第7話 氷の皇子は夢を見る

「殿下、ただいま少々お時間よろしいでしょうか?」


 勤務時間中以外にやってくることのないオリーヴィアの突然の訪問に、ヴィルフリートは威厳も忘れて飛び上がるところだった。


「構わん、なんだ」


 そのオリーヴィアは、これまた珍しいことに髪を下ろしていた。


 ヴィルフリートは、目の前に銀世界が広がるような美しく長い髪に見惚れると共に、オリーヴィアがフロレンツの婚約者だったときのことを思い出す。あの頃のオリーヴィアは、仕事の邪魔と言わんばかりに髪をぴちりとまとめることもなく、しかし今と同じくそっと一凛の花を挿してその身を飾っていた。


 美しい容姿ながら、それを誇示こじすることなく、第一皇子の婚約者として最低限に着飾るのみ……。あの頃から、オリーヴィアはちっとも変っていない。


「殿下、不肖の身ながら、私を長くお手元に置きお世話をさせていただいたこと、誠に感謝申し上げます」

「なんだ改まって」

「常々申し上げなければと思いながら、その機会に恵まれず口を噤んでいたのです。婚約破棄されたあの日、私は首を刎ねられる運命にありましたが、殿下がとりなしてくださったお陰で生き延びて参りました」


 そっとお辞儀をするオリーヴィアに、ヴィルフリートは胸の動悸を感じた。よく見れば、オリーヴィアはいつもの地味なメイド服ではなく、コバルトブルーのドレスに身を包んでいた。


 雪のような髪によく似合っている――とヴィルフリートは思ったが、口には出さなかった(出せなかった)。


「……あのときに言っただろう。責任を取らせるために首を刎ねるなどまったくもって不合理だ。責任というのであればその身をして従前以上に皇家に貢献してみせるべきである、違うか」

「殿下ったら、お戯れを。それが殿下の優しさであったことくらい、私でも分かります」


 一文目の台詞は昨晩踊ったレディ・カーリンと同じであったが、オリーヴィアに言われるとなぜか腹が立たなかったし、むしろ心が温かくなった。その違いはきっと、オリーヴィアはヴィルフリートのことを分かってくれているからだ。


 オリーヴィア以外にその手を取りたい女性などいない。ヴィルフリートはそっとオリーヴィアに手を伸ばす。


 オリーヴィアは丸眼鏡を外し、その手を待つように目を閉じて。


「というわけでして、殿下、不肖オリーヴィア、誠に勝手ながら、このたび婚姻に伴い、お暇をいただきたく存じます」

「は?」


 が、瞬きした瞬間にオリーヴィアは別の男に腰を抱かれていた――赤髪の騎士だった。しかも腹立たしいことにその顔はグスタフだった。


「先日の夜会で見初めていただいたのです。たくさんいただいた御恩をお返しできず、罪をあがなうこともできず、申し訳ございません」

「いや待て。恩を返せていない罪を贖えていないというのであればまだ侍女でいろ」

「殿下、僭越せんえつながら、その恩と罪は私が肩代わりさせていただきます。我が妻のためですので」

「オリーヴィアがいつ貴様の妻となった!」

「先日の夜会で約束をし、とんとん拍子に話が進みました。オリーヴィアの腹には私の子もおります」

「なんだと!?」


 おかしい、そんなのおかしいではないか! しかしグスタフの顔をした赤髪の騎士は優しくオリーヴィアの腰から腹を撫で、オリーヴィアも愛おし気に同じところに手を当てる。気が動転するあまり、ヴィルフリートは時系列がおかしいということに気が付かなかった。


