復讐は悪いのか否か

徳田雄一

1話

「あらー元気な男の子よー!」


 とある赤ん坊が産声を上げた。綺麗に鳴り響く声に両親は涙する。看護師達ももらい泣きをする。新たな生命の誕生だった。皆は新たな生命の誕生にとても喜び跳ねていた。ミチヒロと名付けてもらった


 2歳の頃より、幼稚園に通うようになった。自我が芽生え始める頃、自分の言う通りにならなければ癇癪を起こす、まさに子どもそのものの人生を送る。


 6歳、自我がしっかりとしてきた今、入学式に備えてランドセルを購入しに来ていた。


「ママーこれがいい!」

「水色〜?」

「うんっ!」

「こっちの黒は?」

「あ、こっちの方がかっこいい!」

「じゃ、これにしよっか!」

「うんうん。良いんじゃないか?」

「パパもそう思う?!」

「うん」

「じゃ、これにするー!」


 ピッカピカに輝く希望を詰めた黒色のランドセルを背負いながら帰る道。近所のオバサンやオジサン、祖母や祖父に見せながら、小学校への階段を登った。


 入学式、晴れやかな笑みで歩む道。仲良しになる為に列の隣同士で歩く花道。席に座り長ったらしい校長先生の話を聞く。

 入学式を終えた後に帰る道。両親は嬉しそうに微笑み入学を喜んだ。その翌日から学校という新しい文化に足を踏み入れた。


「今日は文字の練習をしますー!」

「はーい!」


 国語の授業や算数が楽しくて仕方なかった。2年を過ごし終えた後、徐々に派閥というものが出来上がってくるようになっていた。俺もひとつの派閥に所属する飼い犬になっていた。


「なあなあ、ミチヒロ〜」

「なに?」

「お前この本読む?」

「うん!」

「貸してやるよ!」


 飼い犬であった俺でも仲のいい友人は沢山出来ていた。帰り道もランドセル持ちジャンケンなんて言う遊びをしながら沢山楽しく帰って居たがそんな生活が終わりを告げたのはクラス替えが起きた時だった。


 俺は運悪くクラスメイトの大半が知らない人間に溢れた。仲のいい友人たちは全員別クラスとなり孤独に陥った。そんな俺は狙われた。


「おい、お前邪魔」

「ご、ごめん」


 教室の隅っこに追いやられ、本を読む毎日となった。だけどそれだけで済んでいた。イジメなんてものは無かった。


 イジメと発覚したのは夏休み明けの事だった。8月25日の始業式の日、今まで優しくしてくれていた教師が居なくなり、代わりの教師が担任となった瞬間クラスは崩壊を辿った。


 教師はいわゆる贔屓生徒と贔屓じゃない生徒に分ける最低の人間だった。贔屓生徒は何をしても許される。俺もそっち側の人間に回りたかったがある時だった。


「ミチヒロ、お前がユウダイを虐めてるって話があったぞ」

「そんなことしてないよ?!」

「ったく。疑われるようなことしたりすんなよ!」

「え……?」


 根も葉もない噂によって、俺は教師からイジメを受けるようになった。何もしていないのにも関わらず怒られ、何もしていないのにも関わらず疑われる。苦しくなり別の教師に相談をすれば、その相談したことを咎められる。


 それによって教師を信用している贔屓生徒たちは俺を咎めるようになった。


「先生困らすなよ!」

「し、知らないよ!」

「うるせえよ!」


 肩を押される。強くジャンパー掛けに当たり鋭い痛みが襲い、少しだけ泣いてしまった時だった。


「こいつ弱!!」


 そう、俺はこの日から狙われるようになった。授業が全て終わった放課後、これから虐められるんだと理解するのが容易い人数で俺を囲みながら帰る。


「せんせーさよならー!」

「おーう!」


 そして学校から少し離れた公園で俺は蹴られる。


「イテッ!!!」

「おらおらー! 悪者は倒される運命なんだよー!」


 仮面ライダーを観ていることもあってか、俺は悪役とされて蹴られ殴られる。それもヒーローにはありえない大人数で。俺は反撃をしようと立ち上がると2人の男は俺の腕を拘束し動けないようにする。


