゃあな」と手を振った俺は、野外舞台とは反対側にある裏口に向かって劇場の地下を通り抜けた。そっと扉を開けると、そこには黒塗りの高級な馬車が待ち構えていた。使用人が開けた馬車の奥の席には、今日も高そうな服をビシッと着たご当主様が座っている。


「お待たせしました」

「いや、待っている時間もこの後のタマヨリを思えば楽しいものだよ」


 ご当主様の言葉に微笑んだ俺は、慣れた足取りで高級馬車に乗り込んだ。そうしていつもどおり向かい側に座ると、ご当主様の「出せ」という声と同時に馬車が動き出す。


「今夜の踊りも最高だったね」

「ご覧になっていたんですか?」

「もちろんだよ。わたしはタマヨリを一番に贔屓しているんだ」

「あはは、ありがとうございます」


 お礼を言うと、ご当主様がゆっくりと足を組んだ。そうして肘置きについている手に顎を載せ、うっすらと笑いながら俺を見る。


「ベッドの中のきみも最高だが、踊っている最中のきみも素晴らしい。赤らんだ頬や首筋を流れる汗、躍動的な手足、すべてが美しいと思っている。何より曲が終わった最後の瞬間、まるで体の奥から感じているような恍惚とした表情には毎回喉を鳴らしてしまうよ」


 薄暗い馬車の中でも、ご当主様の視線がねっとりと俺の体を這い回るのがわかった。まるで私服の下を覗かれているような感覚に下腹部がカッと熱くなる。


「これでも、俺はこの街一番人気の踊り子ですから」

「そうだね。そして夜の一番人気でもある」


 そうか、今夜はもう始まっているんだ。そう思った俺は、舌で唇をひと舐めしてから胸に手を当てた。


「ご当主様にそんなことを言われたら……、ほら、胸がドキドキしてしまいます」


 そう言いながら、わざと胸を擦るように右手を動かした。それだけでジンとした気持ちよさが体に広がって俺の下腹部はますます熱くなる。


「おや、今夜のタマヨリはいつもより扇情的だ。薄暗い馬車の中でも肌の赤らみがよくわかる」

「そうですか?」


 そう言いながら、意味深に胸のあたりを手で撫で回す。今夜の私服は薄手のシャツだから、これだけでいやらしく見えるはずだ。それに俺たち踊り子は胸の筋肉もほどよくついているから、胸全体がわずかに膨らんでいるのも目立つはず。わかっていて、俺は挑発するように手を動かし続けた。


「あまり積極的にされると、ホテルまで我慢できなくなりそうだ」

「じゃあ少しだけ、つまみ食いしますか?」


 そう言ってからご当主様に近づき膝の上に乗り上げた。そうして下半身がギリギリ触れないように尻の位置を調整する。


「つまみ食いか。たまにはそういう遊びもいいかもしれない」


 乗ってきた――小さく笑った俺は、胸にあった手をゆっくりと動かし自分の腹を撫でた。その手を止めたのは、同じように薄く笑っているご当主様だった。


「やっぱりやめておきます?」

「いいや。せっかくつまみ食いをするなら、包みを開けるところから楽しみたいと思ってね」


 ご当主様の指が薄いシャツの上から鎖骨を撫で、そのままするりと胸のあたりを擦った。そんな悪戯も気持ちよくて、思わず「んっ」と甘い声を漏らしてしまう。


「舞台の後のタマヨリは、いつもよりずっと淫らだね」

「余韻が残っているんですよ」

「なるほど。では、その余韻ごとわたしが食べてやろう」


 シャツのボタンがゆっくりと外されていく。俺は期待と興奮に腰を震わせながら、ご当主様の首に腕を回した。


  ・

  ・


 男が知らないどこかで踊っていた。必死に踊っている男は俺で、不思議な服を着て見たことがないくらい大きな鏡の前で汗を流している。


(あぁ、いつもの夢か)


 この場所で踊る自分を夢で見るのは何度目だろう。

 この場所がどこなのかは知らない。いつもの野外舞台ではないし、楽屋でも隣の劇場でもない。そもそも全身が映るほど大きな鏡は見たことがなかったし、それが何枚もある場所なんてこの街にはないはずだ。