「殿下、子が産まれましたらご挨拶に参ります。私とグスタフ様の子、きっと愛らしいでしょう」

「オリーヴィアの子はともかくグスタフとの子が愛らしいわけがあるか! おいグスタフ貴様――」

「では殿下、またどこかでお会いしましょう」

「だから待てオリーヴィア! 俺はまだ――」


 手を伸ばし――ハッとヴィルフリートは。目の前に広がるのは休日でも山積みの書類だけだ。


 呆然と机の上に体を載せていると、その耳に、コンコン、とノック音が響く。オリーヴィアによる扉の叩き方だ。ヴィルフリートは慌てて姿勢を正した。


「殿下、ただいま少々お時間よろしいでしょうか?」

「……構わん、なんだ」


 入ってきたオリーヴィアは珍しく髪を下ろしていた。久しぶりに見る銀世界のように美しい髪に見惚れ、ヴィルフリートの口からは言葉が出てこなかった。停止してしまった頭が、オリーヴィアがフロレンツの婚約者だったときのことを思い出す。


 最初は、ヴィルフリートはオリーヴィアのことなどちっとも好きではなかった。兄の婚約者に興味がなかったというのもあるが、衣装の数は必要最低限、ろくに着飾りもせず、愛想よくもせず、ただ第一皇子の婚約者という肩書で王城にいるだけで、侯爵令嬢だというのに身の回りのことは全て自分で済ませ、空が晴れれば花に水をやり、雨が降れば部屋で本を読む。そんなオリーヴィアに興味の湧きようがなかった。


『オリーヴィアと言ったな。何の本を読んでいるんだ』


 そう話しかけたのは、昼寝をしようと出た庭先にオリーヴィアがいて、なんとなくバツの悪さを感じたからだった。


『いま読んでいるのは帝国文化史です、ヴィルフリート殿下』


『帝国文化史? そういえば最近流行りらしいな』


 読む書物といえば戦争の記録か兵法書と相場が決まっていたヴィルフリートは、怪訝な気持ちでただ反芻し、何も考えずにコメントした。


 しかしそのコメントが妙に的を射ていたらしく、オリーヴィアはその目を輝かせた。


『そのとおりでございます。我が帝国とアインホルン王国は隣接しておりますでしょう? 我が帝国の文化はアインホルン王国からの奔流があってこそですが、実は古典古代の文化は一度失われてしまっているのです。それを再度復興しようというのが殿下のいう“最近の流行り”なのです。これは戦や宗教にも関わることですが――』


 他で見ないほどの熱弁を振るわれ、ヴィルフリートはしばし口を挟む間もなく唖然としていた。もちろん昼寝をしに来たことなどすっかり忘れていた。


『……文化や歴史が好きなのか』


『特にそういうわけではございません。しかし、物を学ぶというのは面白いことです』


『面白いか?』


 ヴィルフリートは家庭教師も舌を巻くほど要領がよかったが、勉学を面白いと感じたことはなかった。


『殿下、物事に周囲のものと全く独立したものはないのです。ある時代にはそれを背景とした文化があり、発展した文化は生活水準を変え、高くなった生活水準は教会を変え、立場を強くした教会は国を変え、大きくなった国は戦を起こして国境を変え、そうして時代が変わり、また文化が変わっていく……この世界はすべて繋がっているのです。そう考えると面白いでしょう?』


 春の花が咲いたようにその顔をほころばせ、オリーヴィアは嬉々として別の本の題名を紹介した。


『しかし残念ながら、私達が本を読む頃、そこに書かれている話はいささか古い話となってしまっているものです』


『まあ、本を作るには時間がかかりすぎるからな。その厚さであれば6ヶ月はかかるだろう』


『そうでしょう。文化や技術は日進月歩ですから、6ヶ月も経てばそれは昔話です』


 だから城下に出て旅人や商人の話を聞くといいのだ、とオリーヴィアは嬉しそうに話した。


『各地を旅してまわっている方々ほど新しく興味深いお話をご存知の方はいらっしゃいません。そういった方々からお話を聞くと大変勉強になりますよ』


『まあ、我が帝国が他国より優れているという保障はないからな。他国のことを学び、足りないものは積極的に受け入れていくべきだ』


『そのとおりなのです、殿下!』


 嬉しそうに相槌を打つオリーヴィアに、ヴィルフリートも嬉しくなった。


 大抵の臣下にそう話しても「いやいや、我らがフェーニクス帝国に他国に劣る点などありませんぞ、ホッホ」と笑い飛ばされるだけだったし、いざ他国の技術を取り入れると「なるほど、奇怪な技ですなあ」と首を傾げられるだけで張り合いがなかった。