「や、やめて!!」


 俺の顔面に大きな拳跡が着くほどの威力で殴られる。バタッと地面に倒れ込むと満足したのか彼らはいつも決めセリフを吐き帰っていく。


「正義は勝つー!」


 俺は砂をほろいながら立ち上がり、フラフラな足を何とか動かして家に帰る。


「あんたどうしたの?!」

「別に」

「遊び方なんとかしてよ。洗濯するんだからあ」

「ごめんなさい」

「……虐められてるの?」

「は?」

「いや、あんた怪我」

「虐められてるわけないじゃん」

「そ、そう」

「うん」


 俺は母親に虐められていることを打ち明けることが怖かった。打ち明けることでまた教師に虐められるんじゃないかという恐怖がまとわりついていた。


 来る日も来る日もいじめを受け続ける日々が2年が経つ。4年生から5年生に進級するとともに、最後のクラス替えの年度が訪れた。何とか前の友人たちと会えるようにと祈った。


 結果、教師もクラスメイトもほぼ変わり、以前の友人たちと一緒になった。内心喜びでいっぱいだったがそれを壊すように友人たちは俺を遠ざけた。


「ご、ごめん。悪い噂ばっかり聞いててさ、お前と遊ぶなって母さんがさ」

「え、やってないよ!!」

「ごめん……」


 そう振られている俺を見つけた、アイツらはほくそ笑み、俺の元へ来る。


「クラス変わっちまったけど、俺ら友達だよな〜!」

「……」

「返事くらいしろよー」

「おーお前ら仲良いなあ〜!」

「あははー!」


 俺はずっとひとりぼっち。小学校最高学年までの間今まで通りにいじめを受け続けた。学校に行くのが怖くなったが、それよりも怖かったのは自分がこのまま負け続ける人生になる事だった。何とか踏みとどまり学校に通い続けた。

 だが一生イジメは終わらない。


「お前ボールなッ!」

「は……?」


 とある公園、人も中々通らない夕方の時間帯、俺は複数人に顔面サッカーと称した地獄の遊びにより顔を蹴り続けられた。歯が折れても、鼻血を出しても終わらない。そして最後はサッカーボールを綺麗にするという名目で水浸しにされる。


「お、もう7時じゃん。帰んなきゃ」


 小学生にしては遅い時間で全員が帰っていった。痛みのせいで立ち上がることが出来ずに1時間ほど経った頃だった。母親が心配したのか汗をかきながら俺を探してくれていた。


「あんたやっぱり虐められてるんじゃん!!」

「やめて、言わないで。お願い」

「え?」

「こわい。やだ。このままでも生きてられるからお願い。やめて」

「や、やめてってあんた」

「お願いだから」


 俺は母に懇願したが、母は正義感、息子を守るという母親の役目をしようと学校に行き、問い詰めていた。俺は運悪くそれに同席していた。


「見てください。この怪我!」

「どこかで転んだのでは?」

「転んで鼻を折って歯を折って肘は傷だらけで水浸しになるとでも?!」

「打ちどころが悪ければなるのでは? それに公園ですし水はありますよ」

「このクソ野郎共……」

「落ち着いてくださいよ。我が校ではイジメなんてありませんよ」

「ふざけるな!!!」

「……落ち着いてください」

「あんたら学校がそうやった態度取るならこっちにも手段あんのよ!!」

「分かりました。お母さん。我々もちゃんと調査しますから」

「次は無いですから」


 母は学校に最悪の形で喧嘩を売ってしまった。そこからは予想も容易い結果となった。俺の母親のせいで学校から怒られたと俺にやつ当たりをしてくる男たちのせいで、大怪我を負うことになった。