 そんな鏡の前で、俺は一人無心で踊っていた。衣装にしては地味だから私服なのかもしれない。そんな格好で踊っているということは稽古中なんだろう。


(今回もシケた顔してんなぁ)


 夢で見る俺は、なぜかいつも難しそうな顔をしている。鏡に映る顔も、それを見ている顔も全然楽しそうじゃない。それでも必死に踊っているのはわかった。そのくらい気迫がこもっていて、全力だということも俺にはよく理解できた。


(それなのに、なんでつまんねぇ顔してるかな)


 初めてこの夢を見た子どものときからずっと同じ疑問を抱いてきた。いまの俺は物心ついたときには踊っていたくらい踊りが好きなのに、夢の中の俺はいつもつまらなさそうな表情をしている。

 これまで何度も見てきたどの夢でも、この場所で踊る俺はシケた顔ばかりしていた。必死には見えるが全然楽しそうに見えない。それでも毎回踊っているということは、踊ること自体は好きなのだろう。

 そんなことを思って見ていたら、俺の動きがぴたりと止まった。


(またか)


 これも何度も夢で見てきた。踊りを中断した俺は扉を少し開けて外を見る。扉の外の景色まではわからないが、そこにいる男を見ているのは間違いない。

 俺は一度だけ、夢の俺が見ている男を見たことがある。ほんの一瞬チラッとしか見えなかったが、すらっとした長身に柔らかそうな黒髪をした男だった。顔は見えなかったものの、しっかりした腰にきゅっと上がった尻から踊り子だろうと予想した。背中の感じからはそれほど年上にじゃない気がする。


(夢の中の俺は中年好きってわけでもないんだな)


 そんなことを思っていると、扉の向こうを見ていた夢の中の俺が息を吐いて扉を閉めた。そうして熱くなった下半身にそっと手を伸ばすのもいつものことだ。


(好きなら好きって言えばいいのに)


 現実の俺なら間違いなくそうしている。しかし夢の中の俺は言い出せない理由でもあるのか、少し開いた扉から男を見つめるばかりだ。

 もしかしたら、相手は相当な金持ちガニーユ一族で相手にされていないのかもしれない。もしくは既婚者か。いや、相手が既婚者でも気にするような俺じゃないから違うだろう。

 そもそも金持ちガニーユは結婚と恋愛を別物だと考えている。さすがは踊りと情熱の神が作った街の金持ちガニーユだ。いや、他の街の金持ちガニーユ一族も似たり寄ったりだという話だから、それが金持ちガニーユの特徴なんだろう。

 彼らにとって結婚は一族のため、跡取りのため、より多くの富を得るための手段でしかない。だから金持ちガニーユ一族は、男も女も結婚した後からが恋愛の本番だと考えている。そんな金持ちガニーユとお近づきになりたい奴は大勢いて、誰もが金持ちガニーユ一族にすり寄っていた。

 それなのに、夢の中の俺は声をかけることもせずに自慰に耽ってばかりだ。なんて腑抜けなんだと笑いたくなる。しかも、こんな夢を物心ついたときから見せられているのだから、たまったもんじゃない。


(おかげで俺まで男にしか興味がなくなったじゃねぇか)


 踊り子の中で男としか夜を過ごさないのは俺くらいだ。大抵の踊り子は、金持ちガニーユからご指名があれば男だろうと女だろうと関係なく応じる。なかにはツグマみたいに「女の子が好き!」と公言する奴もいるが、そんなツグマも金持ちガニーユの可愛い男から指名されれば喜んで出掛けていった。


(それがこの街の、いや違うな。踊り子の性分なんだ)


 踊り子はこの街にしか存在しない。それは踊りの神が自分の子どもである踊り子たちを大切にしているからだとか、余所に出ると奪い合いの争いが起きるからだとか言われているが真相はわからない。

