第29話 侍女オリーヴィアは断らない

 すべての会議が終わった後、オリーヴィアはヴィルフリートに連れられて王の間を出たが、すぐに「待て、ヴィルフリート」とフロレンツが追いかけてきた。


 呼び止められたのは自分ではなかったが、つい振り向くと、その目が自分を見ていることに気が付く。さては、と用事を予感するより早く、ぐっと力強く肩を抱かれた。


「何か用ですか、兄上」

「何か用か、ではない、アインホルン王国の王女殿下に対して失礼だろう! その手を放せ、ヴィルフリート」


 やっぱり……。変わり身の早さに呆れるオリーヴィアに気付いていないのだろう、フロレンツは最大限誠実な表情を取り繕い「大丈夫か、オリーヴィア」などと白々しく言ってのける。


「ヴィルフリートの婚約者のせいで酷い目に遭ったな。少し痩せたのではないだろうか、すぐに食事や着替えを用意させよう」

「お言葉ですが兄上、婚約者です」

「お前の婚約者であったときにしたことに変わりはない。それより、いい加減にその手を放せ」

「お構いなく、フロレンツ殿下。ヴィルフリート殿下はよろめいた私を支えてくださったのです」


 そっとヴィルフリートの手を剥がすと、まるで拗ねた子供のような顔をされた気がしたが、気のせいだろう。オリーヴィアはそのままフロレンツに、アインホルン王国王女としてのお辞儀をする。


「お引き留めいただきながら恐縮ですが、私はこれからアインホルン王国王女としてヴィルフリート殿下と和平協議をする必要がございます。お話はまたの機会に」

「ああ、まあ、そうだな、外交の話は早くしておくに越したことはない。しかしオリーヴィア、私達の話も先にしておくべきだと思わないか?」

「何のお話でしょう」

「無論、私達の婚約の話だ」


 ヴィルフリートの手の中でカチッと剣が動いた。ふざけたことを抜かすその口を今すぐ叩き切ろうか、そう思っているのが見えるようだったし、まさしくフロレンツのふざけた口上もあって、オリーヴィアはふふっと笑いを零してしまった。


「私の勘違いでなければ、私とフロレンツ殿下との婚約の話でしょうか?」

「もちろん、そのとおりだ」

「お言葉ですが、一体何を話し合う必要がございましょう?」

「もちろん、それが誤りであったという話だ」

「兄上、今ならその首を置いていけばオリーヴィアへの不敬を許しましょう」

「おやめください、ヴィルフリート殿下。フロレンツ殿下はこうおっしゃりたいのでしょう?」


 本当に、なぜヴィルフリートと血がつながっているのか不思議でならないほど愚かな皇子だ。そんな感想を顔に出さないようにしながら、微笑んでみせる。


「『婚約破棄した理由は、私が皇妃にふさわしい身分でないと勘違いしたから。しかし、アインホルン王国の王女と判明したいま、その理由はない』と」

「そのとおりだ。さすがオリーヴィア、君ほど賢い女性を私は知らない」


 この皇子は恥を知らないのか、それとも記憶喪失なのか。本気で後者を疑いたくなるほど、オリーヴィアは呆れてしまった。婚約していた頃は何を言っても意味が分からないだの女が口を出すことじゃないだの言っていたくせに、相手が王女と分かればこれだ。


「ご心配なく、フロレンツ殿下。4年前の件についてはきちんと記録がございます、私が“アーベライン侯爵の実子でないから”婚約を無効とする、と。私の実父はマインラート・モント、アインホルン王国国王ですので、確かに私は“アーベライン侯爵の実子”ではございません」


 こんな時に備え、記録の書き方は万全だ。“侯爵令嬢ということになっていたが実は庶子であった”なんて書き方をされていては、婚約無効の理由に誤りがあったとして、まさしくフロレンツが言い始めたように、その手続は無効であったなどと言われかねない。だからその文言は慎重に選んだのだ。