「ミチヒロ……」

「母さんのせいだ」

「……え?」

「母さんが黙ってくれれば良かったのに」

「ミ、ミチヒロあんたを助けるために」

「余計なお世話だったんだよ!!!」


 俺は助けようとしてくれた母親に思いっきりビンタをしてしまった。それが原因で母親と話すことはなくなり、母は父との喧嘩が絶えなくなった。


「貴方がミチヒロを見てくれなかったから!」

「お前のせいだろうがッ!」

「仕事仕事ばかりのあんたは育児に何も参加してないでしょうが!!」

「もういい。ウンザリだ。離婚だ」

「はあああ?!」

「お前とは離婚する。これに書けよ」


 緑の紙。母は泣きながら書いていた。そして後日今まで住んでいた家から離れてボロボロのアパートで母と暮らすことになった。


「ミチヒロ、あんたは私が守るから」

「……別にいいよ」

「ミチヒロ、私を捨てないで。あんたを守るから。お願い」


 小学校6年生、12歳の子どもに縋る母に思わず俺は泣きそうになり母を抱きしめていた。


「俺は大丈夫。母さんゆっくり休んでよ」


 そこから俺の人生はさらに真っ逆さまに落ちることになっていった。母が離婚したことによって苗字が変わると父親に捨てられた可哀想な子どもと捉えられるようになった。


 だがその可哀想も労いや同情の言葉ではなくあくまでも【捨てられて可哀想】という嘲笑う言葉だった。イジメはどんどんエスカレートしていった。


「今日は顔面野球なー!」


 使うバットは金属ではなくプラスチックのものだったが思い切りフルスイングされれば痛みは数倍にもなる。それを冬休みの期間中ずっとやられ、寒く冷えた肌にはとてつもない痛みとなった。


 家に帰れば母は酒に溺れ、俺に抱きつきながら言う。


「捨てないで。お願い。パパと違うよね。あの人と違うよね。お願いお願いお願いお願い!!!」

「分かってる。大丈夫」

「ほんと?」

「うん」

「ほんとだよね」

「うん」


 泣きそうになる。母親からの重い愛の言葉にナイフで心が刺されるような感覚に陥る。涙をグッと我慢し、数ヶ月経った頃、俺は卒業式を迎えていた。


「中原道大」

「はい」


 名前を呼ばれ壇上に立つ。


「僕の将来の夢は警察官です。その為には勉強を怠らず、真面目に生きます」


 将来の夢を語り、卒業証書を受け取るというのがこの学校で受け継がれる卒業式だった。母は二日酔いのせいで卒業式には来れず終えた後、俺はひとりで卒業証書を持ちながら帰ろうとした時だった。


「待てよ」

「……え?」

「俺ら先に子どもだけで帰ることになったからさ、帰ろうぜ」

「……」


 そう。こんな嬉しい卒業式の日にも、俺は公園に連れ込まれ母がなけなしの金で用意してくれた正装も土にまみれ汚れる事になった。中学だけでもコイツらと離れられるようにと願った。そう思っていれば痛みも感じなかった。


 ある程度痛めつけた後飽きたのか、男たちは帰って行った。


「ただいま」

「……ミチヒロ、服」

「何が?」

「ううん。なんでもない。ごめんねどこも行けなくて」

「良いよ。別に。母さんに期待してないし」

「期待してないって何。捨てるの?」

「え?」

「期待してないってなによ。私が悪いの? 私が離婚したから? 私があなたを守れないから? 父親すら失って、私が酒に入り浸ってるから?」

「落ち着いて。母さん」

「やだ。捨てないで。お願い」


 化粧が崩れるほどの涙を零しながら、母は俺に抱きつく。強く握りしめられる腕、青痣に痛みが走る。


「……母さん大丈夫だよ」

「……」

「捨てないから。ずっと一緒だよ」


 俺は心にも無い言葉をかけ続けていた。母はそれで満足する。


 そして4月。中学の入学式の日が訪れた。


 地元の人間たちが集まる中学には行きたくなかったが母の稼ぎなどで引っ越すことなどできず、地元の中学に行くしかなかった。これも運命だと呑み込み俺は覚悟を決めて入学式に望んだ。


 これも運命だったんだ。


 クラスメイト。その大半が俺を虐めていた人間になった。


「中学も宜しくなあ?」


 吐き気が襲う。トイレに駆け込み便器の中に胃の中のものを吐き出した。心臓は鳴り止まない。血圧が上がるのが分かるほど目の前は回転し、千鳥足になる。酒で酔う感覚はこうなんだろうなと分かるほどに。


 トイレから教室に戻ると女教師は心配してくれる。


「大丈夫?」

「あ、はい」

「じゃ、席座って」

「はい」


 静かに着席すると中学入学に伴った資料などを渡される。校内案内のマップや中学の校歌の歌詞カード、校則などが書かれるプリント。全てをカバンにしまい、色々な説明が終えた後、この日の授業は終わりを告げた。


