第4話「オタクたち」
深夜まで話し込んでいた上、床で眠った筈なのにどうしてゆかりは今日も元気に動き回っているのだろう。
杏里は眠くてたまらず、仕事中何度も欠伸を噛み殺していた。デスクワーク中はガムを噛んでいても許される環境の為、自分のデスクに常備しているミント味のガムを幾つも噛んだ。
「お疲れ松本、眠そうだな?」
「お疲れ様です…」
休憩室でコーヒーを飲んでいた杏里は、後から入って来た砂川に声を掛けられる。
砂川は杏里を見つけると、急いでいない時は必ず声を掛けてくれた。仕事で困っている事は無いかだとか、他愛もない世間話をしたりだとか、コミュニケーションを取ろうとしてくれるのだ。
入社したばかりの頃、普段あまり話さない相手に相談はしにくいだろうからと、なるべく仲良くなりたいんだと恥ずかしそうに話していた事を思い出す。初めは緊張していたが、今はすっかり慣れて冗談を言えるくらいにはなっていた。
「ゆかりと飲んでたんですよ。話し込んじゃって、気付いたら二時過ぎてて…」
「大学生みたいな事してるな」
けらけらと笑った砂川は、自動販売機で自分のコーヒーを購入すると杏里の隣に座った。
カツカツと何度かタブに爪を掛けているのだが、なかなか開けられないようで苦戦している。見かねて隣から手を伸ばして開けてやれば、砂川は恥ずかしそうに唸った。
「相変わらず缶開けるの下手ですね」
「爪が薄いんだよ…」
少しでも伸びると引っ掛けて痛い思いをするそうで、砂川の爪はいつも短く整えられている。時々自席で爪を削っている姿も見ているし、今テーブルに置かれている手も、いつも通り爪が短く整えられていた。
「大変ですね。補強用のマニキュアとかしたらどうですか?」
「昔試したんだけど、男の爪が艶々してるのが受け入れられなくて無理だった」
「そういうもんですか?今自爪風の艶が無いジェルネイルとか流行ってますよ」
「お前な、俺がネイルサロンとか行けると思うか?」
そう言われ、砂川がネイルサロンで施術を受けている所を想像してみた。ライトに手を入れてくださいと言われ、そうっと手を動かすところを想像した瞬間、杏里は耐え切れずに噴き出した。
「すいませんでした。…んふっ」
「先輩相手だって事忘れてないか?」
「そういう堅苦しいのは無しって言ってたじゃないですか」
入社したばかりの頃にそう言ったのは砂川だ。気を遣っていた頃もあったが、何度か飲みに行っているうちに遠慮はしなくなっていた。
仕事中は流石に上司として扱うが、休憩中は別である。
「最近元気になったみたいだな」
「え?ああ…まあ、何とかやってます」
「もう顔パンパンにして出勤して来るんじゃないぞ。皆心配してたから」
「いやー、流石に結婚すると思ってた相手が浮気して出て行くとか泣きますって」
へらりと笑った杏里は、砂川に向かってひらひらと手を動かす。
別れたばかりの頃、砂川はゆかりと一緒に慰めてくれたのだ。奢るから飲みに行こう、気晴らしに映画でも行こう、行ってみたいカフェがあるから付き合ってくれ。何かと理由を付けて、杏里が一人にならないように気を遣ってくれたのだ。
「あ、お疲れ様でーす」
「おう山本、お疲れ。二人で飲んでたんだって?」
「そうなんですよー。久しぶりに恋バナしてました!」
休憩室に入って来たゆかりは、オフィス近くにあるカフェで何か買って来たらしい。軽食とコーヒーを手に、砂川の向かいに座って楽しそうに話し始めた。
「恋バナ?やっぱり大学生みたいな事してたんだな。真夜中まで話してたんだろ?」
「そうなんですよ!何か楽しくなっちゃって。あ、でもお酒は控えめでした!」
いつもより少し楽しそうなゆかりを見ながら、杏里は自分のコーヒーを飲む。眠気覚ましのつもりで買ったのだが、口の中に広がる苦みはやはり苦手だ。
「二人共幸せになろうって話をして、先に結婚した方が後で結婚した方にご祝儀奮発するって約束したんです」
「逆じゃないのか?」
「変に焦らなくて済みそうじゃないですか?」
へらりと笑ったゆかりは、サンドイッチを取り出して美味しそうに頬張り始める。マヨネーズが口元についているが、杏里はそれを微笑ましく眺めた。
「砂川さんも参加しません?独身でしたよね」
「俺も?彼女すら何年もいないのに…」
「え、意外ですね。モテそうなのに」
「何か違うって言われて、付き合う前に振られるんだよ。勝手にイメージ作られても困るんだけどな」
肩を竦めて笑う砂川に、女子社員二人は意外そうな目を向ける。
モテそうな男だというのにそんな事を言われるなんて、何か困った趣味でもあるのだろうか。
「…何か、あるんですか?イレギュラーな趣味とか」
「松本、本当遠慮なくなったな」
乾いた笑いを漏らすと、砂川はこほんと小さく咳払いをして一瞬口を噤んだ。