 もちろん、本来ならばオリーヴィアがそんなことをできるはずはない。フロレンツが雑務をすべて臣下に丸投げし、それをヴィルフリートが横から掻っ攫い、さらにそのヴィルフリートがオリーヴィアに仕事を手伝わせてくれていたお陰だった。


 フロレンツはその言葉遊びを理解できず、一瞬間抜けに口を開けた。


「……しかし……、しかしだな、その、本質は違うだろう」

「本質ですか。婚約無効となった後、殿下はすぐさま次の婚約者をお決めになり、私に会うたびに咎人が王城に出入りするなとご忠告くだいましたが、それが殿下の本質ではないでしょうか」


 誰よりも上辺の爵位しか見ていないフロレンツが本質的なことを誤っていたなどと婚約無効の無効を求めるとは。まさしくその口上にこそ本質的な誤りがある。さすがのオリーヴィアも笑い飛ばしたくなった。


「フロレンツ殿下、殿下とオリーヴィア・アーベラインの婚約無効は問題なく手続が済んでおりますので、私と殿下は今までもこれからも全く無関係の他人でございます。どうぞ安心してフリーダ様と添い遂げなさいませ。もっとも、東国にはこのようなことわざがあるそうです、二兎を追うものは一兎も得ずと……フリーダ様と婚約しながらうまい具合にカーリン様に乗り換えようとするのはあまりに強欲ではなかったでしょうか」

「な、んの話だ、私は別にカーリン・ブーアメスターとは何も……」

「それから、私は愚鈍な皇子殿下と婚約する気は微塵もございません」


 もう一度下げた頭を上げたとき、王の間から出てくるフリーダが見えた。目の前で右往左往しているこの皇子は、自分が婚約破棄される側になろうとは夢にも思わないのだろう。しかし、欲深い自らの言動が原因で婚約破棄されるのだから、いくらフロレンツの弱い頭であっても納得できるはずだ。


「これで失礼いたします」


 オリーヴィアがフロレンツ第一皇子・・を見たのは、それが最後であった。




「……オリーヴィア、座ったらどうだ」


 ヴィルフリートと二人きりで執務室に戻ったオリーヴィアは、いつもの癖で執務机の横に立ってしまった。しかし考えてみればヴィルフリートに解雇されたわけではないし、自分は今でも侍女のオリーヴィアのはずだ。


「いえ、私は侍女ですから」

「いやお前はアインホルン王国の王女だろう」


 何を言っているんだと言わんばかりの顔を向けられても、もう十年以上その身分を捨てて生きてきたのだ。今更王女ですとふんぞり返る気にはなれないし……。


「……いえ、殿下、ここでは今までどおり侍女ということにいたしましょう。殿下を前に王女というのはどうにも慣れません」

「……お前が構わんなら構わんが」


 妙な居心地の悪さを感じているのはヴィルフリートも同じらしい。まるで最初の頃――将来の義理の姉弟として出会ったときに戻った気がして、オリーヴィアは笑ってしまった。


「……では殿下、最初に謝らせていただきますね。出自を伏せており、ご迷惑をおかけしました」

「何も迷惑などかけられていないが。お前がラストネームを――アインホルン王国王族と名乗らなかった理由も大体想像がつく、祖国の迷惑となるのを防ぐためだったのだろう。やむを得ない」


 ついさっきフロレンツから馬鹿げた口説き文句を聞かされたこともあり、こちらの意図を口にせずとも汲んでくれただけで頬が緩んでしまう。自分の素性を知ったのはほんの一日、二日前であるはずなのに、よくそれを理解してくれたものだ。


「……さきほどの会議で明らかになったこともあり、私がアインホルン王国王女であることは近いうちに帝国内に広まり、そのうち祖国にも届くでしょう。そうなれば、殿下のもとに留まるのはご迷惑かと存じます」


 そしてきっと、ヴィルフリートはオリーヴィアが去ることにも理解を示してくれる。そう確信しながら頭を下げた。


不肖ふしょうオリーヴィア、これにてお暇をいただきたく存じます。この度は休みではなく、退職です」


 いつしか、コルネリウスに会うために休暇をもらいたいと申し出たときのことを思い出す。あのときのヴィルフリートはどこかぼんやりしていて、休みなどやらんと憤慨し、かと思えばあのときは勘違いしていた(寝ぼけていた)と白状した。