 その点、オリーヴィアは違う。第一皇子の婚約者になり左団扇ひだりうちわで悠々自適に遊んでいるのかと思っていたが、日々貪欲なほどに政治経済の勉学、それも実地での吸収に励み、その装飾品類が新しくなっていることなどない。そして自分と同じように、いまの帝国の地位に驕らず、十年先百年先を見ようとしている。グスタフを除けば、そんな相手は初めてだった。


『だから旅人の方には積極的に宿を提供させていただくのです、そうすれば噂を聞いた他の他の旅人も帝国を訪れるようになり、新たな風を吹き込んでくださいますから』


『いい考えだな、未来への投資といってもいい。商人・旅人が格安で泊まることができるよう、宿に補助を出すか』


『名案ですね。減税なり補助金の拠出なり、方法はたくさんありますし』


 以来、ヴィルフリートは昼寝の時間がかち合ったふりをして、たびたび庭先でオリーヴィアと話をするようになった。どこか暗い印象のあったオリーヴィアは、いつの間にか陽だまりのように柔らかく笑うようになっていた。


 そうしているうちに、ヴィルフリートはオリーヴィアの美しさにも気付いてしまった。冬の銀世界のように輝く銀髪に、夕陽のように暖かいオレンジ色の瞳。触れると壊れてしまいそうな儚げな雰囲気がありながら、その性格には芯の強さが見える。


 なぜこんなに魅力的な女性が、兄の婚約者なのだろう。不思議でならないと同時に、どこか理不尽のようなものを感じた。皇位継承順位が同列とはいえ「そうは言っても第一皇子が」と考えるのは分かるが、オリーヴィアを勧められたのが自分であれば喜んで婚約とおりこして婚姻したというのに。


 そんなある日、ヴィルフリートはオリーヴィアを茶会に誘った。紅茶を見たオリーヴィアは、不思議そうに匂いをかぎながら「アルコールの匂いがしませんね?」と首を傾げた。


『最近、遥か遠い東国まで足を延ばした商人と会ってな。お近づきの印にとこれを置いていったのだ』


『……ということは、これはもしや“お茶”でしょうか?』


 フェーニクス帝国ではまだ出回っていないとその商人は話していたが、オリーヴィアは紅茶を知っていた。


『聞いたことがあります、東国では薬として飲まれることもあると!』


『さすがよく知っているな。飲んでみろ、毒見は俺がした』


『殿下ご自身が毒見はおやめください』


 笑いながらオリーヴィアは紅茶を飲み「おいしいですね!」と頬を染めた。ただ同時に「そんなに遠い国からやってきた方がいらっしゃっただなんて……」と、その商人に出会えなかったことを少し残念がった。