 この初日も虐められるんだろうなと怯えながら帰ろうとしていると誰にも引き止められることなく無事に家に帰ることが出来た。嫌な予感がした。


「あれ、ミチヒロおかえり」

「……母さん何その格好」

「あはは。仕事再開しようと思ってさ」

「そう。でもそんな格好してなかったじゃん」

「……水商売よ」

「そっか。そっち行くんだ」

「捨てないでよ。母さんを」

「うん。いや、わかんないや。母さんが俺を捨てるじゃん」

「捨てないよ。ミチヒロは私が守るもん」

「そう。信用しないし期待しないけど分かったよ」

「なんでそんな事言うの!」


 キツイ香水の匂い、真っ赤なリップ。母の今までと違う姿に俺は困惑するしかなかった。この日から母は午前中は寝て、午後はいない生活が続いた。


 ☆☆☆


「さあ、今日からオリエンテーション週間です!」

「はーい!」


 自己紹介カードというものを書かされる。好きなこと、趣味などを書く欄があったが特に何も無く嘘を書いた。そして黒板の前に立ち自己紹介を済ませる。全員の俺に向ける眼が気持ち悪かった。


「はーい。みんな仲良くしていこうねー!」


 女教師の張り付いた笑顔に吐き気が襲う。こいつもどうせ俺を虐めてくるんだろうなと要らぬ予想を立ててしまう。


 そしてこの日も午前中に授業が終わり、いそいそと帰ろうとした時だった。


「君、ミチヒロくんって言うんだよね!」

「うん」

「僕、マサト!」

「そう。宜しく」

「一緒に帰らない?」

「……良いよ」

「ありがとう!!」


 マサトと名乗る子は黒縁メガネのチビの子だった。帰り道はマサトの趣味を沢山話してくれた。ゲームや本、好きな俳優や女優。初めて信頼出来る友人が出来た。


 その翌日からマサトと帰ることが多くなった。


「こういうゲーム好きなんだけど、ミチヒロくんやったことある?」

「いや、ゲームそんなにやらなくてさ」

「じゃあさ、僕の家来てやろうよ!」

「……うん。やろう」

「ありがとー!!」


 マサトに誘われるまま、家にお邪魔することになった。たくさんの漫画やアニメのDVDがあった。恵まれているんだなと羨ましさを感じながらマサトの持ってきたお茶を貰い、ゲームを始めた。