 しかし、今度は逆。正真正銘の退職願だ。


 ヴィルフリートはしばらく黙り込んだ。いまさら考えることなどないのに何をそう考えるのだろう。


「……構わん。好きにしろ」


 もう一度、オリーヴィアは頭を下げた。


「……3年――いえ、もう4年になりましょうか。殿下にこの命を救っていただき、また侍女として使っていただき、誠にありがとうございました」

「侍女としてこき使われてありがとうも何もあるか。……お前が祖国へ戻ることに関する書簡はコルネリウスに渡しておいた。詳しいことはヤツから聞け」

「……最後までありがとうございます」


 オリーヴィアがアインホルン王国へ戻るに際し、それを無条件で認めること、和平交渉の材料としないことは先程の会議で明らかにされていた。貴族の中には異を唱える者もいたが、もともと人買いに売られやってきたオリーヴィアは本来帝国で保護すべきであったのであり、かこつけて王国の弱味につけこむべきでないと、ヴィルフリートは非合理的なほど人道的な意見で退けた。


 カーリンとブーアメスター侯爵に対しては――その処遇は決まっていないものの――“氷の皇子”にふさわしい態度で接していたというのに。らしくないヴィルフリートの判断を思い出し、笑みを零してしまった。


「……なにがおかしい、オリーヴィア」

「……いえ。相変わらず殿下はお優しいというお話です」

「そんなことを言うのはお前だけだ」

「カーリン様も同じことをおっしゃっていませんでしたか?」


 何度か立ち聞きしてしまったのですが、と小首を傾げると、ヴィルフリートは少しバツが悪そうに口を尖らせた。


「……あれはカーリンの勘違いだ。あの女は勘違いが多いのだからいちいち真に受けるな」


 そういえば婚約も誤って二度踊ってしまった結果だったと聞いた。どうやらヴィルフリートと自分の間には様々な行き違いがあったらしい。


 様々な――。思い返していたオリーヴィアは、ブーアメスター侯爵の横領事件、自分の投獄、カーリンとの婚約破棄ともろもろに忙殺されて大事なことを忘れていたと思い出した。


 こうしてはいられない。オリーヴィアは素早くお辞儀をする。


「では殿下、私はコルネリウスと共に今後の算段を話し合います。殿下は対価なくと仰いましたが、私は父――アインホルン王国国王にまみえ、和平交渉の譲歩、ひいては帝国・王国間の同盟を上申いたしま――」

「その前にお前の返事を聞いていない」


 その顔を上げたとき、ヴィルフリートは目の前に立っていた。いつの間に動いたのか、オリーヴィアが目を白黒させる間もなく、その指に顎を掴まれた。


「で、殿下?」

「忘れたとは言わせんが、もう一度言うぞ。俺はお前を恋しく想うようになって久しい」


 ボン、とまるで爆発したかのようにオリーヴィアの頬が一瞬で朱に染まる。


「お前が望むならアインホルン王国に帰るのを止めることはしない。だが、お前が構わないのであれば、このまま帝国に――俺の隣に残ってほしい。兄上の婚約者でも侍女でもなく、俺の妃として」


 フロレンツ第一皇子の婚約者として出会って5年、侍女となってはや4年、既に十年近くのときが流れているなかで、その求婚はあまりに唐突であった。


 ヴィルフリートは氷のように美しく鋭い微笑を浮かべる。


「知っているだろうが、婚約と異なり婚姻は取消しも破棄も認められん。俺と婚姻したが最後、逃げるすべはない。そこまで含めてよく考えろ」


 その微笑を前に、熟考することなどかなわなかった。


「考えろと言いながら、逃がすつもりはないのでしょう」


 微笑み返すと、腰ごと体を抱き寄せられた。その心地の良さに目を閉じる。


不肖ふしょうオリーヴィア、一生殿下のお傍におります。今度は妃として」

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