「…笑うなよ?」
「何ですか?」
興味津々な様子のゆかりがサンドイッチを置き、テーブルに身を乗り出した。
杏里も何となく気になり、ゆかりと一緒になってテーブルに身を乗り出すと、砂川も少し顔を近付けて小声で言った。
「男性アイドルのファンなんだ」
「えっ」
口元を抑えて驚いたゆかりは目をキラキラと輝かせる。どのグループのファンなのだと聞きたそうにしているが、砂川は恥ずかしそうな顔をしながら座り直してしまった。
「あの、因みに誰の…」
「…ふぁんでみっくの…蒼」
「同担!」
テーブルに置かれていた砂川の手をガッと掴み、ゆかりは目を輝かせる。
ふぁんでみっくとは、数年前から大人気の若手五人組男性アイドルグループだ。
デビュー当時からゆかりがハマり、蒼という名のセンターメンバーが最推しである事も知っている。
切れ長の目が特徴で、ダンス中に時折見せる流し目が最高にセクシーだと騒いでいるところも何度か見た。
「え、え、砂川さんでみだったんですか?!」
「声が大きい!でみって事は…山内もか?」
「デビュー当時からのでみです!」
でみとはふぁんでみっくのファンの事なのだが、普段会話の中に出てくる言葉では無い。でみ同士の会話では当たり前の用語が飛び交う会話を聞きながら、杏里は昨晩ゆかりの言っていた「一緒にコンサートに行ってくれる人が良い」という言葉を思い出していた。
「今度のコンサートチケット取れました?」
「行けるか!女の子ばっかりじゃないか」
「男性ファンだっていますよ!」
「そういうのは大抵彼女の付き添いとかだろ?男一人じゃ行きにくい」
「じゃあ一緒に行きましょう!」
「…良いのか?」
目をぱちくりさせる砂川は、目を輝かせているゆかりに手を握られたままだ。邪魔ではなかろうかと居心地が悪くなりながら、杏里は残っていたコーヒーを飲み干した。
「一緒に行こうって約束してた子が行けなくなっちゃって、お譲り先探すとこだったんですよー。良かったら一緒に行きませんか?」「行く。絶対行く」
「やった!じゃあ応援うちわ一緒に作りましょうね!」
「キンブレ持って行って良いか?」
「必須アイテムです!」
コンサートに盛り上がる二人をよそに、杏里は黙って自分のスマホを弄り始める。SNSはいつも通りの平和なTLで、社会人仲間が昼休みにぽつぽつと呟いているようだ。
画面の端に表示されているDM通知をタップすると、ケンケンからのメッセージが届いていた。
—今度の土曜暇?時間あったら出かけようよ
さて、どう返すのが正解か。相談したいが、ゆかりはまだ砂川と盛り上がっている。
既読は付いてしまったし、無視をするのは申し訳ない。仕事が終わったらゆっくり返事をする事にして、杏里はまたTL監視に戻る事にした。
◆◆◆
ほくほくと嬉しそうな顔をしているゆかりは、今日も杏里の隣を歩く。
駅前に用事があるからと、徒歩通勤のくせについて来たのだ。
「買い物?」
「うん!うちわの材料買うんだ!」
「ああ、砂川さんと行くんじゃないんだ?」
「初回だから私が材料用意しておきますって話になったんだよね。次回からは一緒に買いに行くか、砂川さんが一人で買いに行くんじゃないかな?」
昼休みの間に色々決めたそうで、今度の休日にカラオケに集合してうちわ作りをする約束になったそうだ。
「やー、まさか砂川さんがでみだったとは!」
「身近な所にいたね」
「絶対色んなとこに隠れてると思うんだよね、男性でみ」
男性アイドルのファンである事を隠す男性ファンは多いのかもしれない。たまたま砂川がこっそり教えてくれただけで、まだまだ潜んでいる筈、つまり趣味の合う運命の人に出会う可能性はゼロでは無いと拳を突き上げ、ゆかりは鼻歌混じりで歩き続ける。
「もう砂川さんにアタックかけてみたら?独身だし、彼女いないって言ってたし」
「うっ」
「何だーその反応は?何かあるなら吐け!」
ゆかりの肩を抱き軽く揺さぶると、ゆかりは顔を真っ赤にして俯いた。
これは本当に何かあるぞと確信し、杏里はにっこりと微笑みながらゆかりの顔を覗き込む。
「あの…砂川さん、気になってて」
「詳しく」
「去年くらいから、その…良いなって」
「はい連行でーす。酒は昨日飲んだからカフェ行くぞー茶ァしばくぞー」
「えーんご無体なぁ」
肩を抱き、そのまま駅前のカフェを目指して歩き出す。何故昨日言わなかったんだと詰めるのは後にして、意中の相手とのデートの浮かれているゆかりの話を詳しく聞きたい。
普段どこかおっさん染みたゆかりが、見た目通り可愛らしい表情で恥ずかしがっている顔は珍しい。そんな姿を堪能してやろうと、下校途中の学生で賑わっているカフェの扉を開いた。
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