道案内

青樹空良

道案内

 中学校からの帰り道、恵里えりの足取りは重かった。天気までどんよりとした曇り空だ。

 先週までは、こんなじゃなかった。不安はあったけれど、世界はこんなに暗くなかった。周りには友達もいたし、学校に行くのも楽しかった。

 だから、二学期の途中からの引っ越しなんか反対したのに。両親は新しく建てた家に住むのが嬉しくて浮かれていたけど、中学生はそんなに簡単じゃない。

 もうすぐ転校してから一週間が経とうとしているのに、恵里には親しく話せる人がいない。当たり前だ。二学期の途中なんて、もう友人関係も出来上がってしまっている。今からどこかのグループに入るなんて絶望的だ。

 恵里の視界には、さっきから地面しか入っていない。顔を上げるのも面倒だ。

 ため息をついて、恵里は顔を上げた。


「ん?」


 おかしい。どこで角を曲がり間違えたか。いつの間にか知らない景色の中にいた。

 迷った。

 背中から、ぞくぞくと不安が上ってくる。

 迷子になった。

 戻れば大丈夫。そうだと思いたい。元来た道を引き返す。しかし、覚えている景色は見えてこない。

 ぼんやりとしていて、景色なんてほとんど見ていなかった。

 ここはどこだ。

 さっきまで同じ学校の生徒がぽつぽつと歩いていたのに、今は誰もいない。恵里がぽつんと立っている住宅街はとても静かだ。

 その場にへたり込みたくなった。むちゃくちゃに歩いていたら、家まで辿り着けるだろうか。前に住んでいた町と違って、引っ越してきたこの住宅街は似たような家が建ち並んでいて、道もどこを通っても同じ道のようだ。目的地まで行ける気がしない。

 最悪だ。

 帰りたい。

 今住んでいる家じゃなくて、前に住んでいたところへ。

 絶望する恵里のすぐ近くから、がさりと音がした。音がした方へ目を向ける。


「みゃ~お」


 よく通る鳴き声が響いた。艶やかな毛並みの黒猫が、垣根の下から出てくるところだった。


「……びっくりした」


 黒猫と目が合う。可愛いというより、堂々としているという言葉が似合うような猫だ。と言っても太っているわけではない。羨ましいくらいにすらりとしている。

 黒猫はじっとこちらを見ている。

 ふっと視線が外れる。そして、ゆったりと歩き出した。優雅だ。

 その後ろ姿に、猫にまで置いて行かれるような気がしてしまう。せっかく動くものが見えて少しだけ安心できたというのに。

 くるりと、黒猫が振り返った。綺麗な黄色い瞳で恵里のことを見る。それから、再び歩き出した。


「ついて来いって、言ってるの?」


 小さな背中がそう言っているように見えて、恵里は黒猫を追って歩き出した。

 黒猫は恵里を先導して堂々と歩く。時折、立ち止まってちらりと振り返る。恵里がついてきていることを確認して、また歩き出す。

 もう、どこを歩いているのか全くわからない。けれど黒猫がいてくれるおかげで、さっきまで感じていたどうしようもない孤独感は無い。

 まさか家まで案内してくれたりして。

 そんなことを思ってしまうほど、黒猫は頼りになるように見える。足取りが少しだけ軽くなる。

 全く人が通らないと思っていたら、前から人が歩いてきた。犬を連れている。黒猫は犬なんか全く気にせずに、変わらない足取りで歩いている。

 羨ましいくらい図太いみたいだ。ほんの少しでも、その自信をわけて欲しい。そうしたら、転校くらいで悩んだりしなくて済む。

 犬の散歩をしている人が近付いてくる。私服を着た中学生くらいの女の子だ。女の子は恵里のことをじっと見ていた。


「あれ?」


 女の子が声を上げた。恵里の横で立ち止まる。恵里は女の子の顔を見た。なんとなく、見覚えがある気がする。


「えっと、確か、転校生の……水谷みずたにさん、だったっけ?」

「……うん」

「あたし、ほら、同じクラスの村瀬むらせだよ」


 と言われても、まだクラスの人の顔も名前もほとんど覚えていなかった。


「あ、猫」


 村瀬さんが恵里の足下にいる黒猫に目を向ける。


「水谷さんちの子?」

「さっき会ったばっかりで、知らない猫」

「へえ、君可愛いね~」


 黒猫はツンとすました顔をして座っているだけで反応しない。村瀬さんの犬は穏やかな性格のようで、猫に吠えたりせずにおとなしくしている。

 村瀬さんが手を伸ばして黒猫を撫でようとする。黒猫はするりと体をくねらせて、撫でられるのを回避した。


「ああっ」


 残念そうな村瀬さんの声を聞きながら、これはチャンスなのではと考える。

 黒猫が本当に恵里のことを道案内してくれているとは限らない。むしろ、さらに迷ってしまうことも考えられる。

 恵里が道を聞こうとしたとき、村瀬さんの方が先に口を開いた。


「そういえば、なんでまだ制服?」

「ええっと……」

「あ、もしかして、迷子」

「……うん」

「この辺、慣れてないとわかりにくいって言うもんね。目印とか教えてくれれば案内できるかも」

「ありがとう!」


 本当に助かった。

 村瀬さんは毎日犬の散歩をしているらしく。この辺の道には詳しかった。少し説明しただけで、すぐに家の位置をわかってくれた。

 あれだけ迷っていたのが嘘のように、五分もかからずに家へと辿り着く。黒猫はきちんと家へ帰り着くか心配してくれているのか、後ろからついてきた。


「本当にありがとう。一生家に帰れないかと思ってた」

「あはは、そんな大げさな」


 村瀬さんが笑う。


「でも、よかったね。ちょうど通りかかって」

「うん」


 恵里は足下の黒猫を見る。そして呟いた。


「君の、おかげかな」


 黒猫は、にゃん! と一声、なんとなく偉そうに聞こえるような声で鳴いた。


「じゃあ、また明日ね」


 バイバイ、と村瀬さんが笑いながら手を振る。


「うん、また明日」


 恵里も答える。

 また明日。

 引っ越してきてから、初めて使った言葉だ。ちょっと嬉しい。

 角を曲がる前に、村瀬さんが振り返ってもう一度手を振った。恵里も振り返した。村瀬さんが見えなくなる。


『よかったな』


 声が聞こえた気がして、下を見る。そこには黒猫しかいない。


「……空耳、かな」


 黒猫にはお礼におかかご飯を進呈した。食べ終わると、黒猫はさっさと去って行こうとした。


「ありがとうね!」


 慌てて声を掛けると、黒猫は一度振り向いてよく通る声で鳴いてから、尻尾を揺らしてゆったりと歩き出した。

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