『また帝国まで来る予定だと話していた。城下に足を延ばしておけば来るだろう』


 だから共に出掛けよう――と言いたかったのだが、なぜかそれがとてつもなく勇気のいる一言に思えて詰まってしまった。


『……十数日もすれば、その商人も戻ってくるはずだ。だから……そのくらい経ったら……行ってみてもいいかもしれん。顔を見れば分かるから、一緒に来ればいい』


 それらしい理由を並べた甲斐あって、オリーヴィアはヴィルフリートの内心に気付きもせず無邪気に笑った。


『約束ですよ、殿下。楽しみにしておりますね』


 その約束の日を今か今かと待ち詫びていたヴィルフリートは、いつの間にか自分がオリーヴィアにすっかり夢中になってしまっていたことに気が付いた。


 しかし、やがてオリーヴィアの素性が明らかとなり、咎の烙印を捺されたオリーヴィアはただの侍女となった。


 だから、あの日の約束が果たされることはないままだ。


「殿下、聞いておられますか?」

「あ? ああ」


 ぼんやりと思い出に耽っていたヴィルフリートは、そこでやっと我に返った。


 自分は何をしていたのか。目の前にいるオリーヴィアの珍しい姿に胸をときめかせながら、しかし机上に散乱する羊皮紙に視線を移して理解する。


 そうだ、自分は執務中に転寝うたたねをしていたのだ。昨晩の夜会でオリーヴィアが見知らぬ男に言い寄られていたのを見て気分が悪く、苛立ちのあまりなかなか寝付けず、仕方なく仕事をしているうちに朝になり、そこまできてやっと目蓋が重くなり……。


 ……オリーヴィアが見知らぬ貴族と婚姻するというのは夢と現実どちらだったか? はたとヴィルフリートは固まった。


 オリーヴィアがそっとお辞儀をする。


「というわけでして、殿下。不肖オリーヴィア、誠に勝手ながら、しばしお暇をいただきたく存じます」

「誰か暇などやるか! 罪を贖うまで侍女でいろ!」


 夢うつつのヴィルフリートは、その理由が婚姻によるものであり、なおかつ退職を申し出ているものと盛大な勘違いをした。


 ぱちくり、とオリーヴィアは瞬きした。しまった、とヴィルフリートはやっと気が付く。そうだ、オリーヴィアが婚姻するというのは夢のほうであった。


「……そのとおりでございますね。殿下にこの命を救っていただいた身で大変失礼いたしました。どうぞ、このお話はなかったことにしていただき、お気になさらず」

「……いやそうではな――」

「また明後日、いつもどおりの時間にお伺いいたします。失礼いたします」


 オリーヴィアは深々と頭を下げて出て行き、ヴィルフリートの弁解は虚空に消えた。


 その次の日、ヴィルフリートは即座にグスタフを呼びつけた。その顔には既に「面倒くさい」と書いてある。


「なんだその顔は」

「これから殿下に何を言いつけられるか想像に難くないためです」

「そのような顔をしている理由は聞いていない、臣下としてどうなんだと言っている。まあいい、グスタフ、他のどの仕事が止まってもいいから早急に先日の夜会参加者を調べ上げろ」


 夜会は顔パス、誰が来ていたかなど記憶頼りにしかならない。こうしているうちにも刻一刻と皆は参加者のことを忘れていく、早く手を打たなければ。


 そんな焦燥感に駆られているヴィルフリートとは裏腹に、グスタフは予想の外れたような顔をした。


「……参加者ですか?」

「ああ。もちろん覚えのない連中に関しては爵位と容姿も控えろ。これは機密事項だが、特に赤髪の騎士の素性を洗え」

「……なぜですか?」

「俺のオリーヴィアに言い寄っていた輩がいた」

「……オリーヴィア様は殿下のものではございません」

「一拍考えて口にすることがそれか。いいから調べろ」


 グスタフはしばらく考え込んだ。ヴィルフリートと比べてもその頭の回転速度は1・5倍だというのに珍しい。しかし、グスタフが頭を捻るのはヴィルフリートがオリーヴィア関連の無茶ぶりをするときだけだと考えれば珍しくもないかもしれない。


「……承知いたしました、殿下。しかし先にお耳に入れたいことが」

「どこの誰とも分からん男にオリーヴィアを連れ去られること以上に早急に対応すべきことがあるか?」

「……承知いたしました、殿下」


 不承不承といった様子で、グスタフは執務室を出て行った。ヴィルフリートは気を取り直して仕事にとりかかろうとしたが、頭の中にはいつも以上にオリーヴィアのことがちらついて集中できなかった。

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