 情熱的な神の影響を強く受けているからか、踊り子たちは恋愛にも熱心だった。恋多き踊り子ほど美しく舞うと言われているため、踊り子たちは恋愛にも積極的になる。そんな踊り子たちを支援する金持ちガニーユたちが恋の相手として名乗りを上げるのは当然の流れかもしれない。そして、多くの踊り子と恋を楽しむのが一流の金持ちガニーユの証でもあった。

 俺も舞台に立ってから十年、数多くの金持ちガニーユと浮き名を流してきた。おかげで俺の踊りは“情熱の舞”と呼ばれ一番人気にもなった。それなのに夢の中の俺ときたら……もしかしてこれが俺の本性なんだろうか。


(いや、さすがにそれはないか)


 夢の俺が本性なら何人もの金持ちガニーユのオジサマたちと恋をしたりはしないだろう。どの金持ちガニーユもちゃんと好きだし、俺のほうから声をかけることもある。ベッドのお誘いだって基本的には断らないし、金持ちガニーユのオジサマに甘やかされるのもトロットロにされるのも最高に好きだ。


(まぁ、最近ちょっと物足りなくは感じてるけどな)


 たまにはこう、腰が砕けるくらい激しくされたい、なんて思うこともある。しかし、それをオジサマたちに強請るのはさすが気が引けた。


(っていうか、そもそもなんでオジサンなんだろうな)


 昔から俺は相当な年上にしか興味がなかった。そういう性癖なのかもしれないが、じゃあどうして夢の中の想い人は中年じゃないんだろうか。


 ――トリ……。


 聞こえてきた自分の声にハッとした。


(想い人が「トリ」って名前だってことまではわかってんだけどなぁ)


 夢の中の俺は、いつも「トリ」と言いながら自慰に耽っていた。名前まで出てくる設定の細かさなのに、肝心の顔は一切わからない。それなのに現実の俺まで男しか相手にできなくなるほど影響を受けていた。


(ったく、いつ見てもわけのわからない夢だよな)


 悪態をつきながらも自慰に耽る自分を見ていたら、遠くで「タマ」と呼ぶ声が聞こえてきた。そういえば、夢の中の俺も「タマ」と呼ばれている。「タマヨリ」だから「タマ」なんて安直な愛称だと思うが、そんなところまで一緒なら現実の俺くらい行動的になれよと言ってやりたかった。


「……タマ、おいタマ、起きろって」

「……んぁ」

「やっと起きた。そろそろ昼飯の時間だぞ。また食いっぱぐれても知らないからな」

「……ぁー、カイムか」


 体を揺らしながら「タマ」と呼んでいたのは、踊り子仲間で同居人のカイムだった。


「……ええと……?」

「寝ぼけてるのか? 今朝方帰ってきたとき、昼飯は食うから起こしてくれって言ったの、おまえだろ」

「あー、そうだった」

「お盛んなのはいいが、飯はしっかり食えよ」

「おー」


 目を擦りながら起き上がると、ギラギラした太陽が空のてっぺんにあるのが窓の外に見えた。窓辺の小さなテーブルには小銭が散らばっている。寝る前にベッドに倒れ込みながら俺自身が置いた釣り銭だ。


(そういや朝イチで帰ってきたんだったっけか)


 ご当主様とねっとりした夜を過ごした俺は、日が昇る前に馬車を呼んでもらって部屋に帰ってきた。今夜も仕事があるからだが、熱い夜を過ごしたのにすぐに動けたのは、それだけ体に負担のない行為だったということでもある。


「……なんか、体が物足りねぇって感じがする」


 つい、本音がポロッとこぼれ出た。


「おまえ、それご贔屓様たちに聞かれるんじゃないぞ? おまえの客、みんなオジサンだろ?」

「おう」


 別に行為に満足していないわけじゃない。それに俺ももう二十六で若い盛りって年でもない。それなのに、そんな不満そうな言葉が漏れてしまったのはあの夢を見たせいだ。

 夢を見ると、決まって現実の行為に物足りなさを感じてしまう。夢の中では自慰しかしていないのに、どうしてそんなふうに思うのかさっぱりわからない。それでも、夢のせいだということは何となく感じていた。


「何なんだかな」


 頭をガシガシと掻いた俺は、思い切り伸びをしてからベッドを出た。

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