「ほんとにやった事ないんだね!」

「うん」

「これから上手くなれるチャンスだ!」

「……怒らないの?」

「なんで?」

「いや、下手だったらあんまり面白くないでしょ」

「違うよ。ミチヒロくん」

「え?」

「下手だからこそ上手になっていくのがいいじゃん。それにみんな最初から上手い訳じゃない。天才も最初は下手だけど積み重ねで上手くなって天才になるんだよ!」


 マサトの言葉は暖かった。嬉しかった。久しぶりにこんな気持ちになれた。その日、マサトの両親が帰ってくるまで遊び続けた。


「あ、お母さん帰ってきた!」

「あ、挨拶だけする」

「うん!」


 マサトは「ちょっとまってて」と言うと、その数分後母親の手を引きながら俺の元へ来る。


「お母さん、友達のミチヒロくん!」

「初めまして。うちのマサトとお友達になってくれてありがとう!」

「い、いえ。こちらこそありがとうございます。こんな時間までお邪魔してすみません」

「あら、凄い良い子。晩御飯は食べていく?」

「いえ、家帰って食べます」

「暗いから送るわ。マサトも準備して」

「はーい!」


 人はこんなにも暖かくなれるんだと感じながらマサトの母親に家まで送ってもらう。家の鍵を開けた。その時だった。


「あ……」


 母は知らない男と裸になり、何かをやっていた。


「ガキ帰ってきたのか」

「ごめんね。ミチヒロ。部屋行って」

「……」


 何をしているのかサッパリ分からなかったが、母のあんなに綺麗な姿は見た事がなかった。その時、過ぎった。俺が捨てる側ではなく、捨てられる側の人間なんだと。


 数時間、母の甲高い声が聴こえる。晩御飯も食べられず空腹のまま過ごしているとガチャと玄関のドアが開く音が聴こえる。


 客が帰ったのだろうと自室の扉を開けると、母はスッキリとした顔をしていた。


「ごめんね。ミチヒロ。さ、ご飯食べよ」


 何ヶ月ぶりか分からないが母と晩御飯を食べた。豪勢な食事だった。


「トンカツ美味しいでしょ」

「うん」

「ね、母さんさ、アンタが高校行ったあと、あの人と結婚しようかなって」

「え、なんで俺が高校?」

「……」

「……母さん?」

「ごめん。あんたが邪魔なの。中学までは面倒見るから」

「……は?」

「ごめん」


 嫌な予感が当たった。俺は捨てられる側に回ったのだ。翌日から母の態度は急変し、俺に対し何も言わなくなり、何も期待もしなくなり、そして俺を見なくなった。


 存在が無いものかのように。


 中学から帰れば母は知らない男と裸で抱き合い、甲高い、そして艶やかな声を永遠に発し続ける。数時間耐え続ける日々に脳内は母の艶やかな声が占領するようになった。そして母と男がやっていた事がわかったのは保健の授業だった。


「お母さんの女性器から君らは産まれてきたんだよ〜」


 保健室の教師が話す内容。それは赤ん坊がどう産まれてくるのかというもので、赤ん坊がどう作られていくのかという話だった。つまり自分の母が行っているのは赤ん坊を作るための事なんだと気づく。そう考えた瞬間吐き気でトイレへ駆け込んだ。


「母さんの身体を奪ったのはあの男なんだ……!!」


 俺は捨てられる側に回らないようにそそくさと早退し、家へ帰る。

 家へ着いたのは午後13時半にも関わらず母親の甲高い声が家の中で響いていた。玄関のドアが開いたのも気づかないほどに。俺は静かに自室からカッターを持ち出して母の声が聴こえる部屋の中に入った。


「……ガキが来たぞ。早く帰る日なら教えとけよ!」

「ご、ごめんなさい。普通通りの時間だと思ってたの……」

「てか、ガキカッターなんか持ってどうした?」

「死ねよ。母さんを奪ったゴミ野郎が」

「勘違いしちゃいけねえよ。ガキ。奪ったんじゃねえ。お前が居なけりゃ、こいつは水商売になんか落ちない綺麗な女のままだったんだよ」

「……殺す」

「はあ?」

「死ねよ」


 俺は何とか奪う側に回ろうとした。これ以上自分の尊厳、威厳、人生を奪われないために。だが難なくそれは阻止される。そして男は殺されそうになった怨念から俺の腕を思い切り踏みつけた。


「ああああっっ!!」

「痛えか」

「離せコラあああ!」

「……なぁ、カッターってどんだけ痛いんだろうなあ?」

「やめろおおおお!!」


 男は俺の腕に大きく【ボクハザコデス】と書いた。痛みのせいで意識が朦朧とする中、最後に聴こえた声は母の残酷な言葉だった。


「全く。痛めつけるにしてもやり方あったでしょ。はあ、まぁ何とかするわ。じゃあね。愛してるわよ」


 俺を心配する声なんて無かった。


 ☆☆☆


 翌朝、俺は腕の痛みに耐えながらも学校へ行く準備をしていた時だった。母はテーブルに札束を置いて言った。


「じゃあ、それひと月のお金ね。私あんたの面倒見ないことにしたから。人にカッター向ける最低なヤツだと思わなかったわよ」

「……そっか。お前自分が捨てられたくないって嘆いていた癖に俺を捨てるのか」

「……じゃあね」

「そうかそうか。ささっとくたばれババア」

「……クソガキがッ!!」


 母親の拳が鳩尾に直撃する。母はさらに追撃として俺の腹に蹴りを入れた。


「お前なんか生まれて無ければ、お前が弱者じゃ無ければ離婚する必要なんて無かったんだよッ!!」

「あぁっ……」

「はあ。月1回は金の入った封筒入れてやるからそれで暮らしな。じゃあね」


 中学1年生の春。俺は実の親を、父と母を無くすことになった。あまりの蹴りの勢いと鳩尾の痛みで俺は学校に休む連絡を入れた。


「……休みます」

「どうしたの」

「……いいから休ませてください」

「んーまぁ分かったけど、とりあえずお母さん居る?」

「居ません」

「お仕事?」

「知りませんけど朝から見てません」


 俺は女教師に嘘をついた。女教師は折れたのか仕方なく休みを受理してくれた。電話が終わった瞬間に自室のベッドに身体を横にすると、初めて眼から大量の水がこぼれ落ちた。


「クソが……」


 ☆☆☆

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